荷内思考開発所

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野生の勘について

野生の勘について

 

ここずっと疑問だったのだけれど、割合多くの人は「野生の勘」を完全に失っているよのかもしれないという風に見えてきました。
野生の勘が残っていたとしても、その勘を自分の信じる秩序や機構で覆い被せて蓋をして、そのまま忠実に「野生の勘」を無視して行動できる人がような人がとても多くいるのかもしれないな、と思わされたわけであります。

 

自分はわりあい社会で評価される学歴的地盤を持ちながら、ある重要な適性の欠如でろくに社会人としてまじめにやっていけなかったのですけれども、その理由の一つとして、どうしても大きな集団としての組織=社会(シャカイ)に馴染めなかったということがあります。


しかし今回の国内まで波及してきた某騒動を眺めてみるにつれ、どうやら自分には決定的にその才が欠如していたのでやはり無理だったな、あきらめたのは正解だったなと思うようになりました。

 

「野生の勘」と組織としての秩序がバッティングしたときに自分はどうしても「野生の勘」を捨て去ることができない。というか、今、自分がのうのうとして生きているのもある意味過去の「野生の勘」を重視して自分の未来にとって重大だった過去のとある局面で逃げおおせた結果であるので、ある意味これは自分にとって成功体験でもあるわけです。

 

今回のある事を眺め見ていて、どうやらシャカイ人=組織人として組織の中で生きていくにはその「野生の勘」が自分の身の回りに直接降りかかるレベル、自分の人生の長さを左右するレベルで影響がありそうな事柄についても、組織に忠誠を誓って封印できるレベルまで弱体化されていないとならないようなのです。

自分には彼らのような忠実な振る舞いはその場にいてもまずできないだろうなあと思ってしまうし、そりゃ社会性ゼロだよな、と妙に納得してしまった感じでした。