荷内思考開発所

ありがちなことばでありがちなことものを考えてみる

人類が何者なのか、判ってしまった。

3日前ぐらい。

どうして人間は「こう」なのか。諍い解り得ないのか、分かり合うには他者の尊厳を侵害や制限をせねばならず、どうしてかくも集団としてこう、「よくできていて」「不自由なのか」ということを発端として考えこんでいたら、その結果として、「人類は何か」ということ、「他の動物とどうちがって、なぜ自分たちは神の御子であるかのように、(そんなことはないのに)無条件で思い込み、振舞うのか」とか、そういった類のその他のこととか、どうしてそうなのか、「その根拠は何か」ということの、それらしい根源と理由について、納得がいく形で気がついてしまった。

 

端的にいえば、人類社会というのは、相体として、個々のセグメンツが哺乳類の個体レベルの判断力(知性、行動力)をもった状態で、昆虫様の分業型集団を形成しているため、

個々が同じ機能をもって動く小集団の哺乳類よりも一つ次元が違うことが展開できるという構造をした生き物なのだと、こう、文章化してみると案外当たり前のことかもしれないんですが、ふと腑に落ちました。

人間の、他の「同じような知能が高く個体寿命も数十年のオーダーで、同じぐらいの体の大きさで、総合的な筋力諸々もおおきくオーダーレベルでは差異がない哺乳類」とどこが決定的に違うかといえば、個々の持ち前の能力自体には大きな差異はなく、個々の新シンパーツにもたいした個体差はないのですが、脳だか神経だかの内部の、「好み」が非常にセンシティブに個体ごとに異なるので、同じような心身を持ちながら結果として成人になってどのような固体になるかはだいぶ柔軟に可変的であることが違うのではないかと思いました。要するに「何にでもなれる」可変性の部分が大きく幅をもっているタイプの自律判断型哺乳類が、「ヒト」という種族の特性なのではないかと。

何を言ってるかというと、アリはアリの集団社会を作りますが、働きアリと兵隊アリは明らかに別の外観や能力を生まれながらにもっています。その結果の重奏的な分業体制が敷かれ、結果、ただの一匹の個体には出来ないような堅牢なアリ塚をつくり、安定した生存権を形成することが出来ているのですが、ヒトの場合はそのような昆虫ほどの露骨な分業向けの外観や能力の生まれつきの差異はありません。

むしろ、生まれてから、「何者になる(社会の中でどこのポジションになって何をするか)」を後から決め、自発的や外からの要請に応じて順応し、適応して変化していく…そのことが柔軟に可能であるということが、この種の特性であり特異性なんじゃないかと思ったのです。

 

この特性があるからこそ、古来から人々は、自分たちの種を神様の使いであるかのような言説を流布したり、万物の霊長だとか言ったり、人権だとか人間の社会は自然界から既に切り離された確固たるものであり、ほかの哺乳類等の群れとは一線を画して異なる、みたいなイメージで語ってこられたのかもしれないな、と思いました。

大げさだとか、無自覚に自分たちを特別視しすぎていると感じていましたが、あながちそこに真実はなくはなかったのかもしれません。

 

人間個体は他の哺乳類と差はなく同レイヤーのものだけれど、その各々の固体が集まって形成された「人間社会」は一つ別のレイヤーのものだったのかもしれません。
そして、先述のような言説を無自覚に受け入れたり発言したりする人たちは、その、「人間社会というのが一つ別のレイヤーのものである」ということを含め、体感的によく認知していたから、そういうことを自信をもって内面化することができたのかもしれませんね。

 

逆にいうと、個体レベルでの個々の知性とかそういうのは、さして、他の中型~大型哺乳類とはあんまり差はないのではないでしょうか…。