荷内思考開発所

ありがちなことばでありがちなことものを考えてみる

社会はしょせん人が動かしている。

 インターネットを見ていて思うことがある。
「声を上げよう」「社会を変えるように声を上げよう」と、様々な虐げられている分野の人が声高らかに意見をいうようになった。意見というよりは、「現状のここが気に食わない、不備と感じるから改善して欲しい」という要求が多いように見える。もちろんただの観測範囲の偏りのせいかもしれない。

 そしてそれを見るたびに、どういうふうに誰に動いてもらって、そして、誰の権利を少々抑制してもらいつつ均衡に利益を享受できるように「改善」したいのか、その社会像の提案があることは少ないように見えるなあと思う。

 前提として、社会というのはしょせん人が動かしているというのを忘れてはいやしまいか。

 

 神様に不満を述べたら神様が「そうか、わかった」と社会のバランス調整をしてくれるわけではないのだけれど、あまりそういうふうに認識していないんじゃないかと思える。自分の直感的な見方によると、たとえばその社会への訴えかけの結果、誰かの抑圧が一気に解消し、解消を通り越して圧倒的に有益な環境が訪れたとしたら、それの改善のために動いてくれた誰かがいるはずで、そういったどこかの誰かがかわりに縁の下の力持ちになって、彼らにしわ寄せが行くだけなんじゃないかという気がしている。ここでの「動く」は、尽力して、協力して、という意味で使ったけれども、それだけじゃなくて、実際にパワーバランスが変化して、少々その中で立場や位置を「動いて」席を譲ってくれた誰かがいるんじゃないかという意味でも使えるかもしれない。日本語としてはむりくりだけれど。

 もちろん、自分たちを神様のように強靭な存在に見せかけたり、神様ごっこが好きな大人もいる。国や行政、あるいは通信流通金融……というように社会の基盤となるシステムを管理する側とか。

 そこで、この記事を書き始めたときは、「そうはいっても本当の神様はいないのだから、市井の人々の声を上げるのは、相手にしわ寄せが行くだけの行為なんじゃないか」と思っていたのだけれど、「神様ごっこ」をすることを楽しみ、それを自己のアイデンティテイの基盤にする人たちが一杯いる中で、それがちゃんと国や行政…その他、大型組織として、「塵一つない完璧な状態」ではないにせよ、まともに「神様のようなもの」として機能して回っているのなら、それはそれでいいのかもしれない、と思った。記事を書いている今のリアルタイムの思いつきとして。

 

 つまり、
 神様になりたがろうとしてそう振舞っている人たちと、
 神様というものを信じようとしてそこに神頼みをしようとしている人たちの、
 持ちつ持たれつの構造があるのかもしれないと思ったのだ。

 結論は、まだない。