荷内思考開発所

ありがちなことばでありがちなことものを考えてみる

陸戦の戦術を調べていた

陸戦の戦術の基礎本を読んでいた。

第二次世界大戦の各国の陸軍の戦術を解説した書籍である。

分隊~連隊のところあたりの解説あたりまで読了した。

fire and moveという基本戦術の延長にあると書いてあった。

一読二読して思ったのは、これは人間の命を懸けている非常に危険なスポーツだということ。ボクシングやエクストリームスポーツ、非常に危険なバイク競技等でたまに重症や死亡するアスリートが出るが、印象としては集団競技としてそれを非常に危険にしたものという印象が強かった。その頻度が極めて高く、負傷と死亡者を織り込んだ集団スポーツゲームという印象だ。

そのゲームの戦績で国家同士は資源や土地の境界を引いてゆき、交渉をしていくというのが現代社会のベースとなるシステムらしい。

 

なるほど国際法で戦争にまつわる法律があるわけだと思った。

つまり戦闘員ではない民間人を殺傷するのは純粋にゲームのルール違反であるわけなのである。これはゲームなので。ルールがある。

男の命が軽い。なので特に現代日本にはあまりそぐわないスポーツなのだろうなと思った。

 

あくまで陸戦はフィジカルを要したスポーツであるので、女性兵士の参画は現実問題として意味がないものであるのだろうとも思った。射撃競技の性質があるのでその限りでない部分もあるが、女性も男性と同じように同じ前線で戦争ゲームに参加させるつもりなら、その前にスポーツ大会における男女の階級を廃止し、女性も男性のスポーツに参加できるようにしないと筋が通らない。なぜならスポーツとしての危険度としては陸戦のほうがスポーツ競技よりはるかに高いからである。ただそのようなことは当分起こりえないだろう。

 

これが陣取りゲームであり、敵を排除することが目的であるならば、敵を殺傷せずに捕虜に迎えるのでも意味合いとしては同じはずである。実際敵兵を捕虜として捉えて収容施設に送る=ゲームの参加権を剥奪するのと、その拠点の敵兵の勇敢な闘いによる殉死はスポーツ的なゲーム信仰の観点からすると同じことである。多少の英雄譚が付与される等の後進に向けた効果はあるかもしれないが。

 

その土地を略奪するのであれば非戦闘員を含め全員殺傷すればいいだけの話である。それを避けて「戦争」という交渉事をしているのは不思議なことだなあと思ったのだ。

 

日本では広島長崎、東京大空襲など、民間人を無差別に巻き添えにした「戦争」行為が長く記憶に植え付けられた。しかし、調べたところによるとこれは「戦争」という交渉ゲームにおけるただのルール違反である。つまり日本で語り継がれている戦争は戦争ではなく一歩先の虐殺を含むものなのではあるまいか。

まあ、だからどうという話でもないのだけれども。

近況現状報告 

アニメを編集していた。

キャラのみ完成本編(32分) ※背景&撮影は未完
https://youtu.be/U0p8YB2Mkj8

見ての通り全然できていないが、一応自分しかできない特殊なアニメの作り方をしているパートは終わらせたので、あとは「他の人に作業を任せても完成へ持って行ける」ないしは「金でどうにかなる」部分に差し掛かることができた。つまり、自分がやらなくてもいい、替えが利く状態にようやく差し掛かることができたわけで、外からは何も変わっていないように見えるが、大変肩の荷が下りた。

音響の大小等はこれから調整します。

 

思うに、逃げるように別のことに着手したり迷走していたが、逃げたところで自分の課題は終わらないのだ、ということを非常に実感した期間であった。

自分の課題は自分で進めねば、残存状況は、変わらない、ということ。

アルメニアとアゼルバイジャンについて、多分こうなってる

アルメニアアゼルバイジャンの衝突について、おそらくこのようなことになっているのだろうと推察される。

 

1)まずこの軍事衝突はアルメニアの現首相のパシニャン首相の本意ではない。

2)アルメニア内部の別の政治勢力(今回は野党)が勝手に始めたテロ行為があり、それにたいするアゼルバイジャン側の鎮圧である。

3)パシニャン首相側与党が国内の一部野党の暴走を抑え込めれば軍事衝突は終わる。

 

https://x.com/Caucasuswar/status/1704193943984853141?s=20
https://x.com/Caucasuswar/status/1704179561917730835?s=20

 

そう考えた理由 1)について。2023年の初夏にアゼルバイジャンアルメニア両首相は積極的に会合を開いている。停戦は合意しており、そもそも外交チャンネルは正常に機能している。

2)について。実はウクライナの例でも、2022年2月16~19日の間にウクライナ政権とは独立した、ドニペドロフスク州コロモイスキー州長官の私兵集団が砲撃を行っていた。ロシアが進行する以前に先に挑発していたのはウクライナの政権のコントロールを外れていた下部組織であり、当時ゼレンスキー大統領は下部組織がロシアを挑発することを批判する声明を公開していた。

同種のことはコーカサスではよくあり、今回のパターンでも類似性を感じる。

 

よくある偽旗っぽい感じ。

絵とツールについて

自分は3DCGであたりとったものは自分は絵ではなくグラフィック制作物と認識してる原理主義者なので、そもそも既存の絵とされるものの多くは絵だと認識してないんですよね。 自分のアニメのスクショも絵だと認識してないです。絵ではなくグラフィックという名前を付けて認識しています。 あと背景ブラシ素材そのまま貼り付けたり、3DCG自分でモデリングしてないやつは人の借物じゃんって思ってるんですが、それ言うと敵作るので言わない感じです 最近は原理主義者を極めて背景建築風景含め紙と鉛筆定規なしで描く練習を実は裏で毎日やってますが、ある程度描けるようになってくると背景3Dとかに頼ってる人も全員手抜き、クリスタのパース定規使ってるのも手抜き、手抜き手抜き!っていう風に見えてくるので感覚の変化が逆に面白いです。

デジタルのパースグリッドに沿って線を引いて空間を作ることで、その空間に対する理解ができてなくても空間が出現してしまうので、あんまりわかってない(深く考えてない)けど見れるものが充分出来てしまうという意味ではML生成絵と似ている部分もある気はしています。(原理主義者並み感)
この感覚は逆に紙と鉛筆でパースグリッドを作っていき、その上に立体物を置いていく練習をしないと気がつかなかった感覚ではあるので、おそらく多くの方の共感は得辛い感覚かなとは思っています。

深度について_追記

なんか個々のブログにも一瞬載せて、まあ多くの人に忘れ去られてると思うんですが、某アニメを企図して作っていまして、さすがにそろそろ仕上げまで片づけたいんですが、なんですかね、当時の自分はこれ一本でやっていく、これは成功作だと思っていたんですが、今おおむねできてきたものを考えるにこれは失敗作だと感じるんですよね。

自分のいいところなのかよくないところなのか、ちょっと作家としては変わっているところの人等として、利害でしか考えないところがありまして、その損得勘定と利害関係で考える限り、これは失敗作だから構っていてもしょうがないという感想がここ数年否定できない感想としてありました。

当初の自分に決めていた期日は普通に間に合わずに落としたんですが、しかし別に落としたからとして没にする類のものでもなく、そのスケジュール期日自体がそもそも世間的にはかなり無謀の域だったので別に自分が無能だったわけでもダメだったわけでもなんでもないのですが、しかしけじめとして((自分が自分で設定した)納期に間に合わず)失敗したものだから失敗作だという感想はありました。

 

しかしそういうものと違って、なんかこう、やっぱり本来の「成功納期」は自分で引いたそのラインだったんじゃないかと思うことが最近多いんですよね。

というのも、その本来の成功納期から一年後頃に次の作品を作り初めまして、どうやらそれが自分にとっての「アタリ」だったことが確信に至りつつあります。つまり、これが最初で最後の成功作品であり、このシリーズで10年やっていくと信じて疑わなったそちらの作品は自分にとっての代表作としての成功作品ではなく、それは成功につながるための仮定になる礎作品だったということ。まさかの。これはかなり予想外でした。もちろん企図したときは全く想像できていなかった。つまり未来なんてものは空白地点でよくて、そのときに決めた近い将来のそのときへのベストを尽くせばよいということなんだよな。

とかいうことを最近よく思うわけです。

 

作風をひっくり返した裏のようなものが自分が得意でかつ真の需要があり、それは当初描いていたものとは全く別だったという感じ。幸か不幸か、「君にはそういう方が向いているはず」と見抜く慧眼の指導者はいなかった(申し訳ないがこれについては好き嫌い以前にかなり世間の言う「ふつう」の波によって妨害されたのでかなり選択肢として取りづらかったということはある)。指導者ではないが正直それを見抜いた人物はいたが当時の自分はあまり真にうけてはいなかった。

なので自分で試行錯誤するしかなく、その間に時間がたってしまったというのはあるけど、だとするとやはりこの作品は過去のものとして収まるところにきっちり収めるためにやはり最初の約束は果たして意味を感じていなくとも完成&公開にはもっていくべきではあるんだろうなあ。

 

深度と何が関係あるのかっていえば要するに内容とぱっと見のビジュアルの雰囲気を寄せ始めたっていうことです。絵柄だけでなくモチーフそのものも誰が見ても硬派という形の方が「良い」んだろうな、と。わからねえ。