荷内思考開発所

ありがちなことばでありがちなことものを考えてみる

時をかけた憎しみとその発露

2022年6月、国防のためにゼレンスキー大統領よりウクライナの女性を徴兵しようという政策が打ち出された。
これは、国を守るというより、ウクライナ人を滅ぼそうとしているように見える。

かの国には職業女性兵士も多くおり、戦闘向きの女性は既に軍にいるため、そうでない女性を対象にしたものであるためだ。普通に考えて、戦闘向きではない気質の女性層を前線に送り込んだところで役に立つはずがない。

守るべき国民が残っていない状態で身を挺して守る、それはいったい何を守っているのか。かつて国があったという名の名誉か。しかし民が残っていなければその名誉が後世に語り継がれるという保証もなくなるため無益だ。

 

ゼレンスキー大統領のバックには当然米英の政府がいて一体化されているので、これは米英のエスタブリッシュメントの意志であるのだが、純粋なお金稼ぎを目的にしているにしてはいささか悪意があるように見受けられており、その部分がしばらく謎だった。

紛争を長引かせることにより武器を売って儲けるという側面は当然あるが、それだけにしては、その地の人員を皆殺しにするほどの政策を打ち出す必要はないはずだ。

純粋なお金稼ぎが目的であった場合、砲撃による「不慮の死」は当然見込んでいるにはせよ、あえてその地の住人を積極的に皆殺しにしていく理由はないはずだ。少なくとも彼らは自分たちには向かってくる思想の持ち主ではないし、どちらかといえば従順に従う人々であるため、彼らをあえて選別して「殺戮する」合理性も見いだせない。

そこで、歴史をたどってみると、2014年からの今回の騒動を焚きつけたヌーランド国務長官等のエスタブリッシュメントは東欧系の出自らしく、そして、民族的にウクライナ人にかつて虐殺されて散り散りになった(ディアスポラ)人達の子孫らしい。かつてといっても最近の虐殺は第二次世界大戦の頃なので80年前ぐらいの虐殺である。

 

なるほどそういうことなら合点がいった。ロシア系住民のいる地域については割とどうでもよく、むしろ本格的に滅ぼそうとしているのはガリチアウクライナ人の方なのだということなんだろう。

 

 

(続きは参考資料)

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絶対的な不幸は人を幸せにする

今はすごい時代だ。インターネット回線を介してその気になれば世界中の人と友達になることができる。

ロシア?今はVPNというものが普及してるんですよ。

 

さて、本題に入ろう。

これはだいぶ昔の時代だったか、学生食堂で食事をしていたら上から爆弾が落ちてきたシリアの学生の境遇について、思いを馳せたときの話を書いた。

2014年だったか。

 

niiuchi.hatenablog.com

 

そして、いま、特にこれといった理由はないのだが、やり取りしている人の中に、民間人に向けて砲撃が飛んでくる地域の人がいる。昔からマジで民間人に向けて撃ってくるらしい。やり取りしている間にも、地元に迎撃されたミサイルの破片が落ちたといっていた。ミサイルを打つ頻度の割には、意外と民間人の被害者が少なめなのは、かなりの割合でミサイル迎撃が成功しているかららしい。おそらく、迎撃に失敗したのは、センセーショナルなニュースになったクラマトルスクの駅の時のみだろう。

また、州の中央で50名ほどが亡くなったミサイル攻撃についても、ミサイル本体は迎撃されており、その破片による被害が上記の規模だったということだそうだ。着弾していれば規模の違う被害が出たと予想される。

 

じつをいうと、以前からウクライナとロシアの紛争についてはまったく知らなかったわけでもなかった。とはいえ、うっすら聞いていたような聞いていなかったようなぐらいの温度感で知っていた程度である。それは、いま、自分がミャンマーの軍事政権の粗っぽさやパキスタンの政治クーデターについてうっすら小耳にはさんでいるぐらいの温度感と同様の温度感で知っていた程度のものだ。つまり、あまり関心も興味もなかった。どちらかといえば、キリングフィールドの映画や、ポルポト政権など、過去の大事件の方に興味があった。

 

 

ところで、自分がやり取りをしている人周りを見ていて思うのだが、思っていたより不幸ではない、いや、「ふつう」なのだ。

特にやり取りが多めの人について、少し病んでいる感じはするのだが、若い学生といえば大体そんなものといった範疇に収まる感じの、いわゆる思春期的な感じの悩みが多く、当たり前だが興味関心のほとんどは内戦のことではない。学業、友人、家族、人間関係、おおむねそのような程度のことだ。そして、海外のアニメ好きの人とアニメを共通話題として関わっている。住んでいる地域にたまたま砲撃がふってくるだけ。

 

ある意味、以前証拠もなしに自分が想像した、「シリアの学食で食事をとっていた大学生」像に近い。もしかしたら民間人を向けた市街地に向けた砲撃というのは日本の大地震と案外近いニュアンスのあるものなのかもしれない。

 

もう一つ思ったことは、それは今日気づいたことなのだが、彼らは日常の悩みの原因を絶対的な悪に帰着しやすいという強みがあるということに気づいた。

これは、まず普通に生きていたら砲撃がふってくることがない国に住んでいる我々には思い至りにくい見地ではあるが、絶対的に「あいつが悪い」と決めつけてよい悪があるということは、逆説的にその人の精神に開放をもたらすのではないか、ということだ。

 

つまり、ある人がいて、何かしら精神が傷つけられた状態であるとしよう。その人が、「私は可哀想だ、同情してほしい」あるいは「○○が悪いから今私は傷ついているんだ」と言うことでストレスが発散できる状態であるとしよう。

日本人で普通に一見平穏に生きている人が上記のことを言った場合、ほとんど同情は誘えないだろうということが想定される。そして、周りの人を納得させるほど明確な絶対悪も存在しない場合が多い。

たとえば、最近「毒親」という言葉が流行りだしたが、あれは、本人にとっては解脱のための意味も持つ言葉だろう。毒というあえてネガティブな印象を持つ言葉で相手の存在を否定することで、本人たちは悩みのもとから距離をおくことができ、解脱に近づくことができる。しかし、外の人に、「毒親が悪いから今私は傷ついているんだ」といっても、当人の期待するような反応は得ることができるだろうか。おそらく、「ちょっと毒という言葉で親を貶めるのはやりすぎなんじゃないか」と思う人も多いのじゃないだろうか。つまり、本人の主観では絶対悪と信じ込むことが解脱には重要であっても、実際客観的にそれらが絶対悪だったのかといえば、そうではないことが多いだろう。

 

紛争地の無差別攻撃を受けている市民(非戦闘員)の場合はそうではない。

誰が見ても明確な悪がそこにはある。

銃を持っているわけでもないのに、あえて市民のいるところをめがけて砲撃がふってくる。それを撃ったのが外国のテロリストならまだましだが、特にある地域によっては自国の国防軍(と認められている連隊)が撃っているのである。自国の国籍の非武装市民をめがけて殺傷をしてくる国防軍というのは、さすがに「明確な悪」といっても差し支えないのではないか。この点について、かなり多くの人にとっても同意してもらえるのではないかと思う。

 

いま、悪とされている無差別砲撃をしている側についても、俯瞰的な目線で見れば、全体の作戦の成功可能性が上がるという意味で、正義もあるかもしれない。しかし、その場合敵対するべきは、もともとの居住者である非武装市民ではないはずだ。

(※非武装市民Aを守るために、別の非武装市民Bを巻き添えにしてでも「敵」を倒していいものかについては、今回の記事ではテーマの外にあるとし、今回はその議論には踏み込まない。)

 

そこで、話を戻すと、こういった「明確な悪」的な存在に一方的に虐殺されている人たちは、同情を集めやすい。

そうして、多くの人々からの精神的な支持も得やすく、したがって、辛いことを自分だけで抱えることもない。さらにいうと、そこに住んでいる人々にとって、「明確な悪」から被害を受けたのはその人ひとりだけではない。その地域一帯の住民が「明確な悪」からの被害者である。

例えば日本のような国で、何か外部的ない要因から被害を受けて、その結果非常に精神的に弱っている人がいた場合、被害者であるのはその人ひとりだけであることが多い。しかし、そのような地域の人はそうではない。周り全体が同じような被害者なので、その人数分、理解者がいるともいえる。こういった傾向も精神的な傷を修復しやすくなる要因でもある。

 

仮に、ある人を精神的に苦しめる原因が砲撃や虐殺だけではなく、まったく関係のない悩み―すなわちプライベートな家族や友人、恋人のことなどだったとしても―すべての原因を「明確な悪」に転嫁して感情を浄化させることが可能である。

 

今は世界的に情報戦が起きているので、情報の混乱が起きており、事実を知らない人も多くいるので必ずしもその限りではない。しかしそれはあくまで正しい情報が行き届いていないというからであって、本質的には問題にはならないことだ。正しい情報がそのうち行き渡れば、彼らは「明確な悪」に虐げられた無辜の市民という風に多くの人から認知されるようになるはずだからである。

 

これは日本等ではない現象だ。

 

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AIが仕事を奪っていく時代、人間にしかできないこととして最後に残る職能は、「判断する者」としての機能であると思う

人間にしかできないこととして最後に残る職能は、「判断する者」としての機能であると思う。

この記事で書く内容を最初に実感を伴って自分が思い至ったのは今から3年以上前のことだった。当時、記事を書いたか書いてないか、詳細は覚えていないが、おそらく一番自分の中で「これだ」と確信していたことについては、書いていなかったはずだ。

明瞭に覚えているのは、そのあと勤めたゲーム会社において、「やはり最先端ではそうなっていたのだな」という実感を得て、ある記事を投稿した。次の内容である。

niiuchi.hatenablog.com

 

これは、ゲーム会社に入って初めて知ったアイデアではなく、もともと、「おそらくそうであろう」と考えていたことではあった。そのことは記事にもあるはずであると思われる。

そこではあまり明記していないが、自分が最も先立って実感を持ったのは、労働において人間に残された最後の人間にしかできない仕事は「主体的に判断をする」ことになるということだった。

 

このことについてあまり当時は詳細につづっていなかったのは、一つはそういう未来予測を立ててしまうことによって、人間の尊厳の保たれたよりよい未来が訪れうる機会を奪おうとするような発言をあえて自分がするのはそこまで気が進むことではなかった、ということ、もう一つは、当時の社会の機運が熟しておらず、そのときにそのことを指し示しても何を言っているのかイマイチぴんと来ないと感じる人が多いであろうと思っていたということもある。

 

さて、話を戻そう。

現在の勤労におけるベースラインとしての価値観、つまり、「アウトプット(生産性/生産量)」を最大限に出力することで、何らかの生産物を生産し、その作られたものを需要のある所に販売し、売買したお金をもって各々の人々の生活資金に還元していく、という価値観において、ほとんどの機能は機械が代替できる……どころか、機械の方が人間より高精度に需要に合ったプロダクトを高速でアウトプットができるようになってしまうため、人間に頼らないとできないことがほとんどなくなってしまうのではないか、という懸念を表明する人がいる。一方、そのようなことはない、機械化が進んでも人々は新たな仕事を見つけられるだろう、という楽観的な意見を持つ人もいる。

 

自分の見立ては、前者の意見に近い。

もちろん、後者のように、新たな仕事へ移行していくことはできるとは思うが、それには世代交代が必要なのではなかろうか。

世代交代が完了するまでの間、もし今のような形で、機械倫理に規制をかけずに「富と物々交換」を基軸にした、資本主義的な思想を維持したまま技術進歩のペースを下げずに突っ切るのであれば、いずれ、機械より能率が悪くて機械に置き換えられる人間が増えてくるであろう。

 

この価値観を維持したうえで、仕事において、人間にしかできない主体的な価値として最後に残されるのは「主体的に判断をする」機能であるだろう。

 

例を挙げよう。

まず最初に、AIに下記の絵を描いてもらった(図1)。

さいきんのAIは絵を大変うまく描いてくれるので、このぐらいの絵だと一発で「描いて」くれる。絵描きの端くれとして、ボタン一発で生成することを「描いて」と表現されるのはたまったことではない気もするのだが、致し方ない。とりあえず本記事では、わかりやすさのために「描いて」もらったという表現を、ひきつづきとることとしよう。

 

AI自動生成画像例1

(図1)AI自動生成画像例1

 

 

一見、どれもよさそうに見えるが、実際この絵をアイコン等の商品として流用することを考えると、このままで使える部分はあまりない。

まず、頭部と顔のバランスの身に注目し、ぱっと見で顔のバランスが崩れているものを探して分別していこう。

 

下記の図2では、顔のバランスが崩れていて、一目で違和感があるものを赤い角丸で囲んだ(図2)。中段のものは、印象としてはかわいらしい画、左右の目の大きさが異なり、特に、「手前側の」目のアイラインが太くなっており小さい印象を与えているので、西洋の遠近法と逆の感覚を感じさせる絵なので、今回は除外案とした。(※余談であるが、江戸時代の浮世絵は手前の方が小さくなるという逆遠近法で演出するという手法が一般的に流通していたので、広い意味では手前が小さくなるのも間違った絵の表現ではない)

これらを候補案から除外していく。

 

AI自動生成画像例1-赤

(図2)AI自動生成画像例1-赤

同じように、次の例では、そこまでおおきな違和感は与えない者の、目の左右の大きさや後頭部の欠けなど、少々の崩れがあるものを、追加で黄色い角丸の枠でピックアップした(図3)。

おそらく、学習元の絵の点数が少なかったことが原因なのではないかと思われるが、今回の絵では、左右の目の形状が同じではなく、(キャラクターにとっての)左目の形が小さく再現され、ハイライトが抜ける傾向があるようだ。

好みに応じて、これらも、候補案から除外していく。

 

 

AI自動生成画像例1-黄色

(図3)AI自動生成画像例1-黄色

 

 

次に、青丸で、形状の崩れの少ない採用案を提示した(図4)。右下の囲っていないものについては、現状では左目のハイライトが入っていない状態では違和感を感じるが、

人力等でのちほどハイライトを描き足して、目の色を左右で合わせれば、おそらく違和感は減るだろうということで、現状、「積極的に除外するほどでもない」候補案とした。

 

 

AI自動生成画像例1-青

(図4)AI自動生成画像例1-青

 

 

次は、顔のバランス以外で人力で修正をした方がいい箇所についてである。

 

次の図では、いったん、さっきの赤~青丸を消して緑の丸で気になる部分を囲った(図5)。

左上は後頭部が平らになっていることである。実際の人間の場合は、いろんな形の頭部の形状の人がいるので、必ずしも間違っているわけではないが、二次元の理想像を描く分野においては、丸く球状になっていることが正しいとされる。

この、「正しさ」というのは、多分に文化的な側面を含むことであり、絶対的なものではない。(なにせハート形の後頭部の文化圏の人々もいたぐらいなので)

 

左下、右下は、肩、首の形状が露骨におかしいので、ここは何らかの形(パラメーターの修正等あるいは、画像編集ソフトウェア上での編集、あるいは、人力の手描きによる描きなおし等)で追加修正が必須である。

 

AI自動生成画像例1-緑

(図5)AI自動生成画像例1-緑

 

次に、先ほどは挙げなかった部分についてもみていく。骨格の左右の対称性である。

該当部分を黄緑で囲った(図6)。

人間の絵師だったらまずやらないことだが、AIが生成したこの絵においては、肩の方がわだけ見るとそこまで違和感がないが、左右で肩幅や身の厚みや骨格感が異なるという部分が多々、見られる。

このような部分も、これらの絵をベースに実用に使う場合は、どちらかに合わせる、あるいはリデザインをする、などして修正が必要であるだろう。

 

AI自動生成画像例1-黄緑

(図6)AI自動生成画像例1-黄緑

 

ここからは針小棒大な話になる。

 

追加で線の曲率の丸み等が変であるために、変な突起物の印象を与えてしまっているようなところをピックアップした。(図7)

曲率というのは、中学生の数学で習った変化率(線の傾き)を微分したものであり、ようするに二回微分の示すものである。これらの数字が具体的にいくらか、という数値的な直観を常に働かせられる人は多くはないと思うが、あるところに、同じ右向きのカーブを描いている二つの線があったとして、片方は緩く丸い感じ、片方は一部分がシャープにカクっと曲がっている感じ、という線について、人間の目は瞬時に印象としてその差異を的確に認識できる能力を持っているのである。

 

そのような、実用レベルのプロダクトをリリースする際には、機械の計算ミスによる違和感を人間の直感で取り除いていく作業が必要になってくる。たぶんどの分野でも興行っぽいところだったらだいたい同じだと思う。

 

AI自動生成画像例1-紫

(図7)AI自動生成画像例1-紫

 

このような過程で、一見機会が出力したそれっぽいものを、人間にとって違和感がないと感じられるようなものまでブラシュアップしていく、という作業が、人間にしかできない、最後の仕事の一つになっていくのではないだろうか。

 

余談だけれども、今回は服飾については触れなかった。まさに、服飾や装飾、髪型メイク等々……目まぐるしく変わる人間の文化の文脈における「良さ」を理解し、それを的確に落とし込み、「良さ」を仕上げていく、その作業がとても人間らしくて、人間にしかできない仕事、になってくるのだろうと思われる。

 

 

まあこんな感じです。

 

 

 

 

 

 

 

 

ロシアとネオコン

特に詳しくは触れませんが、

大まかな流れは、
アメリカとロシアがゴルバチョフの時代にNATOはヨーロッパ側から東側へ拡大しないと約束をする

ジョージ子ブッシュアメリカ大統領の時代にその約束を破ってウクライナグルジアアメリカ側がNATOに勧誘する
(この時期にバルト三国ルーマニアNATOに加盟)


現在バイデン政権になってからアメリカ側がウクライナNATOに勧誘する

という流れであります。

ウクライナNATOに引き入れるとアメリカ側は何がいいことがあるかといえば、ロシアの首都モスクワをゆうに短距離ミサイルの射程圏内に入れることができます。

 

これはイメージでいうと、北朝鮮の位置より近くに、(なぜか毎回ミサイルが海に落ちる北朝鮮とは違って)東京にある政府に対して本当に敵意をむき出しな人たちが所有する軍事基地を置くことが可能になるようなもの、ということです。

imidas.jp

ところで北大西洋条約機構ってあまり軍事っぽくないネーミングですね。

日本という国家が今後の未来でアメリカやドイツと戦争する可能性を考えたことがあるか

ここ最近、不思議に思っていることがある。

現在は国家というものがあって、各国は主権があり、交渉事を行った場合の意見が一致しない場合、過激な場合では奪い合いが発生したり、戦争というものが起こったりしている。それは現在進行形で起こっていることであり、2020年代戦争が起きていることはまぎれもない事実であり、それを社会常識からはずれている、として異を唱える人はいないだろう。

日本は中国を仮想敵国、ロシアを仮想敵国にして想定していい空気であるにもかかわらず、アメリカやEU(ドイツ)を仮想敵国にするという発想は、思考実験レベルですら行ってはいけないという空気になっているような気がする。気のせいかもしれないが。

 

そもそもの大前提として、アメリカは常に日本を守ってくれて、EUは常に日本の味方なのだろうか?

利害が一致しなかった場合、上述の「中国、ロシア」と同じく、何かしらの日本が不利になりうる交渉や干渉を行ってくる可能性はないのだろうか?

アメリカというのは、今までは共和党ネオコン系)も民主党系もある意味同じ思想をもとにする二大政党が交互に政権をとってくる安定した国であった。しかし、2000年代になってからアメリカという国家の中では本当の意味での主張を異にする二大政党制ができつつある。つまり、どこの団体が政権をとったかで国の方向が180度までとは言わないまでも、150度ぐらいは向きが変わってしまう国になっている。その国が常に安定的に日本を「よき味方だと思ってくれている」保証はどこにあるのだろうか。

同じく、ベネズエラ、ブラジル、そして上に名前の挙がったロシアもそうだ。またかなり顕著な例は1990年代以降の台湾である。面従腹背をしていたトップが入れ替わったことで、国の中に「二大政党制」が誕生し、国家として向いている向きが短期間の間でかなり変わった。そういう国は多くある。カザフスタンもそうだ。

 

また、領土が近接している中国、ロシアは常に日本の敵国であるのだろうか?利害が一致した場合、秘密協定を結ぶことができる相手である可能性はないのだろうか?

台湾も同じような視点で見るべき相手であり、利害はどういう風になっているのだろうかという観点が大事だと思う。

 

中央アジアの話になるが、日本ではあまり報道はされないが、中央アジアの陸路は中国~ロシアの間の上海協力機構でいったんはパワーバランスとして「平和」を維持する努力をするような協定がなされている。

そういうわけで、完全な対立敵国も完全な味方国もいない、というのが本来の世界の地政学的な考え方だと思うが、この観点から見ると、日本の立ち位置というのはどういう風になっているだろうか。

 

敗戦国になり、自力行使する武器は奪われ、武器と一部領土は返還されたが法律に縛られ自由に行使することができなくなり、その後は別の分野で立ち上がるべく技術立国になったが、世界覇権のOSを握ることはできず、実力行使を伴ったかもしれない技術戦争に負けて制裁を受けている最中というふうにもみえなくはないのではないだろうか。

 

あの時「ある種の実力行使」を伴った小規模の人が死をともなう「戦争」が日本で起きていなかったらもしかしたら、マイクロソフトと並ぶ日本語のOSがあったかもしれない。

トランプは戦争はしていないが、任期期間中にイランのスレイマ二はピンポイントで暗殺されているのだ。大規模な戦争になる前に戦争の芽をつぶしたという意味では、それは「準戦争的な作戦」ではあったといえよう。

話は日本のことに戻るが、要するに戦後の日本でもそのような「局地的な準戦争的な作戦」自体はあったようなのだ。

さいきんだってある省庁の役人が電車のホームから落ちたという事故が報道されたが、あれもそういった類の未然に防がれた何か、なのかもしれない。

 

そこで、つまり、日本が仮想敵国にしている国家や団体以外からも「利害が衝突する対象」だと思われている場合、海外の企業で生産されたプロダクトをその生産国以外が推奨すること自体がそもそも外交リスクではないのか?と思うのだ。

 

どこを見渡しても、「○○製の××を国防用に導入した」「△△製の○○を安全用に推奨する」という記事が見えるが、そもそも、国がどこか以前に、海外のものを使っている時点でリスクマネジメントとしてはそもそも論として不十分なものなのではあるまいか?

「日本製の□□を開発した」でなければいけない気がするが、そのことについて、疑問を抱くということすら普通じゃない発想になっている時点で、不思議な世界になっているなあという気持ちがある。

 

 

 

(続きは本記事の注釈事項について)

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twitterとテレパス

どうにも生活習慣がグチャグチャだったので、twitterSNSと携帯(の中の他者とつながる機能)を一日オフにした。

驚くことに、一日でいままで何をやろうと改善しなかったしぶとい生活習慣が改善した。精神病のようなものではなさそうだとうすうす勘づいていたが、その割に「どうにもならない」理由がわからず、正直お手上げで困っていたが、どうやらスマホは正解だったらしい。

 

また、スマホの電波やブルーライトが駄目だったのかといえば、その実、寝る前にいくつかアプリは使っていたが、それ自体に影響はなかったようなので、光や電磁波そのものはあまり関係がないらしい。なんとなくだらだら続けているオフラインの◎×クイズらしい学習系アプリだ。どうやら自分はその刺激をスマホゲームと類似したようなものと認識しているらしい。


そこから推測できたのは、どうやら「人とつながっている」刺激が駄目だったらしい、ということだ。

 

別に何をするでもない、画面の向こうに人間がいる、その気配を察知する、そのこと自体が自分にとってものすごいストレスを与える負荷のもとになっていたらしいのだ。以前、会社組織に就労していた時代(今はフリーなので)周りのデスクに人間がいること自体がストレスだった。喫茶店などでは全員知らない人だからまだいいが、組織に所属していると、「ある程度の顔見知り」が隣のスペースに所狭しと座っているわけである、自分にはそのこと自体がストレスだった。そういえばそうだった。

 

しかし、まさか、物理的にこれほど離れたオンラインの空間ですら、人の気配を察知し、ストレスを認識していたのは意外だった。

書籍を読むことは、過去の人間との対話だから良い、と思っていたが、ただの書物を読むことすら対話と認知してしまうレベルの過剰な想像力、リアリティを感じる能力を、リアルタイムの現実の人間の思考の断片の狭間に置いておくのは、いささか困難なことだったのかもしれない。単純に、リアルタイムの、現場にいる人たちの、ノンフィクションを読み続けるのは、ちょっと自分には刺激が強すぎたらしい。

 

そこで、話は飛躍するが、テレパスということについて、どうやら科学技術を用いて「脳内の思考をリアルタイムに他者と共有する」技術を真剣に開発しているらしきチームや団体がいるようだけれど、それが社会に適用された場合、どうなるだろうか。

ごへいを招くような言い回しではあるが、おそらく、「鈍い人しか生き残らなくなる」と思った。自分は幸か不幸か、人が見ていないようなところまで観察していることがあるし、人がそこまで気にしていないような情報まで追う癖があったり、人がそこまで覚えていないようなことまで記憶する癖があり、またその結果人が考えていないようなことまで考えたりすることがあり、それはいい結果をもたらすこともあるが、その反面、「余計なことを気づく(気づかないでいい余計な面を見ている)」「余計な情報を覚えてしまう」「余計なことを考えている」ことでもある。つまり、長所は同時に短所でもあるのだ。

HSS/HSPだか、ギフテッド(非発達障害系)とか多分そのへん。これは自分で勝手に思っているだけだけど、多分そう。

で、そういう性向というか気質の人間からすると、スマホSNS程度のライトな「脳内思考伝達装置(テレパス装置)」ですら、これだけ疲弊してしまうのだ。ということが分かった。

 

まあ、大したことではないんだけれど、技術の過剰な進歩は人を幸福にするとは限らないよね、って話。

 

 

気づかぬうちに「所有すること」を忘れていた

Web経由のオンラインストリーミングサービス。SpotifyAmazon Music ……様々なアーティストの曲がワンクリックで聞けて便利だ。

そのことにすっかり慣れてしまっていた自分に最近気づく。

昔はCDという媒体で読み込んでいたはずだ。もっと昔はラジカセか。

それまで、街頭で音楽を奏でるミュージシャンの演奏物だった「音楽」は、あるときから、記録媒体に記録された音源という形で商品として市場に流通し始め、ラジカセやMD、8cmCD、そしてCDという形で人々に販売され、「所有されるもの」になった。それが二十世紀の後半に社会に起きた変化の話。

そして、二十一世紀前半にまた音楽を取り巻く環境の構造が変わった。

ある時から人々は音楽を「所有する」ということを捨てた。そして、捨てたことにすら気づかないまま物の所有という概念自体を捨てていた。

 

これは、音楽に限って起きたことなんだろうか。

今後は、音楽以外にも所有することを喪失する現象が起こりうるのではないだろうか、とも。