荷内思考開発所

ありがちなことばでありがちなことものを考えてみる

絶対的な不幸は人を幸せにする

今はすごい時代だ。インターネット回線を介してその気になれば世界中の人と友達になることができる。

ロシア?今はVPNというものが普及してるんですよ。

 

さて、本題に入ろう。

これはだいぶ昔の時代だったか、学生食堂で食事をしていたら上から爆弾が落ちてきたシリアの学生の境遇について、思いを馳せたときの話を書いた。

2014年だったか。

 

niiuchi.hatenablog.com

 

そして、いま、特にこれといった理由はないのだが、やり取りしている人の中に、民間人に向けて砲撃が飛んでくる地域の人がいる。昔からマジで民間人に向けて撃ってくるらしい。やり取りしている間にも、地元に迎撃されたミサイルの破片が落ちたといっていた。ミサイルを打つ頻度の割には、意外と民間人の被害者が少なめなのは、かなりの割合でミサイル迎撃が成功しているかららしい。おそらく、迎撃に失敗したのは、センセーショナルなニュースになったクラマトルスクの駅の時のみだろう。

また、州の中央で50名ほどが亡くなったミサイル攻撃についても、ミサイル本体は迎撃されており、その破片による被害が上記の規模だったということだそうだ。着弾していれば規模の違う被害が出たと予想される。

 

じつをいうと、以前からウクライナとロシアの紛争についてはまったく知らなかったわけでもなかった。とはいえ、うっすら聞いていたような聞いていなかったようなぐらいの温度感で知っていた程度である。それは、いま、自分がミャンマーの軍事政権の粗っぽさやパキスタンの政治クーデターについてうっすら小耳にはさんでいるぐらいの温度感と同様の温度感で知っていた程度のものだ。つまり、あまり関心も興味もなかった。どちらかといえば、キリングフィールドの映画や、ポルポト政権など、過去の大事件の方に興味があった。

 

 

ところで、自分がやり取りをしている人周りを見ていて思うのだが、思っていたより不幸ではない、いや、「ふつう」なのだ。

特にやり取りが多めの人について、少し病んでいる感じはするのだが、若い学生といえば大体そんなものといった範疇に収まる感じの、いわゆる思春期的な感じの悩みが多く、当たり前だが興味関心のほとんどは内戦のことではない。学業、友人、家族、人間関係、おおむねそのような程度のことだ。そして、海外のアニメ好きの人とアニメを共通話題として関わっている。住んでいる地域にたまたま砲撃がふってくるだけ。

 

ある意味、以前証拠もなしに自分が想像した、「シリアの学食で食事をとっていた大学生」像に近い。もしかしたら民間人を向けた市街地に向けた砲撃というのは日本の大地震と案外近いニュアンスのあるものなのかもしれない。

 

もう一つ思ったことは、それは今日気づいたことなのだが、彼らは日常の悩みの原因を絶対的な悪に帰着しやすいという強みがあるということに気づいた。

これは、まず普通に生きていたら砲撃がふってくることがない国に住んでいる我々には思い至りにくい見地ではあるが、絶対的に「あいつが悪い」と決めつけてよい悪があるということは、逆説的にその人の精神に開放をもたらすのではないか、ということだ。

 

つまり、ある人がいて、何かしら精神が傷つけられた状態であるとしよう。その人が、「私は可哀想だ、同情してほしい」あるいは「○○が悪いから今私は傷ついているんだ」と言うことでストレスが発散できる状態であるとしよう。

日本人で普通に一見平穏に生きている人が上記のことを言った場合、ほとんど同情は誘えないだろうということが想定される。そして、周りの人を納得させるほど明確な絶対悪も存在しない場合が多い。

たとえば、最近「毒親」という言葉が流行りだしたが、あれは、本人にとっては解脱のための意味も持つ言葉だろう。毒というあえてネガティブな印象を持つ言葉で相手の存在を否定することで、本人たちは悩みのもとから距離をおくことができ、解脱に近づくことができる。しかし、外の人に、「毒親が悪いから今私は傷ついているんだ」といっても、当人の期待するような反応は得ることができるだろうか。おそらく、「ちょっと毒という言葉で親を貶めるのはやりすぎなんじゃないか」と思う人も多いのじゃないだろうか。つまり、本人の主観では絶対悪と信じ込むことが解脱には重要であっても、実際客観的にそれらが絶対悪だったのかといえば、そうではないことが多いだろう。

 

紛争地の無差別攻撃を受けている市民(非戦闘員)の場合はそうではない。

誰が見ても明確な悪がそこにはある。

銃を持っているわけでもないのに、あえて市民のいるところをめがけて砲撃がふってくる。それを撃ったのが外国のテロリストならまだましだが、特にある地域によっては自国の国防軍(と認められている連隊)が撃っているのである。自国の国籍の非武装市民をめがけて殺傷をしてくる国防軍というのは、さすがに「明確な悪」といっても差し支えないのではないか。この点について、かなり多くの人にとっても同意してもらえるのではないかと思う。

 

いま、悪とされている無差別砲撃をしている側についても、俯瞰的な目線で見れば、全体の作戦の成功可能性が上がるという意味で、正義もあるかもしれない。しかし、その場合敵対するべきは、もともとの居住者である非武装市民ではないはずだ。

(※非武装市民Aを守るために、別の非武装市民Bを巻き添えにしてでも「敵」を倒していいものかについては、今回の記事ではテーマの外にあるとし、今回はその議論には踏み込まない。)

 

そこで、話を戻すと、こういった「明確な悪」的な存在に一方的に虐殺されている人たちは、同情を集めやすい。

そうして、多くの人々からの精神的な支持も得やすく、したがって、辛いことを自分だけで抱えることもない。さらにいうと、そこに住んでいる人々にとって、「明確な悪」から被害を受けたのはその人ひとりだけではない。その地域一帯の住民が「明確な悪」からの被害者である。

例えば日本のような国で、何か外部的ない要因から被害を受けて、その結果非常に精神的に弱っている人がいた場合、被害者であるのはその人ひとりだけであることが多い。しかし、そのような地域の人はそうではない。周り全体が同じような被害者なので、その人数分、理解者がいるともいえる。こういった傾向も精神的な傷を修復しやすくなる要因でもある。

 

仮に、ある人を精神的に苦しめる原因が砲撃や虐殺だけではなく、まったく関係のない悩み―すなわちプライベートな家族や友人、恋人のことなどだったとしても―すべての原因を「明確な悪」に転嫁して感情を浄化させることが可能である。

 

今は世界的に情報戦が起きているので、情報の混乱が起きており、事実を知らない人も多くいるので必ずしもその限りではない。しかしそれはあくまで正しい情報が行き届いていないというからであって、本質的には問題にはならないことだ。正しい情報がそのうち行き渡れば、彼らは「明確な悪」に虐げられた無辜の市民という風に多くの人から認知されるようになるはずだからである。

 

これは日本等ではない現象だ。

 

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