荷内思考開発所

ありがちなことばでありがちなことものを考えてみる

日本という国家が今後の未来でアメリカやドイツと戦争する可能性を考えたことがあるか

ここ最近、不思議に思っていることがある。

現在は国家というものがあって、各国は主権があり、交渉事を行った場合の意見が一致しない場合、過激な場合では奪い合いが発生したり、戦争というものが起こったりしている。それは現在進行形で起こっていることであり、2020年代戦争が起きていることはまぎれもない事実であり、それを社会常識からはずれている、として異を唱える人はいないだろう。

日本は中国を仮想敵国、ロシアを仮想敵国にして想定していい空気であるにもかかわらず、アメリカやEU(ドイツ)を仮想敵国にするという発想は、思考実験レベルですら行ってはいけないという空気になっているような気がする。気のせいかもしれないが。

 

そもそもの大前提として、アメリカは常に日本を守ってくれて、EUは常に日本の味方なのだろうか?

利害が一致しなかった場合、上述の「中国、ロシア」と同じく、何かしらの日本が不利になりうる交渉や干渉を行ってくる可能性はないのだろうか?

アメリカというのは、今までは共和党ネオコン系)も民主党系もある意味同じ思想をもとにする二大政党が交互に政権をとってくる安定した国であった。しかし、2000年代になってからアメリカという国家の中では本当の意味での主張を異にする二大政党制ができつつある。つまり、どこの団体が政権をとったかで国の方向が180度までとは言わないまでも、150度ぐらいは向きが変わってしまう国になっている。その国が常に安定的に日本を「よき味方だと思ってくれている」保証はどこにあるのだろうか。

同じく、ベネズエラ、ブラジル、そして上に名前の挙がったロシアもそうだ。またかなり顕著な例は1990年代以降の台湾である。面従腹背をしていたトップが入れ替わったことで、国の中に「二大政党制」が誕生し、国家として向いている向きが短期間の間でかなり変わった。そういう国は多くある。カザフスタンもそうだ。

 

また、領土が近接している中国、ロシアは常に日本の敵国であるのだろうか?利害が一致した場合、秘密協定を結ぶことができる相手である可能性はないのだろうか?

台湾も同じような視点で見るべき相手であり、利害はどういう風になっているのだろうかという観点が大事だと思う。

 

中央アジアの話になるが、日本ではあまり報道はされないが、中央アジアの陸路は中国~ロシアの間の上海協力機構でいったんはパワーバランスとして「平和」を維持する努力をするような協定がなされている。

そういうわけで、完全な対立敵国も完全な味方国もいない、というのが本来の世界の地政学的な考え方だと思うが、この観点から見ると、日本の立ち位置というのはどういう風になっているだろうか。

 

敗戦国になり、自力行使する武器は奪われ、武器と一部領土は返還されたが法律に縛られ自由に行使することができなくなり、その後は別の分野で立ち上がるべく技術立国になったが、世界覇権のOSを握ることはできず、実力行使を伴ったかもしれない技術戦争に負けて制裁を受けている最中というふうにもみえなくはないのではないだろうか。

 

あの時「ある種の実力行使」を伴った小規模の人が死をともなう「戦争」が日本で起きていなかったらもしかしたら、マイクロソフトと並ぶ日本語のOSがあったかもしれない。

トランプは戦争はしていないが、任期期間中にイランのスレイマ二はピンポイントで暗殺されているのだ。大規模な戦争になる前に戦争の芽をつぶしたという意味では、それは「準戦争的な作戦」ではあったといえよう。

話は日本のことに戻るが、要するに戦後の日本でもそのような「局地的な準戦争的な作戦」自体はあったようなのだ。

さいきんだってある省庁の役人が電車のホームから落ちたという事故が報道されたが、あれもそういった類の未然に防がれた何か、なのかもしれない。

 

そこで、つまり、日本が仮想敵国にしている国家や団体以外からも「利害が衝突する対象」だと思われている場合、海外の企業で生産されたプロダクトをその生産国以外が推奨すること自体がそもそも外交リスクではないのか?と思うのだ。

 

どこを見渡しても、「○○製の××を国防用に導入した」「△△製の○○を安全用に推奨する」という記事が見えるが、そもそも、国がどこか以前に、海外のものを使っている時点でリスクマネジメントとしてはそもそも論として不十分なものなのではあるまいか?

「日本製の□□を開発した」でなければいけない気がするが、そのことについて、疑問を抱くということすら普通じゃない発想になっている時点で、不思議な世界になっているなあという気持ちがある。

 

 

 

(続きは本記事の注釈事項について)

 

余談ですが、自分は現代社会の世界の全体的な構造についてはかなり把握しています。つまり、この記事だけを読むと、「このひとはまだまだ「わかっていない」んだなあ」と失望される余地をのこしてありますが、そういうことではなく、あくまで既存の情報における思考実験の延長で到達できる地点として、「このような全体像」を提示しているのであります。