本編のテーマはこれ(可不)についてです。
音声創作ソフトウェア「CeVIO AI」とのコラボによって実現したプロジェクト、音楽的同位体「可不(KAFU)」の歌声を皆様と一緒に決めていくアンケート実施をお知らせします。
— 音楽的同位体「可不(KAFU)」 (@kaf_you) 2020年10月15日
皆様の御意見を元に、花譜ちゃん本人と歌声を決定したいです!
下記内容をご確認の上、アンケートにご協力をお願いいたします!
■アンケート回答方法
— 音楽的同位体「可不(KAFU)」 (@kaf_you) 2020年10月15日
動画内の音声をお聴きいただき、こちらのフォームより回答をお願いいたします。
沢山の御意見お待ちしております!(可不運営スタッフ)https://t.co/LHDxDWUlB8
■アンケート実施期間
2020年10月15日(木)18:00 〜 10月17日(土) 23:59 pic.twitter.com/dHzSWoc0b9
https://twitter.com/kaf_you/status/1316664861993119745?s=20
https://
花譜の音楽的同位体「可不」について、今の私の気持ちをお話します。#花譜 #可不 #KAFU #CeVIO #KAMITSUBAKI_STUDIO pic.twitter.com/z8unJdRnPg
— 花譜-KAF-@1125魔法 (@virtual_kaf) 2020年10月19日
twitter.com/kaf_you/status/1316664861993119745?s=20
一見タイトルとずれがあるようですが、実は同じ話につながっていくと思います。
また、これに類似して、今後、多方面の分野におけるAIの導入によって人々の社会にもたらされることについても、同じような方向性での変化がもたらされ得ることでしょう。
1)ロボット三原則と、それを破ろうとする外部の「人間」
今回目についたのは、「公式がリスクを感じたため控えた」ことにたいして、非難をする外部の人たちです。
機械が人間の可能性を奪わないために、という配慮を決めた版元に対して、ルール(モラル)違反をしてでも悪気なく可能性を奪おうとする人が目に付きました。
実質的には人間の闘争なんだなあと思いました。
2)人間の模倣という意味での技術発展の本質は「人間の身体的素質を割譲して他者に移譲すること」なのではないか?
人間の模倣という意味での技術発展の本質は「人間の身体的素質を割譲して他者に移譲すること」
本稿の核心であるテーマはおそらくこれになります。
タレントとしてのvtuberというのがそもそも特殊ではあったのですが、自分の中では容姿を伏せたタレントという認識でいます。
本人特有の切り替えしやコミニュケーションスタイル、モーションの癖、声をすべてデータ化して再生成ができるようになったら社会的に花譜というタレントの存在意義はなくなります。心があるとかないとかそういうのは外部の人間にはわからないので、タレントとしての花譜には心や自我といったものが本当の意味では存在してなくても大丈夫なんですね。
その時得するのは誰かといえば、機械ではありません。本人ではない他人が花譜という特徴を自在に所有して使うことができるようになります。
他人の声を所有して自在に使いたいという欲望を感じました。
自分の声は自分のものだし各個人は自分に与えられたカードが本来の資源であり、それ以外は「他者の何らかの意思により利用を許可されたもの」でしかないというのが自分の認識です。
自分の声は気に入らないかもしれないけれど本当に自由に使いたいのなら自分の声を使うべきだ、というのが自分の今のところの認識ですね。
人的資源のオープンソースかというのは、今後人的資源を個人が自分の資産として所有するという概念の否定につながるのかな。
(補足 想定される反論)
AIや本件のような自動生成技術が《人間の価値を奪うことはない》《取って代わることはない》という意見や主張も根強いようです。しかし、自分が思うに、そのような平穏で誰の権利も侵害されることのない未来が美しく訪れるのみで済むこともなさそうです。
これは個人的な知見ではありますが、少なくともこの合成音声分野については自分はそのような例を見てきた経験があり、その経験をもって「必ずしもバラ色の未来のみが訪れるわけではない」と、楽観的すぎる未来論を否定することができます。
(補足2 類似の現象)
合成音声の例やAIのほかに、興味深い事例の記事を見かけました。
自分もこの分野について詳しくありませんが、このような例は倫理観の議論を押しやってかなり先行して進んでいくんだなあ、ともともとのこういった技術進歩に対する印象を強化させられるように感じる件でした。もしご興味のある方はご一読されるといいと思います。
個人的には、下記の記事の中の
>ニューヨークにいる人がトルコにいる人やロボットの体を使えるといった空間的な制約をなくすことです。
というフレーズがとくにマッドだなあと思いました。「人の身体」と「ロボットの体」をナチュラルに同列に捉えているように見受けられるところですね。
この方にとっては、50m先の曲がり角の先にいて姿が見えない位置にいる他人と、同じ位置にいたとする清掃ロボットが同列のものとでも感じるんですかね。顔の見えないその他人は一見、ただ立っていて自分の筋肉を弛緩させているだけでその能力を持て余しているようにみえても、「次どのバスに乗ろうか、初めての乗り場だから間違えないように気を付けないと、と軽く緊張していたり」「着ていく服はやっぱりこれでよかったのかと自己反省会をしていたり」「昨日のまったく関係ない友人とのやり取りを反芻してたり」とか色々してたりする個人の自由意思があるのですが。
シェアされた(身体を自分の意思とは別に他人に利用された)側は社会的にどのような層になるのだろうか、ということが気になりますね。今の人間社会の現行制度や浸透している倫理観の基準値から推測すると、パッと思いつくのは身体が頑強な貧困層がお金と引き換えに「自分の身体機能を貸し出す」権利を行使するというイメージがわきますが、これは果たして健全なふるまいといえるのでしょうか。
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