荷内思考開発所

ありがちなことばでありがちなことものを考えてみる

イスラム教について思うこと。

イスラム教の文化圏の人を西洋諸国や日本が移民として受け入れる流れになっているようですが、それについてちょっと整理するべきことがあるように思うことがあります。

 

イスラム教の教義を環境も気候も違う他の風土や文化圏にそのまま持っていくのは流石に無理があるんじゃないかなと感じるのです。

そもそも、今のイスラム教って、本来は「砂漠地帯の環境のもと、懸命に生き抜くための智恵を伝承化したもの」が、形骸化して儀式としてルールだけが残った残骸なんじゃないかと見えるんですね。

なので、「多様な文化に理解を」という切り口で、日本の施設や教育施設等々が逐一対応するのはちょっと違うんじゃないかな、と。

 

たとえば、いくつか、もともとはこういう意図だったんじゃないかな?と思うルールが有ります。


同性愛に厳しい←一夫多妻制を採用しているためパートナーにありつけなかった男性同士の強固な結びつきをあらかじめ抑制するためではないか?

(実際同性愛かはおいておいて)同性同士の密会や密なパートナーシップを摘発する口実になるので、権力者以外の排除された側の男性が徒党を組んで反抗する組織を作りづらくするための仕組みがベースにあって、それが紀律化したものではないか?

 

ラマダン←砂漠気候地帯特有
おそらく、「日中は暑いから動かないほうがいい」という生活の知恵を教義化して生活リズムを夜型にずらすためのものではありませんか?

例えば日本以南のアジアのような台風がしょっちゅう起きているような国で、たとえばそうした災害が来たさいに流通が途絶えた中、食べれるときに食事を抜くのは自殺では?

 

きちんとした時間通りの祈り←モンスーン地帯では無理では?津波が押し寄せ台風で家吹っ飛ばされる中、時間が来たからって律儀に時間通り祈るのか?

むしろ、温帯湿潤機構地帯では、几帳面な人間が災害等に対応しきれず淘汰されがちなのでは?

 

というか、イスラム教の戒律のなかで、移民の移住先の地域で軋轢を起こしがちと聞くものって、「予測できたり、もし起きてしまったら逃げれば助かるタイプの自然災害は起きない」ことを前提にして組まれているように見えるんですよね。時間通りとか全部守りましょうとか。

 

日本で起きるタイプの台風や水害は、起きること自体は予測できない割に起きた後の対策次第で人間は生き延びられるタイプの災害なので、その場の個々人が柔軟な判断ができるかどうかが生存率に響くタイプの風土ベースの文化になってると思うんですね。

だから、もしこの土地で生活するなら「規律だから必ず守る」みたいなスタンスは柔軟化しないとこの土地の風土に根本的に合わないのではないかなと思うわけです。

合わないだけならいいのですけど、日本にそういう風習を追加しようとするのは軋轢を生むだけであまりいいことはないんじゃないかなあと思うんです。

 

というのも、せっかく「いい加減」であるが故に、生存率を上げてくる戦略をしてきた風土に、厳格な規律が浸透してしまうと、この環境においての適応度が下がってしまって生存率が下がってしまう方向に流されるわけですから、結果として弱体化になってしまうのではないか?と。

まあ、そもそもそこまで浸透はしないかなあと思うので大丈夫かなあとは思うんですが、まあそんな感じのことを思った感じでしたー。