荷内思考開発所

ありがちなことばでありがちなことものを考えてみる

正気とは

週に一回~二回ぐらいずつ正気に返っている気がするのだけれど、

その時以外の自分はまあまあ給与所得者として社会適合している感じがする。

 

しかし、ふと、冷静になって考えてみると、やはり自分は流されているだけなように感じるのだ。

うすうす感じていたことではあるけれど、業種や労働内容がどうであれ、自分にとってはこの期に及んでも無条件に「(給与労働者として)働くことは尊いことだ」という価値観は身につかなかったし、正気になると、「じつにくだらないことのために毎日エネルギーを消費しているなあ」という気になるのだ。内省すると、要するにそういうことである。

 

自分にはもっと価値があって、エネルギーを割くべき対象、そしてその対象のほうが世間的にも多分価値はあり、要するに今労働としてエネルギーを割いている対象より、よりよいアウトプットであることも確かで、もうこれは確証に近いものがあり、しかし現実の僕の身体は、目の前の瑣末なことに拘束されて準備も前進もアウトプットもままならない。

 

正気じゃないときは、「金銭的に購買される」とか、要するに「売れる」とか、「今すぐの目先の利益が出る」とか、「人から感謝される」とか「社会的地位がある」とか「肩書き」とか、そういうことにだってそれなりの意味と価値観を見出すような気分になることはできるけれど、

正気に返るとそういうのは心底どうでもいいなと思うわけです。