荷内思考開発所

ありがちなことばでありがちなことものを考えてみる

天賦人権論とは

天賦人権論とは生産力の過剰だと考えています。

ちゃんと言葉を使うとすれば、「人類の生産力の総体が人間集団を維持するのに充分であり、基本的に余裕のある状態」だからこそ、成立する思想かな、と思うのです。

私たち21世紀の人間は、四大文明の形成後に生まれ、さらに中世、近世、産業革命のあとに生まれているはずですから、生まれつき文明がそこにあって「人間だけを相手にしていけば充分食べていける状態」が当たり前のように感じてしまうのでしょうけれど、一生物の集団としてみればそれは決して当たり前のことではないんですよね。

 

たまに人為的な飢餓状態みたいなのを起している節はあるものの、基本的に人間はその余力で文明やら豊かさやら、そして「皆本質的に平等で尊重されるべき」という思想をベースにしているだけなのかなというふうに見えます。

 

沈没船から脱出する客の優先順位の暗黙の共通認識があるように、人間集団が危機に瀕した時にはその「平等さ」が担保される保証はありません。つまり、より守るべき人間、と危険の矢面に立たせてもいい、あるいは、切り捨ててしまっても「しょうがない」人間の優先順位というのも、暗黙のうちに存在してしまっているようにも見えます。

なぜならまだ人間は生物であることを完璧に脱却できているわけではありませんから。

全員が生き残ることが出来ないものの一部の人間だけ生き残れる可能性があるタイプの危機に瀕した時、「全員滅んでしまってもいい」と本当にいえるのだろうか、という話です。

 

この世界はいまのところ充分な生産性があるという前提の元、天賦人権論という基本ルールを元に人間社会は構築されているという前提がありますから、それをベースに考えると、ある提案Aが正しい事になるかもしれません。しかし、そもそもその天賦人権論自体の前提自体が揺らいでいて危機回避(したいという欲求)を前提に提案Bを提示している集団がいるかもしれません。

もしかしたらそちらのBを提示する集団はAの集団と異なる経済基盤や「生存基盤」の上に生きていて、そもそも彼らはAを提示する集団ほどの余裕がないのかもしれない。そういう可能性がある場合、AとBの提案としての対立は、「意見の対立」ではなくて、そもそもの住んでいる人間集団の違いとそれに付随する現実的な解決策(解)の差異である可能性だってありうるかもしれません。

まあ可能性ですけれども。
歩み寄りや理解、それでは本質的な解決につながらないことも世の中にはあるかもしれません。

とはいえここでは、かもしれません論にとどめておきます。

まあ功利主義プラグマティズム)とかあのへんの場でさんざん議論された話かもしれません。(車輪の再発明かもしれませんが、車輪をみたことがない砂漠の中で車輪を構築すること自体は無意味なことだとも思いません。)

 

なんかこんなブログじゃなくて普通に作品の中で描いたほうが面白いことなきがしてきた…。ただ描くべきテーマも描きかけの作品もネームも一杯ありすぎるので、一応いつになるかわからないのでここに書き残しておくことにします。