荷内思考開発所

ありがちなことばでありがちなことものを考えてみる

今わからなくてもいい ~「わかる」の段階と時間軸~

 先ほど、「解る」には二種類の解るがあると書いた。

  ◎論理的な意味で構造が把握できた という解る

  ◎直感に響いたという 解る

 

 しかし、ここには時間軸が含まれていない。

 「解る」という現象の説明については上記の二つでいいと思うのだけれど、

普段日常生活で使う「解った」という概念は、その解るという現象の事ではなく、

その現象をどういうステップで蓄積したか、という事をさすことが多い気がする。

 

 つまり「解った」というのは、「その「解る」という現象をいつでも引っ張り出せる状態にすること」であり、つまり、一旦「解った」ものはその人の中で、糧になる。

 

 何が言いたいかというと、例えば自分が「これは、斬新だ」とか、「これは、ありきたりでつまらない」という評価を、理由を添えて述べていたとしても、必ずしも、読んだ人がその内容を「理解できるようになる」必要はないということ。いや、欲をいえば、論理的、構造的な意味では理解してほしいけれども、感覚的な理解までは他の人には強要はしていないし、それは多分無理である。

 

 それは、能力差とか個人差等の問題ではなくて、単に経験の問題である。

 人は一人一人別の人生を歩んでいて、別の物を見聞きし、別のところに着目し、考え感じ日々を過ごしている。つまり各個人が経験的に蓄積している情報の内容はかなり違う。

 つまり、例えばブロックで家を作る際、指示通りにつくれば誰でも同じデザインの家が作れるような設計図があっても、肝心のレゴブロックのパーツがそろっていなければ、全体像としての家は作れないし、大体家らしきものができたとしても、それは同じになれない。屋根のパーツが欠けてたら、上の部分が開いた直方体のようになってしまうし、窓が無ければ、つねに風通しの良すぎるプライバシーのない物件になってしまう。

 これは、人間の感覚に対しても同じように言えて、同じ「解る(=ある人が書いた設計図通りに作って、だいたいの形が見えるようになる)」ためには同じような経験(=パーツ)をそろえていなければならない。

 

 ここで、経験と書いたのは、「今までここまでは解った」という理解の量も含む、経験である。

 

 そういう意味で、自分と違うパーツをそろえていて、自分の持っているパーツを持っていない(逆にいえば、その人は当たり前のように持っているが、自分には想像もつかないようなパーツがあるのかもしれない)人に「解れ」というのは、そもそも構造的にも無理なのである。