荷内思考開発所

ありがちなことばでありがちなことものを考えてみる

芸術論について

ありとあらゆることは無意味だ。

 

ある作品があるとしよう。

そこには何かを思想を吹き入れた誰かはいないとする。

しかし鑑賞者はつい心を動かされてしまったとしよう。

そんなとき。

鑑賞者はそこに誰もいない、何の意図も意志もないということを受け入れたがらない。

その裏には、心を動かされる芸術を作った人間、あるいは神様の存在を信じていたい。

そういう心理的圧を最近よく感じる。

 

視聴者なり読者なりが、上手く設計図を書かれた自動生成プログラムに思想を感じ、その奥に神を見出すことができるのなら、人間としての作者に意味はない。

 

誰かの作者の願望と思想、渇望と叫び、そういった数々の形にならない思念、息吹。そういったものを流し込まれて型に取られて、小規模なパッケージとして搬出され、商品や芸術作品として陳列され、またとない機会を得て読者視聴者鑑賞者の目の前におかれて、審美される。そのプロセスを得て、鑑賞者となった人は何かインスピレーションを感じ、受取り、考え、そして明日への発想にいかされたりするかもしれない。

かつての芸術というのはそのようなものと認識されていたのではなかったか。

 

そういう共同幻想は確かにあったような気がするけれども、その幻覚は打ち砕かれようとしている。
ほとんどの人はまだ気づいていない。なぜ自分が気付いたかといえばちょっとばかしひとよりパソコンが上手かったということがあるだろう。

あまりによくできた自律論理装置の台頭によって、である。

 

今後芸術というのは、視聴者一人で完結する心の動きプロセスに変わりつつあるような気がするのだ。

 

無意味な世界で、立ち続けるための、自分のための意味を探している。