荷内思考開発所

ありがちなことばでありがちなことものを考えてみる

世のため人のため

世のため人のために何かを成し遂げようと思っていたけれど、「世のため人のために何かを成し遂げようと思ってこれを作っている」というと何を言っているのだというふうな視線に晒される。

 

世のため人のためという抽象的な相手に対して何か善行を行いたいというのは、自身のコンプレックスと満たされなさの裏返しなのではないかという心理学的な指摘があったような気がしてしばらく控えてみた。

 

自分が個人として幸福を得ることを最大化するように心がけてみた。自分がやりたいこと、日常を楽しく生きること、それらの優先順位を上げてみようとした。

日々は楽しくなっていったが、しかしやるべきことは永久に後回しにしてしまっている。理由も良くわからなくなった。世間では趣味だとか楽しみだとか思われているらしい。もうよくわからない。趣味だから、楽しい余暇のことだから、優先順位として後回しにしていいのではないか?いいのではないか?

その場その場の楽しみを優先するばかりに後回しにしていった結果、当初自分で立てていた目標はまだ達成されていないまま刻刻と時間だけがすぎていく。

「今の日常は楽しい。」

わりとそろそろいろんなことが限界であるようで、たいへん限界である。

 

いろいろあって、「規範的なライフコースとしての幸福像」というのは、ある程度提供されているのだけれど、僕は最初からその幸福像にそもそも合致しないということが理解っていたはずだ。わかっていたのに、その規範に無自覚に従うものの声に無批判に相槌を打ちすぎ、耳を傾けすぎていた。


無理である。
もっと彼らと自分は根本的に違うのだと気付いているべきだった。

 

いや、気付いていたけれど半分ぐらいいる普通の人間の感性が惰性のまま社会にあわせることを選択してた結果が今なのではないか?