荷内思考開発所

ありがちなことばでありがちなことものを考えてみる

ロキノン

 

なんとなく成り行きでロックバンドの話を描いているが、じゃあ今、改めてジャズの話を同じように私生活を投げ打ってある種の使命感のようなものを持って取り組めるかといえば、今の自分には無理だろうと思うことがあった。


自分の音楽遍歴として、まず幼少期にピアノ→(勝手に)作曲(譜面書き)→中学時代から吹奏楽金管楽器→大学では金管楽器がジャンル的に参加できるジャズロック→同金管楽器でホーンとして外部の社会人バンド

 

という感じである。エレキギターはしばらく音楽活動自体は休止したあと作画資料として購入したものだし、エレキベースを手にしたのは最近だ。

 

ピアノはあまり好きではなかった。演奏をすることそれ自体は算数のドリルのようだと感じている。しかし、かの楽器の基礎があるためDTMではかなり楽をしていると思うことがあるので、利益不利益は半々といったところであるとも感じている。

 

吹奏楽から入った吹奏楽管弦楽のようなホールでよく響くような音楽は好きだった。臨場感が素晴らしく、たいそう感慨を覚えた。過去形でいっているが今でも

同様に、ジャズもファンクも好きである。他にもニューエイジだってワールドミュージックだってなんだって。

ジャズは好きだが、ジャズを聴いて救われたことはなかった。

 

ふらふら街を歩いてその先で立ち寄った書店の漫画欄の小さなコーナーでおもむろに手にした漫画にあったような、よくわからない「救われ」がなかった。

そもそも、音楽からそのような救われが発生するとは思ってもいなかった。

椎名林檎の「宗教」には、似たような感慨を抱いていたものの、貸しそれ自体は上の空で共感し得ないものだった。

 

まあいろいろあって、距離を置いていた邦ロックに近づくようになるのだが、その後、邦ロックは「恋愛ソング」だけではなく、深みを探ると案外それ以外の歌詞やテーマのものも多いことを知った。

 

そして、その中にそれはあった。

「やってらんねえよクソが」

 

やってらんねえよクソが、である。この社会は欺瞞で、独りよがりかもしれないけれど自分には許しがたくて、にこにことした正しい笑顔はやっぱりクソで、やっぱりクソだクソなんだ肯定していいと、そこには書いてあった。

もちろん、外向きには「まあ作品の中ですので」「本心だとは限りません」と表明するだろう。それでいい。

ただ、少なくとも考えたことがないようなことは表明しようもないわけだから、やっぱり考えたことはある、少なくともチクッと刺さった瞬間は今までの人生にあったんだろうなと思う。
それでいい。

飽きている

自分が企画、シナリオ脚本、コンテ、等をしたアニメを作っていた。
三十分で、作画は完了している。あとは編集や仕上げ作業だけだ。

 

「飽きている」

それが今の自分の状態だ。

おおよそ一生を費やしても、少なくとも10年ぐらいは自分が第一目的として責任感を持って浸れるであろう世界を作ったつもりだった。そのぐらい、深度があり、拡がりもある世界観として位置づけたつもりだった。

 

もうすでに「飽きている」、大変「飽きている」。

 

1.純粋に「大人」になっただけ

 

純粋に、ただ、精神が人より遅く「大人になった」だけなのだろう。

皆がきちんと社会人になる年齢で、僕はまだ子供だった。だから、大人に要求される適度な割り切りや嗜み、そして適度な責任を引き受けることが出来なかった。
端的にいうと自分の頭の中の取り組みがさも素晴らしいことのように思え、外の世界にあったあれやこれやの要求がさも下らないことのように思えた。つまり、いつだって自分の中の優先順位は、「自分の内的世界」>「外の世界の常識や要求、価値感」だった。

 

数年たって、その体感的な優先順位のバランスがだいぶ崩れてきてしまった。

自分の内的世界の発露の機会を、外の世界の要求をこなすことで失うことに対する怒りや苛立ちを喪った。「ひとのやくにたつこと」を心から良いことだと思えるようになってきた。社会に順応できるようになってきた。そして相対的に、内的世界の価値の重さが軽くなり、それを外部に見える形で表現をするということに費やすやる気が失われてきた。

 

たいへん「飽きている」。

 

僕は類まれなる素晴らしき内的世界を有していることによって、逆にその内的世界を存分に表現するために現実の外部の生活をかなり制限していて、それでいいと思っていたがあまりにも客観的に豊かでないその生活様式にあるいみ自発的に苦しめられた。

 

いろいろなことに取り組んだ結果、だいたいのことはやれば身についたし多くのことものに対して自分には適性があることがわかったが、いくつか、やはり自分には向いていないと言う物事がいくつもあることもわかった。

 

僕は、マーケティングが出来なかった。多数派の立場……個々人がバラバラの人間の集まりの多数派の部分…つまりあたりさわりのない薄いニーズの部分集合の部分……に着目し、関心を寄せ続け、その部分にアピールをすることが得意ではなかった。

 

長期的な目線のユーザーライクなマーケティングならできるかもしれない。つまり、既に市場にシェアをとっている製品を、顧客から飽きられないようにする、とか、すかれ続けるための地道な取り組みをする、しかそういう方向性のものなら。

 

しかし、新規顧客開拓、そしてぱっと多くの人の目に止まって作品のファンをつけるという能力がおそろしく皆無だった。

思い返せば僕自身の普段の人付き合いの仕方に関しても、「なぜか仲がいい」「よくわからないけれど長く続いている」みたいな方にはわりかし恵まれているものの、「カリスマ的に人目を引いて、多くの人の注目を集める」事など皆無だった。それに、そうなることに対する興味もなかった。しいていえば哀れみはあった。

 

マーケティングが致命的に向いていないと言うのはどういうことかといえば、今まで、「商業製品として作っている」「起業する」ということによって、大人にならない=既存の社会構造に組み込まれ、尽くす努力をしない、ことへの言い訳をしていたわけだが、それが意味をなさなくなったことが確定的になりつつあるのだ。

別に何が確定したわけではないけれど、僕の中での位置づけがそういう風になってきたと言う感じである。

つまり、個人的な性格や理由によって、どんなに素晴らしいものであろうと、どんなに面白くポテンシャルのあるものであろうと、これは「稼げ」ないのである。つまり、これを作っている限り僕は今までどおり明日の飯と家賃公共料金交通費に杞憂するわけである。最悪である。

 

2.僕自身の変化について

 

上記のとおり「飽きている」。

ただし、数年前までの自分にはきちんと「熱意はあった」それもたぶん「人一倍の」。

人間の能力ややる気、気力と言ったものは一定ではない。むろん、自分の場合はぶれのないように見せているから大して変わっていないように見えるかもしれない。

ただ、実のところ今は気力はないので、数年前の自分を見るように、周囲から「あの人はやる気があって熱意がある」「今後も精力的に活動を展開していくことだろう」と言う目でみられているとしたら、(たぶんそういうふうにみられている感じがするのだけれど)、それはたぶん間違いだといいたくなったりすることはある。

ただ、そう言葉に表明し、具体的に訂正してしまうことは、それはそれで不義ではあるとも感じるので実際は明言しないが、しかし数年前と今ではかなりスタンスが違う。これは明白ではあった。

 

飽きているのです。どうでもいいのです。

 

理由の一つにたぶん精神が健全になったからというのが有ります。僕が日常で何かを思ったとして、厳重なオブラートに包まないまま普通の言語として表出させても、僕の回りの世界がよっぽどまっとうになってきたからか、少なくとも身近な世間とはまっとうに話し合えるし、よっぽどアレな解釈をされることは無い。受け入れられている。話にならないような相手からはそもそもそんなに深い関係にはならないし、こちらにも向こうにも相手を選択する権利がある以上、人間関係でたいそうなことにこじれることはあまりないのだ。

 

あとは見ず知らずの他者の人生に良かれと思って口を出すことへの興味を失った。
僕にとって作品制作の動機なんて、まだあったことがない(もしかしたらすんでいる時代すら違うかもしれない)見ず知らずの他者と、所在地や立場、身体性や泥臭い現実の個人としてのプロファイルに縛られない状態で時空を超えた対話を試みたり、少しでもいい未来像を示したりすることがほとんどなのだから、根本となるその動機に興味を失いつつあるのは作家としては大変致命的なのだろうと思った。人間としてはまた別である。

 

人間個人としての尊厳を手にしつつあるというのもまたその動機の一つなのだろうと思う。悪い意味で自分の存在が大切になってしまった。何があったというわけではないが、僕は徐々に自分を取り戻し、そして、創作に対する重さをどんどん消失した。

これに関しては、最近ある芸術家の友人とご飯にいったときに思ったのだ。「自分の人生より絵のほうが(価値の重みが)重い」と言っていた。自分はどうだろうか。雨上がりの方が僕自身より重いのだろうか。

 

もう子供ではないから、世間に「くっだらねー」といい、自分の能力へ期待してくる相手に泥を投げ返し、火炎瓶を投げるような真似は許されないのだ、と自覚はしている。

 

まあ特に何が言いたいわけではない駄文である。

イスラム教について思うこと。

イスラム教の文化圏の人を西洋諸国や日本が移民として受け入れる流れになっているようですが、それについてちょっと整理するべきことがあるように思うことがあります。

 

イスラム教の教義を環境も気候も違う他の風土や文化圏にそのまま持っていくのは流石に無理があるんじゃないかなと感じるのです。

そもそも、今のイスラム教って、本来は「砂漠地帯の環境のもと、懸命に生き抜くための智恵を伝承化したもの」が、形骸化して儀式としてルールだけが残った残骸なんじゃないかと見えるんですね。

なので、「多様な文化に理解を」という切り口で、日本の施設や教育施設等々が逐一対応するのはちょっと違うんじゃないかな、と。

 

たとえば、いくつか、もともとはこういう意図だったんじゃないかな?と思うルールが有ります。


同性愛に厳しい←一夫多妻制を採用しているためパートナーにありつけなかった男性同士の強固な結びつきをあらかじめ抑制するためではないか?

(実際同性愛かはおいておいて)同性同士の密会や密なパートナーシップを摘発する口実になるので、権力者以外の排除された側の男性が徒党を組んで反抗する組織を作りづらくするための仕組みがベースにあって、それが紀律化したものではないか?

 

ラマダン←砂漠気候地帯特有
おそらく、「日中は暑いから動かないほうがいい」という生活の知恵を教義化して生活リズムを夜型にずらすためのものではありませんか?

例えば日本以南のアジアのような台風がしょっちゅう起きているような国で、たとえばそうした災害が来たさいに流通が途絶えた中、食べれるときに食事を抜くのは自殺では?

 

きちんとした時間通りの祈り←モンスーン地帯では無理では?津波が押し寄せ台風で家吹っ飛ばされる中、時間が来たからって律儀に時間通り祈るのか?

むしろ、温帯湿潤機構地帯では、几帳面な人間が災害等に対応しきれず淘汰されがちなのでは?

 

というか、イスラム教の戒律のなかで、移民の移住先の地域で軋轢を起こしがちと聞くものって、「予測できたり、もし起きてしまったら逃げれば助かるタイプの自然災害は起きない」ことを前提にして組まれているように見えるんですよね。時間通りとか全部守りましょうとか。

 

日本で起きるタイプの台風や水害は、起きること自体は予測できない割に起きた後の対策次第で人間は生き延びられるタイプの災害なので、その場の個々人が柔軟な判断ができるかどうかが生存率に響くタイプの風土ベースの文化になってると思うんですね。

だから、もしこの土地で生活するなら「規律だから必ず守る」みたいなスタンスは柔軟化しないとこの土地の風土に根本的に合わないのではないかなと思うわけです。

合わないだけならいいのですけど、日本にそういう風習を追加しようとするのは軋轢を生むだけであまりいいことはないんじゃないかなあと思うんです。

 

というのも、せっかく「いい加減」であるが故に、生存率を上げてくる戦略をしてきた風土に、厳格な規律が浸透してしまうと、この環境においての適応度が下がってしまって生存率が下がってしまう方向に流されるわけですから、結果として弱体化になってしまうのではないか?と。

まあ、そもそもそこまで浸透はしないかなあと思うので大丈夫かなあとは思うんですが、まあそんな感じのことを思った感じでしたー。

社会はしょせん人が動かしている。

 インターネットを見ていて思うことがある。
「声を上げよう」「社会を変えるように声を上げよう」と、様々な虐げられている分野の人が声高らかに意見をいうようになった。意見というよりは、「現状のここが気に食わない、不備と感じるから改善して欲しい」という要求が多いように見える。もちろんただの観測範囲の偏りのせいかもしれない。

 そしてそれを見るたびに、どういうふうに誰に動いてもらって、そして、誰の権利を少々抑制してもらいつつ均衡に利益を享受できるように「改善」したいのか、その社会像の提案があることは少ないように見えるなあと思う。

 前提として、社会というのはしょせん人が動かしているというのを忘れてはいやしまいか。

 

 神様に不満を述べたら神様が「そうか、わかった」と社会のバランス調整をしてくれるわけではないのだけれど、あまりそういうふうに認識していないんじゃないかと思える。自分の直感的な見方によると、たとえばその社会への訴えかけの結果、誰かの抑圧が一気に解消し、解消を通り越して圧倒的に有益な環境が訪れたとしたら、それの改善のために動いてくれた誰かがいるはずで、そういったどこかの誰かがかわりに縁の下の力持ちになって、彼らにしわ寄せが行くだけなんじゃないかという気がしている。ここでの「動く」は、尽力して、協力して、という意味で使ったけれども、それだけじゃなくて、実際にパワーバランスが変化して、少々その中で立場や位置を「動いて」席を譲ってくれた誰かがいるんじゃないかという意味でも使えるかもしれない。日本語としてはむりくりだけれど。

 もちろん、自分たちを神様のように強靭な存在に見せかけたり、神様ごっこが好きな大人もいる。国や行政、あるいは通信流通金融……というように社会の基盤となるシステムを管理する側とか。

 そこで、この記事を書き始めたときは、「そうはいっても本当の神様はいないのだから、市井の人々の声を上げるのは、相手にしわ寄せが行くだけの行為なんじゃないか」と思っていたのだけれど、「神様ごっこ」をすることを楽しみ、それを自己のアイデンティテイの基盤にする人たちが一杯いる中で、それがちゃんと国や行政…その他、大型組織として、「塵一つない完璧な状態」ではないにせよ、まともに「神様のようなもの」として機能して回っているのなら、それはそれでいいのかもしれない、と思った。記事を書いている今のリアルタイムの思いつきとして。

 

 つまり、
 神様になりたがろうとしてそう振舞っている人たちと、
 神様というものを信じようとしてそこに神頼みをしようとしている人たちの、
 持ちつ持たれつの構造があるのかもしれないと思ったのだ。

 結論は、まだない。

火星の大地の写真をデスクトップ背景にしたらQOLが上がった。

NASAが公開している、無人探査機が火星上で撮った火星の大地の写真をデスクトップの壁紙にしているんですけど、

 

psiupuxa.com

超~~~~~~~~~~いいっすね!

この写真の土地は実在して、でも、文字通りの「前人未到」ってところに大変……なんというか、ロマンを感じます。ワクワクしますね。

 

あと、地上の人間同士のささいなことによる諍いとか、

ほんと、

どーーーーーーっでもいいな!という気になりますね。

 

誰もいったことのない地球以外の空の向こうには確かにこんな土地があって、大地があって、ちけいがあって、世界があって、

そして、人類が作ったローバーの足跡がしっかり痕跡として残されていて、そして、機械の目を通してその世界を観れて、そして、ただ一部の人が情報を握るだけではなくそれが全世界どこからでも誰でもアクセスして「想像」することができる。

 

さいっこう!だなと思います。

 

Let`s ENJOY the space-manship life !!!

人類が何者なのか、判ってしまった。

3日前ぐらい。

どうして人間は「こう」なのか。諍い解り得ないのか、分かり合うには他者の尊厳を侵害や制限をせねばならず、どうしてかくも集団としてこう、「よくできていて」「不自由なのか」ということを発端として考えこんでいたら、その結果として、「人類は何か」ということ、「他の動物とどうちがって、なぜ自分たちは神の御子であるかのように、(そんなことはないのに)無条件で思い込み、振舞うのか」とか、そういった類のその他のこととか、どうしてそうなのか、「その根拠は何か」ということの、それらしい根源と理由について、納得がいく形で気がついてしまった。

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オーディオブック

アマゾンを経由してオーディブルというものを試してみました。

書籍の内容を朗読してくれるアプリというものですが、これはすごく革命的だなと感じました。
画像制作系の作業をしながら、耳では同時に書籍の内容をインプットできるのです。

たったそれだけなのですが、これはすごいなあと思って少しメモ書きをしてみた次第になりました。