自分が企画、シナリオ脚本、コンテ、等をしたアニメを作っていた。
三十分で、作画は完了している。あとは編集や仕上げ作業だけだ。
「飽きている」
それが今の自分の状態だ。
おおよそ一生を費やしても、少なくとも10年ぐらいは自分が第一目的として責任感を持って浸れるであろう世界を作ったつもりだった。そのぐらい、深度があり、拡がりもある世界観として位置づけたつもりだった。
もうすでに「飽きている」、大変「飽きている」。
1.純粋に「大人」になっただけ
純粋に、ただ、精神が人より遅く「大人になった」だけなのだろう。
皆がきちんと社会人になる年齢で、僕はまだ子供だった。だから、大人に要求される適度な割り切りや嗜み、そして適度な責任を引き受けることが出来なかった。
端的にいうと自分の頭の中の取り組みがさも素晴らしいことのように思え、外の世界にあったあれやこれやの要求がさも下らないことのように思えた。つまり、いつだって自分の中の優先順位は、「自分の内的世界」>「外の世界の常識や要求、価値感」だった。
数年たって、その体感的な優先順位のバランスがだいぶ崩れてきてしまった。
自分の内的世界の発露の機会を、外の世界の要求をこなすことで失うことに対する怒りや苛立ちを喪った。「ひとのやくにたつこと」を心から良いことだと思えるようになってきた。社会に順応できるようになってきた。そして相対的に、内的世界の価値の重さが軽くなり、それを外部に見える形で表現をするということに費やすやる気が失われてきた。
たいへん「飽きている」。
僕は類まれなる素晴らしき内的世界を有していることによって、逆にその内的世界を存分に表現するために現実の外部の生活をかなり制限していて、それでいいと思っていたがあまりにも客観的に豊かでないその生活様式にあるいみ自発的に苦しめられた。
いろいろなことに取り組んだ結果、だいたいのことはやれば身についたし多くのことものに対して自分には適性があることがわかったが、いくつか、やはり自分には向いていないと言う物事がいくつもあることもわかった。
僕は、マーケティングが出来なかった。多数派の立場……個々人がバラバラの人間の集まりの多数派の部分…つまりあたりさわりのない薄いニーズの部分集合の部分……に着目し、関心を寄せ続け、その部分にアピールをすることが得意ではなかった。
長期的な目線のユーザーライクなマーケティングならできるかもしれない。つまり、既に市場にシェアをとっている製品を、顧客から飽きられないようにする、とか、すかれ続けるための地道な取り組みをする、しかそういう方向性のものなら。
しかし、新規顧客開拓、そしてぱっと多くの人の目に止まって作品のファンをつけるという能力がおそろしく皆無だった。
思い返せば僕自身の普段の人付き合いの仕方に関しても、「なぜか仲がいい」「よくわからないけれど長く続いている」みたいな方にはわりかし恵まれているものの、「カリスマ的に人目を引いて、多くの人の注目を集める」事など皆無だった。それに、そうなることに対する興味もなかった。しいていえば哀れみはあった。
マーケティングが致命的に向いていないと言うのはどういうことかといえば、今まで、「商業製品として作っている」「起業する」ということによって、大人にならない=既存の社会構造に組み込まれ、尽くす努力をしない、ことへの言い訳をしていたわけだが、それが意味をなさなくなったことが確定的になりつつあるのだ。
別に何が確定したわけではないけれど、僕の中での位置づけがそういう風になってきたと言う感じである。
つまり、個人的な性格や理由によって、どんなに素晴らしいものであろうと、どんなに面白くポテンシャルのあるものであろうと、これは「稼げ」ないのである。つまり、これを作っている限り僕は今までどおり明日の飯と家賃公共料金交通費に杞憂するわけである。最悪である。
2.僕自身の変化について
上記のとおり「飽きている」。
ただし、数年前までの自分にはきちんと「熱意はあった」それもたぶん「人一倍の」。
人間の能力ややる気、気力と言ったものは一定ではない。むろん、自分の場合はぶれのないように見せているから大して変わっていないように見えるかもしれない。
ただ、実のところ今は気力はないので、数年前の自分を見るように、周囲から「あの人はやる気があって熱意がある」「今後も精力的に活動を展開していくことだろう」と言う目でみられているとしたら、(たぶんそういうふうにみられている感じがするのだけれど)、それはたぶん間違いだといいたくなったりすることはある。
ただ、そう言葉に表明し、具体的に訂正してしまうことは、それはそれで不義ではあるとも感じるので実際は明言しないが、しかし数年前と今ではかなりスタンスが違う。これは明白ではあった。
飽きているのです。どうでもいいのです。
理由の一つにたぶん精神が健全になったからというのが有ります。僕が日常で何かを思ったとして、厳重なオブラートに包まないまま普通の言語として表出させても、僕の回りの世界がよっぽどまっとうになってきたからか、少なくとも身近な世間とはまっとうに話し合えるし、よっぽどアレな解釈をされることは無い。受け入れられている。話にならないような相手からはそもそもそんなに深い関係にはならないし、こちらにも向こうにも相手を選択する権利がある以上、人間関係でたいそうなことにこじれることはあまりないのだ。
あとは見ず知らずの他者の人生に良かれと思って口を出すことへの興味を失った。
僕にとって作品制作の動機なんて、まだあったことがない(もしかしたらすんでいる時代すら違うかもしれない)見ず知らずの他者と、所在地や立場、身体性や泥臭い現実の個人としてのプロファイルに縛られない状態で時空を超えた対話を試みたり、少しでもいい未来像を示したりすることがほとんどなのだから、根本となるその動機に興味を失いつつあるのは作家としては大変致命的なのだろうと思った。人間としてはまた別である。
人間個人としての尊厳を手にしつつあるというのもまたその動機の一つなのだろうと思う。悪い意味で自分の存在が大切になってしまった。何があったというわけではないが、僕は徐々に自分を取り戻し、そして、創作に対する重さをどんどん消失した。
これに関しては、最近ある芸術家の友人とご飯にいったときに思ったのだ。「自分の人生より絵のほうが(価値の重みが)重い」と言っていた。自分はどうだろうか。雨上がりの方が僕自身より重いのだろうか。
もう子供ではないから、世間に「くっだらねー」といい、自分の能力へ期待してくる相手に泥を投げ返し、火炎瓶を投げるような真似は許されないのだ、と自覚はしている。
まあ特に何が言いたいわけではない駄文である。