荷内思考開発所

ありがちなことばでありがちなことものを考えてみる

善意で敷き詰められた真綿のような世界

インターネットの片隅に投稿された誰かの匿名の投稿。

そこに羅列される善意のアドバイス、善意のコメントにクラクラした。

「あなたはこうやったらふつうになれるんだよ」
「社会人とはこういうものだ」
「そういうことは言っちゃいけない」

 

そういう感情は「いだいちゃ」いけない。

 

というまっとうらしいアドバイス

 

かれらの言うことに従えばこうだ。

諦めること、自分の中でけりをつけることはいいこと、いいことなんだ。


しかし、僕自身はそういう大人になりきれないまま、しかしながら、ある程度歳を重ねてしまったから僕は知っている。

バズったツイートやインターネットまとめ掲示板に書き込んでる暇人の親切な善意の台詞に、真実はない。

 

諦めようとして諦めそびれた、自分に見切りをつけきれなかった肥大した自尊心の人たちがどうなったかといえば、周りを見る限り、だいたいなるようになっているのだけれど。

あまりにも多くの人が常識からの脱落を怖れてどんどん脱落していくから、気付いたら諦めが悪い人が残っている。席は大分空いてきた。

 

そういうものは見えないし、皆わざわざ言わないから、手軽に手に入るのは親切な善意からの「君には無理だ諦めろ」という声。そしてギアをでチューンして少し社会と折り合いが良くなるや否や「よくやった大人になったね。成長したね」と手のひらをくるっとかえし褒める声。

 

その繰り返し。

 

 

早い段階で諦めてしまった大半の人からは、諦めが悪い人間にとっての到達した世界を覗き見ることが出来ない。