荷内思考開発所

ありがちなことばでありがちなことものを考えてみる

思っていたより、強烈な刷り込みだった―。アポロ11号の月面着陸の歴史から

今まで全く疑いもせず、アポロ11号は月面に着陸し、人類は当時月に降り立ったのだと漠然と信じていた。

いや、それを否定する人の存在は知っていたが、むしろそちらのほうが根拠をでっちあげている感じていた。

 

キューブリック2001年宇宙の旅をみて、1960年代当時の技術でも、

リアルな宇宙空間の映像が作れるのだなあ、と知ってからも、

あまり人類月面着陸の映像が捏造だとは、思えなかった。

 

しかし、ふと、技術の発展史から考えて、「当時の制御工学のレベルで、機体に傷を付けずに安全に着陸することが出来たのか?」という疑問がよぎったのである。

 

近年、二千年代に入ってから、いくつもの探査機が火星や土星の衛星に着陸した探査機の様子が報道された。

そのイメージ映像(どのように着陸するか)を見たことがあるが、たしかSFのように逆噴射して減速しながら着陸するものだった。これは現代の技術である。

 

アマゾンの小包をリモコン飛行機で飛ばすという話が現実可能になってきた、

現代の技術である。

 

一度だけ、宇宙飛行士の人と話す機会があったが、その時の僕は気の利いた質問は何一つ思いかばなかった。

今後、聞き返す機会があるなら、ぜひ聞いてみたい。

当時の技術で、アポロの着陸は本当に可能だったのだろうか?と。

 

まあ、本当に20世紀の人類の月面着陸があったものかどうかは、今後の科学が否応なしに明らかにするのだろう。

そこに恣意的な操作が入らないとしたなら。

割と冗談じゃなく、今の日本のマンガ・アニメはジャパニーズ・モダン・浮世絵だと思っている

ジャパニーズ・ガラパゴス・ウキヨエ

 

その流通している文化圏の当事者は決してそれが独自の文脈による洗練されたデフォルメ技術だとは、気付かないような、エンターテイメント文化。それがジャパニーズ・ウキヨエ

とすると、現代のマンガアニメゲームなどは、十分ジャパニーズ・ウキヨエ たる資格があるように思える。

 

江戸時代のジャパニーズ・ウキヨエは、包装紙に刷られたまま、その大胆なデフォルメ・色彩・構図・意匠・テーマをもって、まったく別の文化圏を持つ人々の目も引いた。

当時の日本の絵画の特徴として、ざっくりといってしまえば、デフォルメをしているものの、全体としてはそれほど意味不明でも、素っ頓狂でも、空間がめちゃめちゃでも、ない。ということがあるのではないかと思う。

つまり、デフォルメとエンターテイメントの皮をかぶった写実表現。

それが江戸時代の当時、「普通だと認知されていた」日本の絵画の特徴なのではないかと思う。

 

さて、現代の日本のデフォルメテイストの写実文脈絵画はどこにあるか?(写実という単語を使うと、写実主義絵画、のように捉えられかねないので避けたほうがいい気もするが、まあ、それとは別文脈の、もっと大きなくくりでの「写実(=概念的な画ではない)」である)

そこにある!あなたの部屋のコミック棚の中だ。

 

現代美術において、美術界の潮流は、「写実でないもの」を求められるようになって久しい。

ただそれは、現代において、普通の写実的絵画表現があまりにもそこらじゅうにありふれているから、そもそもそれらは「美術」いや、「画」だと、認知されすらしていないのに等しいのではないか?

 

だから未来の美術史から省みた、現代の写実系の絵画文脈における巨匠は、巨匠と認知されないまま、今のこのエンターテイメント界隈のどこかにいるのかもしれないですね。

どうして創作論は人気を集めるのか

創作論とは、妙に、あまたの人々の関心を引くらしい、不思議なコンテンツだ。

個々の小説といったコンテンツ自体よりも、むしろ『どのように作家は物語をつむぐか』という方法論のほうが人気なんじゃないかと思えるほどである。

 

それは、多分、作中に『神が宿る』のが人々にとって、不可思議に映るからなんじゃないかなと思う。

 

いないはずの世界をリアルに体感し、作中の架空の登場人物の息遣いを感じられるなら、さて、多くの人々にとって、当然のごとく感じられる、世界への認知とは、なんだったのであろうか。

 

多分、根本にあるのは(無自覚とはいえ)そのような問いなのではないかと思う。

 

どうして、創作者は、架空の世界を作る『神』となりえるのか、それがきっと不思議でたまらないに違いない。

 

そう思ったら、僕はそういった議論に対して、以前よりも、少しおおく距離を置けるようになれた気がする。

人生において挫折もどん底も経験したことがないです

自分で、挫折経験がある、とか、どん底を経験したっていえる人は、

よっぽど大変なことを経験したんだなあと思う。

 

僕は自慢じゃないけれど今まで生きてきて挫折もどん底も味わったことがない。

というか、何を持って挫折というのか、どん底というのかがわからない。

 

食事に困ったことはないし住むところに困ったことはない。

やりたいことできないできないいっているけれど、厳密にはやりたいことができなかったことなどない。(脳みそさえあればいつでもどこでも出来るからね。紙とペンがあるとなお良し)

 

どん底ってなんだろうな。

 

 

インターネットで先人の知恵を借りる

あまりにも目先の課題のやりたくなさに電脳の海を逃げ回っていたら、

興味深い記事を見つけた。

 

効率的な単位の取り方 : くだらん日本の私(雑記帳)

 

研究で承認を得ること : くだらん日本の私(雑記帳)

 

なんだ、僕のことかと思った。

 

 

ただ、一つ、僕が違うことがあるとすれば、

僕は本業のほうはのんべんだらりだったが、

彼の音楽活動に当たるほうは決しておろそかにしてこなかったってことだ。

 

 

それまですごく共感しながら文章を読んでいたが、

音楽は目立たないところは適当に弾いた、という文面を読んだとき、

「いや、それはだめだろ」とその瞬間に突っ込んだ。

 

そこにナチュラルに違和感を感じた自分を再発見したことで、

逆に以下に他の部分にいかに適当だったかを自覚した。

 

困ったなあ。

本質的にはロックな方の分野にしかのめりこめない人間なのだろう。

これほど叩かれるのが嫌い、本気を出して打ちのめされるのをおそれる性格でありながら、下手糞作を当時なりの全力で作ってそれを手に持って自信満々に現場に乗り込んでいって、当然のごとく叩き潰されてきた。

(幸い、ネット上で公開したわけではないので、それら下手糞だった時代の痕跡はないが)

やるたびにこんなことやめようと思ったけど止められなかったので、

いま一応、それを自分の軸として誇れる程度のスキルは身に付けられている。

 

 

だから、本当に紙一重だったのだ。

 

僕は幸運だった。彼は一年先を行く先人だ。

大変参考になる。

 

究理学と広がる探究心 社会不適合者

僕はもともと、子供の頃から、作品制作と真理の探究以外に興味を持たなかった。

それを究理学と子供の頃に僕は名前を付けたが、その、究理学と創作に必要な事象以外には、笑えるぐらい一切興味がなかった。

 

というか、今でもそれにしか興味がないし、結局それしかやっていない。

……外向きのカモフラージュを差し置いては。

 

で、どちらをやるにしてもですね、

つまり普通の人間として普通に生きて普通に普通の感覚を知って色んなものを見聞きして色んなところに行って足を動かして空気を吸ってご飯を食べて、他の人と空間と時間を共有して

 

っていう経験値は必要ですよね。

よりよいものを作るために。より面白いことを考えるために。

 

だから、表向きは僕はそのように生きてきたし、今でもそうしている。

 

友人から、「変人としての自覚を持て」といわれた際、僕にはさっぱりぴんと来なかった。

別に変人ではないと思う。だいたいの人の感情とかその動機とか、何考えているかとか、普通に人並みには読み取れるし。(女の子がなんでチャラ男に好感を持つのだけは謎だが…)

 

 

だけど、やっぱり変人なのかなあ……と思う。先の記事で、さっぱり就活をする気力が湧かなかった件について、述べたとおり、思ったより自分は社会不適合者の部類らしい。

どうしたもんかな。

波風は立てたくないものだが。

そして、一番よくないのは、波風を立てたくないから無難なことをしようとする、その発想自体だとも思っている……。