荷内思考開発所

ありがちなことばでありがちなことものを考えてみる

普通のレールを降りてしまう 自発的に

自分で言うのもなんだが、僕は今のところいい具合に「エリートコース」のレールに乗ってきたと思う。

いい大学行って、いい研究をして、そして、決してコミュ障にならずに、色んな人たちと会って、幅広い知見を得て。

 

当然のごとくこれからも仮面のように、エリートコースのレールの上を歩いていくつもりだった。

そうすれば波風立てずに、裏で好き勝手なことが出来る。そう思っていた。

 

だが、人生には時間がない。

僕は人生の時間のなさについて焦っている。

 

今の僕が何より嫌うのは、僕が自分の好き勝手(=世間ではスキルアップというらしい)に使いたいまとまった時間を、他人のスケジュールにより邪魔をされることだ。

最悪なのは、特にやるべき予定もないのに、『勤務要請』されることだ。

今ですら『勤務要請』時間が長すぎると思うのに、これ以上増やされるとたまったもんではない。

残念なことに、いったん没入すると、数時間は意識の外へ出てこれない(こともある)ので、なかなか細切れなスケジュールだと、「やりたいけど、今やるのはよくない」と思って抑制してしまう。

 

面倒くさくなったら、いつでも死ねばいいやって思っているので、

最低限の衣食住・電気通信があれば、本当に他には何もいらない。

実は娯楽すらいらない。自己供給できるから。

自分に素直になればなるほど、本心から就職したいと、会社に入社して仕事をしたいという動機がない。

 

嘘をつくのは簡単なんだけれども、今までそうやって来たし、やろうと思えばやれるんだと思う。

でも、そうやって必死に嘘をつくほど、僕は時間と労力を還元して安定した給料を得ることの魅力を感じていない。

だから、結局ろくに就職活動も出来なかったわけだ。

内定取れなかった、とかいうより、そもそもESを出せなかった。

というか志望動機はかけなかったし。でっち上げたとしても綺麗に清書する気力がわかなかった。

 

一社、なんかプレゼン?が通ったので、面接に行ったことがあった。プレゼンしてみたのは、あくまで力試しをする場が欲しくて、外からの評価を聞きたかったからである。

そこは、それなりに実は入社したかった。ただ、その、「それなり」っていうのは、呼ばれたら…まあ、行ってもいいかな、本当にやりたいことはやれなそうだけれど、お金もらって練習とコネできるなら、ラッキーかな、まあ、折を見計らって辞めるけど。ぐらいの僕にしては珍しい程度の熱意だった。

多分周りにはこの熱意のなさをしったら、呆れられると思う。が僕はこれが最高レベルのに熱源を燃やした場合の熱量だ。これ以上熱くはならない。

 

逆に、僕からしたら、どうして皆あんなに就職に必死になれるのか、わけがわからない。

いや、分からなくもない。実際、もし僕に手に職的なものがなかったら、同じように必死だったんだろうなと思う。

でも、そうなる未来が嫌だったから、なかなか気合を入れて勉強をサボって(といっても脱落しない程度に適宜に手を入れて)僕は手に職技能の習得にあれこれ手を出した。

 

ただ、それもあくまでも保険で、手に職の最低ラインの仕事で食っていくのも、広がりはなさそうって言うか、それほど興味惹かれないのも事実。まあ、困ったらそれするけど。

 

というか、そもそも、僕は人生で3年以上同じ組織集団に所属していたことがない。

3年でも、その組織の雰囲気をつかみ、飽きるまでには充分すぎる時間であったし、多分その性格は直るようなもんでもないのだろうと思う。

 

就職をまったくしたくなかったわけではない。自分の事業、やりたいことを立ち上げる際の保険というか、その業界の下見的な役割で、飛び込んでみたかったという動機はある。

僕は、経験からして、多分1~3年もあれば、その業界の腐敗状況・取り入れられるいいことといった内部事情を推察するのに充分だと踏んでいた。

 

だが、嘘をつくのに飽きた。

いや、マジで。

 

ちょっとこれは数年前とは予想外の変化だったのだが、僕の中の優先順位が、

めんどくさい労働(カモフラージュ)>やりたいこと>>>プライドを傷つける労働>>じさつ

だったのが、今では

やりたいこと>>>>>めんどくさい労働>>>自殺>プライドを傷つける労働

 

ぐらいの適当さ加減で入れ替わっていることだ。かくいう今だってサボってる。

(じさつ が 人生の選択肢に入っているのはごく普通のことだと思っていますが……世間では、どうやら違うみたいですね?)

 

今まで僕の足を引っ張り続けていたのは、自身のその堅実な「保険」信仰なんだと思う。実際エリートコースとやらを歩んできて分かったのは、やはりエリートコースにはエリートコース向けの選択肢しか基本的に残されていないって言うことだ。

 

今の段階では、それは、否定しない。

だが、これから、硬い職種につけば、どんどん道は外れていく。

 

 

多分、エリートコース以外の色んな世界を、知りすぎたんだと思う。

別に正社員のサラリーマンにならずとも、ご飯を食っていくことは出来る。

 

そういうのとか、知らなかったら、もうちょっと全うだったのかなあ……

 

 

 

全うな人生を全うに生きることへの憧れが、ある。

だから僕の作品は軍隊とか、サラリーマンがヒーローだったりする。

それぐらい、サラリーマンだなんてのは、僕にとってはフィクションだったんだろう。

ウィリアム・マクニールの 世界史(上) を読んで

興味深い事柄だらけだった。

 

お前の歴史知識ってそんなものだったのか、と呆れられそうだが、

実際古代史を体系的に学んだことはなかったのでいろいろ新鮮であった。

このような内容が、高校の世界史の範囲として扱われているのなら、日本の高等教育も捨てたもんじゃないと思う。

 

点と点で、そしてはあるときは評論の題材として、ところどころ聞いて、遺物を見て、知っていた世界史の歴史における『知識』が線と線でつながって、面(サーフェイス)となって、自己内で複合的な構造体として、データベースとして組み込むことができた感がある。

 

読んで良かった。

 

 

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この筆者の各国・各地域に対する記述がどの程度信憑性のあるものかは、

たまに取り上げられる『日本』という辺境国家の、扱いを、普段の日本人の知っている日本の歴史・社会構造像と対比してみればなんとなく把握できる。

 

つまり、単語としては、別の単語を使って置き換えているところがあるが、しかし、全体の描き出すイメージとしては、もともと知っている日本像をうまく捉えたものとなっている。

この適宜な的確さで、他地域も同様に扱っているのだろう、と。

ジョブワーカーとプロフェッショナル

世の中にはジョブワーカーとプロフェッショナル気質の二つしかない、って一般には思われているし、基本的な社会の仕組み―あるいはその歯車の中で生きる人間の用意された身分・立場―はそういう風に出来ているにできているらしい。

うすうす感づいていたけれども、最近顕著にそれを感じる。

 

しかし人間達の気質は本当は大雑把にくくれるその二通りではないだろうと僕は考える。それは詳しく細分化するということではなく、文字通りどっちにも収まりきらないタイプがいると思うのだ。僕自身はどうもどちらの立場に身をおいていても居心地が悪い。(ごくまれに)僕みたいなタイプもいるらしいが、本当にいないことになっているので、既存の社会構造の中では、明確な存在場所は確保されてない。(今までの社会構造の中では、たとえば学者等がその受け皿であったのだろう)

 

レイヤー化する世界、という書籍で描かれていた近未来像があった。

そこでは、一人の人間はその与えられたステロタイプ的な役割を全うするわけではなく、複合的に、多重の立場・役職・係わり合いの中で、存在しているらしいと。

そうして、現実に世界はそういう方向へ移行しつつあるらしいと。

 

それはある意味正しいと僕は読んでいた。しかし、現実はどうだ。

そう変化しつつある社会の枠組みの流れに、この孤島の日本は、そして海外含めローカルに生きる個々の人々を取り巻く社会の様相の変化は、非常にスローだ。

スローだった。

 

僕は既存の社会構造の中では、生きていけない。それをよく自覚した。

 

一旗上げたいというか、そういう気概はない。

ただ僕は、居心地が悪く、やりたくないと感じること、嫌だという感情に誠実に生きたいだけだ。

 

嫌だという感情に嘘をつくことは容易だ。

そうやって嫌だという感情に嘘をついて及第点を取ることは容易だ。

しかし、それではいい物を作れない。技術の問題ではない。いいものが作れない。

 

いいものが(構造的に)作れないことを延々と続けているようであれば、それは長期的な目で見れば、他者・後世の人々にとって、ただの無駄だ。一人の人的資源をかけた損失になるのだと思う。

 

だったら僕はいい物を作れる可能性をかけたほうに舵を切りたい。いや、切る。

切ることにした。

 

たとえ、世間からは落伍者という立場になっても。

(というか、今すでに、今まで乗ってきた、きらびやかな出世レールとやらを踏み外しつつある…)

興味、という単語の齟齬。

僕は自分自身ではそれほど浮いているとか変人だとかは思わないんだけれども、

たまに人と話してて「どうもかみ合わないな、うまく伝わらないな」と思うことがある。

 

その一例が、「興味」とか、「面白い」という単語の用法で。

 

あることに対して、もう興味が持てない・やめたい というと、

「それに興味があるっていってたじゃない?」

「面白そうに目を輝かせていたのに、本当は嫌いだったんだ…(あれは演技だったのか)」

とかって言われるけど、まあ、そのときの興味があった僕というのは決して演技ではない。というか、別に興味が無くなったとかではなく、その程度の興味ならいつも健在だし持続している。

 

じっさい、アレにもコレにも瞬間的には興味を持っているんだよ。

ただ、それに人生の大半を費やしたいかといわれれば、別にそこまでの興味はないわ、って感じの物事が大半であって。

 

一般に皆さんのいう「面白い」とか、「興味がある」っていうのが、なんなのかはよくわからない。

 

たとえば自発的にその分野の本を読んだり知識を漁って、「面白いなあ…」と夢想したら、それって興味があったり、面白いと感じているうちには入らないのか?

 

そういう意味での興味だったら、

人文科学、ほぼ全部の分野において興味があるよ?僕は。

 

あんまりIT系とかプログラミングには興味ないかな。抽象的思考が嫌いなので。

 

いつも思うんだけど、一般に一人の人間が興味を持つ範囲って、ほんと幅狭いなって。

だから、世界ってうまく、本当うまいこと住み分けられているなって。

 

だからたまに僕もあこがれる。もっと何にも興味を持たなかったらいいのにって。

そうしたら物事の好き嫌いの優先順位がつけやすかっただろうにって。

しかし、僕はそういう風にならなかった。

困ったことに、なんでもそれなりには興味があるし、それに、それなりにしか興味が無い。

 

それなりの興味を一つに絞れない僕は、たぶん思ってたより社会から規格外なんだと思う。ゼネラリストタイプとしてではなく、スペシャリストタイプとして、複数のことに同時に手を出す人間など、人間が考案して設計した企業においては、ご所望などされてはいない。

 

いや、まあ今までそれなりになんかなあなあでながして生きてきたけどね、

それなりにしか興味が無い多数の興味の群れの中で、

どうしてもこれだけはやらないと死ねないっていう一部の興味の地が見つかっていて、そこをどうにかしたい、

どうにかしたくて、うずうずするんだ。その土地を足がかりに燈台を建て…。

ダヴィンチは天才だったか-生まれる時代を間違えた技術者の末路について。

ふと、レオナルド・ダ・ヴィンチについて考えた。

彼は確かに多才である。たったひとりで、ありとあらゆる方面の知的好奇心を持ち、それらの現象について洞察した大量のアイデア・スケッチが残されている。

そして、人々は彼の業績を褒め称える。ただの芸術家以上の付加価値を付けて。

 

僕はその点に疑問を持った。

 

確かに芸術面での彼の作品は今でも現存しているし、それは評価すべきものである。

しかし、それはそれ自身で評価するべきものではないのか。

 

現実問題として、彼が自然科学者として、技術者として考案し設計したものの内で、

実現まで至った、あるいはその後の科学の基盤となったようなアイデア

どれ程あるのだろうか。

 

有名なものに、彼は空飛ぶ機械のスケッチを多量に残している。

しかし、それらは結局、スケッチのままで留まった。

16世紀に航空機が誕生することはなかった。

 

もし、産業革命後の19世紀・20世紀に彼が生まれていたならば、

きっと彼は実際に飛ぶ航空機を開発することが出来ただろう。

今のような半ば神格化されたような評価を後世の人々からされることは無く、

その時代の中に埋もれる一技術者でしかないとしても、そんなIFの世界の彼は、歴史上で実在したほうのダヴィンチが出来なかったであろう業績を成し遂げられたに違いない。

 

個人として、人格として評価されることは無くても、目標は、達成できる。

どっちの時代に生まれたほうが、彼は、彼自身は充足感に満ちた人生を遅れていたことだろうか、と。

 

 

自分がわりと望んでいたはずの、仕事がなぜかつまらないという 戯言。

まずはkasakoblogさんから引用

好きなことを仕事にすると、かえってキライになるという勘違い : つぶやきかさこ

 

 僕は子供のころから憧れていたもののうち一つと今非常に近い業界にいるのだが、

非常に倦怠感に襲われていて、やる気も起きず、調べもせず、

なんでこんなに意欲がそがれてしまったのだろうと思うことがある。

…ていうか、わりとここ最近ずっと思っている。

 

 なんだ、やっぱりやりたいことじゃなかったんだな。

まあ、自分に向かない(というか出来そうにない)多数の仕事のうち、出来なそうなものを除外していって、その後社会的地位やステータス、と天秤に掛けながら、

(いやそもそも美味しい所だけつまみ食いしようという魂胆が……)

一応今の立場にいるんだが、ぶっちゃけ、多分、この業界はこんなやる気のないスタンスでは務まらない。

 

 最初に社会から報酬を得る形で接した時に、ちょっと社会の底辺を見すぎたのかな、という気もする。

「仕事はえり好みしていいもんじゃない」「わがまま言っていると日雇い労働者になるぞ」と、目の当たりにしてしまった。

 ああはなるまい……と、逃げ癖のようにどこでもいいからなんかやれることを、と求めてしまう癖がどうも根底にあるのだが、

多くの仕事が充実している人って言うのは、多分そのスタンスでは、逆にできないんだろうな、そして、

 いや、もっと案外えり好みしていいもんなんじゃないかなとも思い始めている。

雑感。 五分歩けば金の音にあたる

ここ数日~ないし今月に起きた日々の記録:

(という名の公開処刑/というほど強い語を使うべきでもない何か)

 

○自分にいい訳をしても仕方がない

○インターネット/世界からの連絡のwebから自分を断ってみると、

それはそれで元気になるという事実が判明

○ごはんをたべよう

 

○学生時代に読んでいた漫画を久々に読み返す

→好みのキャラは変わらない:案外変わっていない

/つまらないと思っていた話が面白くなっていると感じた→やっぱり変わっている