荷内思考開発所

ありがちなことばでありがちなことものを考えてみる

どうして創作論は人気を集めるのか

創作論とは、妙に、あまたの人々の関心を引くらしい、不思議なコンテンツだ。

個々の小説といったコンテンツ自体よりも、むしろ『どのように作家は物語をつむぐか』という方法論のほうが人気なんじゃないかと思えるほどである。

 

それは、多分、作中に『神が宿る』のが人々にとって、不可思議に映るからなんじゃないかなと思う。

 

いないはずの世界をリアルに体感し、作中の架空の登場人物の息遣いを感じられるなら、さて、多くの人々にとって、当然のごとく感じられる、世界への認知とは、なんだったのであろうか。

 

多分、根本にあるのは(無自覚とはいえ)そのような問いなのではないかと思う。

 

どうして、創作者は、架空の世界を作る『神』となりえるのか、それがきっと不思議でたまらないに違いない。

 

そう思ったら、僕はそういった議論に対して、以前よりも、少しおおく距離を置けるようになれた気がする。

人生において挫折もどん底も経験したことがないです

自分で、挫折経験がある、とか、どん底を経験したっていえる人は、

よっぽど大変なことを経験したんだなあと思う。

 

僕は自慢じゃないけれど今まで生きてきて挫折もどん底も味わったことがない。

というか、何を持って挫折というのか、どん底というのかがわからない。

 

食事に困ったことはないし住むところに困ったことはない。

やりたいことできないできないいっているけれど、厳密にはやりたいことができなかったことなどない。(脳みそさえあればいつでもどこでも出来るからね。紙とペンがあるとなお良し)

 

どん底ってなんだろうな。

 

 

インターネットで先人の知恵を借りる

あまりにも目先の課題のやりたくなさに電脳の海を逃げ回っていたら、

興味深い記事を見つけた。

 

効率的な単位の取り方 : くだらん日本の私(雑記帳)

 

研究で承認を得ること : くだらん日本の私(雑記帳)

 

なんだ、僕のことかと思った。

 

 

ただ、一つ、僕が違うことがあるとすれば、

僕は本業のほうはのんべんだらりだったが、

彼の音楽活動に当たるほうは決しておろそかにしてこなかったってことだ。

 

 

それまですごく共感しながら文章を読んでいたが、

音楽は目立たないところは適当に弾いた、という文面を読んだとき、

「いや、それはだめだろ」とその瞬間に突っ込んだ。

 

そこにナチュラルに違和感を感じた自分を再発見したことで、

逆に以下に他の部分にいかに適当だったかを自覚した。

 

困ったなあ。

本質的にはロックな方の分野にしかのめりこめない人間なのだろう。

これほど叩かれるのが嫌い、本気を出して打ちのめされるのをおそれる性格でありながら、下手糞作を当時なりの全力で作ってそれを手に持って自信満々に現場に乗り込んでいって、当然のごとく叩き潰されてきた。

(幸い、ネット上で公開したわけではないので、それら下手糞だった時代の痕跡はないが)

やるたびにこんなことやめようと思ったけど止められなかったので、

いま一応、それを自分の軸として誇れる程度のスキルは身に付けられている。

 

 

だから、本当に紙一重だったのだ。

 

僕は幸運だった。彼は一年先を行く先人だ。

大変参考になる。

 

究理学と広がる探究心 社会不適合者

僕はもともと、子供の頃から、作品制作と真理の探究以外に興味を持たなかった。

それを究理学と子供の頃に僕は名前を付けたが、その、究理学と創作に必要な事象以外には、笑えるぐらい一切興味がなかった。

 

というか、今でもそれにしか興味がないし、結局それしかやっていない。

……外向きのカモフラージュを差し置いては。

 

で、どちらをやるにしてもですね、

つまり普通の人間として普通に生きて普通に普通の感覚を知って色んなものを見聞きして色んなところに行って足を動かして空気を吸ってご飯を食べて、他の人と空間と時間を共有して

 

っていう経験値は必要ですよね。

よりよいものを作るために。より面白いことを考えるために。

 

だから、表向きは僕はそのように生きてきたし、今でもそうしている。

 

友人から、「変人としての自覚を持て」といわれた際、僕にはさっぱりぴんと来なかった。

別に変人ではないと思う。だいたいの人の感情とかその動機とか、何考えているかとか、普通に人並みには読み取れるし。(女の子がなんでチャラ男に好感を持つのだけは謎だが…)

 

 

だけど、やっぱり変人なのかなあ……と思う。先の記事で、さっぱり就活をする気力が湧かなかった件について、述べたとおり、思ったより自分は社会不適合者の部類らしい。

どうしたもんかな。

波風は立てたくないものだが。

そして、一番よくないのは、波風を立てたくないから無難なことをしようとする、その発想自体だとも思っている……。

 

普通のレールを降りてしまう 自発的に

自分で言うのもなんだが、僕は今のところいい具合に「エリートコース」のレールに乗ってきたと思う。

いい大学行って、いい研究をして、そして、決してコミュ障にならずに、色んな人たちと会って、幅広い知見を得て。

 

当然のごとくこれからも仮面のように、エリートコースのレールの上を歩いていくつもりだった。

そうすれば波風立てずに、裏で好き勝手なことが出来る。そう思っていた。

 

だが、人生には時間がない。

僕は人生の時間のなさについて焦っている。

 

今の僕が何より嫌うのは、僕が自分の好き勝手(=世間ではスキルアップというらしい)に使いたいまとまった時間を、他人のスケジュールにより邪魔をされることだ。

最悪なのは、特にやるべき予定もないのに、『勤務要請』されることだ。

今ですら『勤務要請』時間が長すぎると思うのに、これ以上増やされるとたまったもんではない。

残念なことに、いったん没入すると、数時間は意識の外へ出てこれない(こともある)ので、なかなか細切れなスケジュールだと、「やりたいけど、今やるのはよくない」と思って抑制してしまう。

 

面倒くさくなったら、いつでも死ねばいいやって思っているので、

最低限の衣食住・電気通信があれば、本当に他には何もいらない。

実は娯楽すらいらない。自己供給できるから。

自分に素直になればなるほど、本心から就職したいと、会社に入社して仕事をしたいという動機がない。

 

嘘をつくのは簡単なんだけれども、今までそうやって来たし、やろうと思えばやれるんだと思う。

でも、そうやって必死に嘘をつくほど、僕は時間と労力を還元して安定した給料を得ることの魅力を感じていない。

だから、結局ろくに就職活動も出来なかったわけだ。

内定取れなかった、とかいうより、そもそもESを出せなかった。

というか志望動機はかけなかったし。でっち上げたとしても綺麗に清書する気力がわかなかった。

 

一社、なんかプレゼン?が通ったので、面接に行ったことがあった。プレゼンしてみたのは、あくまで力試しをする場が欲しくて、外からの評価を聞きたかったからである。

そこは、それなりに実は入社したかった。ただ、その、「それなり」っていうのは、呼ばれたら…まあ、行ってもいいかな、本当にやりたいことはやれなそうだけれど、お金もらって練習とコネできるなら、ラッキーかな、まあ、折を見計らって辞めるけど。ぐらいの僕にしては珍しい程度の熱意だった。

多分周りにはこの熱意のなさをしったら、呆れられると思う。が僕はこれが最高レベルのに熱源を燃やした場合の熱量だ。これ以上熱くはならない。

 

逆に、僕からしたら、どうして皆あんなに就職に必死になれるのか、わけがわからない。

いや、分からなくもない。実際、もし僕に手に職的なものがなかったら、同じように必死だったんだろうなと思う。

でも、そうなる未来が嫌だったから、なかなか気合を入れて勉強をサボって(といっても脱落しない程度に適宜に手を入れて)僕は手に職技能の習得にあれこれ手を出した。

 

ただ、それもあくまでも保険で、手に職の最低ラインの仕事で食っていくのも、広がりはなさそうって言うか、それほど興味惹かれないのも事実。まあ、困ったらそれするけど。

 

というか、そもそも、僕は人生で3年以上同じ組織集団に所属していたことがない。

3年でも、その組織の雰囲気をつかみ、飽きるまでには充分すぎる時間であったし、多分その性格は直るようなもんでもないのだろうと思う。

 

就職をまったくしたくなかったわけではない。自分の事業、やりたいことを立ち上げる際の保険というか、その業界の下見的な役割で、飛び込んでみたかったという動機はある。

僕は、経験からして、多分1~3年もあれば、その業界の腐敗状況・取り入れられるいいことといった内部事情を推察するのに充分だと踏んでいた。

 

だが、嘘をつくのに飽きた。

いや、マジで。

 

ちょっとこれは数年前とは予想外の変化だったのだが、僕の中の優先順位が、

めんどくさい労働(カモフラージュ)>やりたいこと>>>プライドを傷つける労働>>じさつ

だったのが、今では

やりたいこと>>>>>めんどくさい労働>>>自殺>プライドを傷つける労働

 

ぐらいの適当さ加減で入れ替わっていることだ。かくいう今だってサボってる。

(じさつ が 人生の選択肢に入っているのはごく普通のことだと思っていますが……世間では、どうやら違うみたいですね?)

 

今まで僕の足を引っ張り続けていたのは、自身のその堅実な「保険」信仰なんだと思う。実際エリートコースとやらを歩んできて分かったのは、やはりエリートコースにはエリートコース向けの選択肢しか基本的に残されていないって言うことだ。

 

今の段階では、それは、否定しない。

だが、これから、硬い職種につけば、どんどん道は外れていく。

 

 

多分、エリートコース以外の色んな世界を、知りすぎたんだと思う。

別に正社員のサラリーマンにならずとも、ご飯を食っていくことは出来る。

 

そういうのとか、知らなかったら、もうちょっと全うだったのかなあ……

 

 

 

全うな人生を全うに生きることへの憧れが、ある。

だから僕の作品は軍隊とか、サラリーマンがヒーローだったりする。

それぐらい、サラリーマンだなんてのは、僕にとってはフィクションだったんだろう。

ウィリアム・マクニールの 世界史(上) を読んで

興味深い事柄だらけだった。

 

お前の歴史知識ってそんなものだったのか、と呆れられそうだが、

実際古代史を体系的に学んだことはなかったのでいろいろ新鮮であった。

このような内容が、高校の世界史の範囲として扱われているのなら、日本の高等教育も捨てたもんじゃないと思う。

 

点と点で、そしてはあるときは評論の題材として、ところどころ聞いて、遺物を見て、知っていた世界史の歴史における『知識』が線と線でつながって、面(サーフェイス)となって、自己内で複合的な構造体として、データベースとして組み込むことができた感がある。

 

読んで良かった。

 

 

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この筆者の各国・各地域に対する記述がどの程度信憑性のあるものかは、

たまに取り上げられる『日本』という辺境国家の、扱いを、普段の日本人の知っている日本の歴史・社会構造像と対比してみればなんとなく把握できる。

 

つまり、単語としては、別の単語を使って置き換えているところがあるが、しかし、全体の描き出すイメージとしては、もともと知っている日本像をうまく捉えたものとなっている。

この適宜な的確さで、他地域も同様に扱っているのだろう、と。

ジョブワーカーとプロフェッショナル

世の中にはジョブワーカーとプロフェッショナル気質の二つしかない、って一般には思われているし、基本的な社会の仕組み―あるいはその歯車の中で生きる人間の用意された身分・立場―はそういう風に出来ているにできているらしい。

うすうす感づいていたけれども、最近顕著にそれを感じる。

 

しかし人間達の気質は本当は大雑把にくくれるその二通りではないだろうと僕は考える。それは詳しく細分化するということではなく、文字通りどっちにも収まりきらないタイプがいると思うのだ。僕自身はどうもどちらの立場に身をおいていても居心地が悪い。(ごくまれに)僕みたいなタイプもいるらしいが、本当にいないことになっているので、既存の社会構造の中では、明確な存在場所は確保されてない。(今までの社会構造の中では、たとえば学者等がその受け皿であったのだろう)

 

レイヤー化する世界、という書籍で描かれていた近未来像があった。

そこでは、一人の人間はその与えられたステロタイプ的な役割を全うするわけではなく、複合的に、多重の立場・役職・係わり合いの中で、存在しているらしいと。

そうして、現実に世界はそういう方向へ移行しつつあるらしいと。

 

それはある意味正しいと僕は読んでいた。しかし、現実はどうだ。

そう変化しつつある社会の枠組みの流れに、この孤島の日本は、そして海外含めローカルに生きる個々の人々を取り巻く社会の様相の変化は、非常にスローだ。

スローだった。

 

僕は既存の社会構造の中では、生きていけない。それをよく自覚した。

 

一旗上げたいというか、そういう気概はない。

ただ僕は、居心地が悪く、やりたくないと感じること、嫌だという感情に誠実に生きたいだけだ。

 

嫌だという感情に嘘をつくことは容易だ。

そうやって嫌だという感情に嘘をついて及第点を取ることは容易だ。

しかし、それではいい物を作れない。技術の問題ではない。いいものが作れない。

 

いいものが(構造的に)作れないことを延々と続けているようであれば、それは長期的な目で見れば、他者・後世の人々にとって、ただの無駄だ。一人の人的資源をかけた損失になるのだと思う。

 

だったら僕はいい物を作れる可能性をかけたほうに舵を切りたい。いや、切る。

切ることにした。

 

たとえ、世間からは落伍者という立場になっても。

(というか、今すでに、今まで乗ってきた、きらびやかな出世レールとやらを踏み外しつつある…)