荷内思考開発所

ありがちなことばでありがちなことものを考えてみる

興味、という単語の齟齬。

僕は自分自身ではそれほど浮いているとか変人だとかは思わないんだけれども、

たまに人と話してて「どうもかみ合わないな、うまく伝わらないな」と思うことがある。

 

その一例が、「興味」とか、「面白い」という単語の用法で。

 

あることに対して、もう興味が持てない・やめたい というと、

「それに興味があるっていってたじゃない?」

「面白そうに目を輝かせていたのに、本当は嫌いだったんだ…(あれは演技だったのか)」

とかって言われるけど、まあ、そのときの興味があった僕というのは決して演技ではない。というか、別に興味が無くなったとかではなく、その程度の興味ならいつも健在だし持続している。

 

じっさい、アレにもコレにも瞬間的には興味を持っているんだよ。

ただ、それに人生の大半を費やしたいかといわれれば、別にそこまでの興味はないわ、って感じの物事が大半であって。

 

一般に皆さんのいう「面白い」とか、「興味がある」っていうのが、なんなのかはよくわからない。

 

たとえば自発的にその分野の本を読んだり知識を漁って、「面白いなあ…」と夢想したら、それって興味があったり、面白いと感じているうちには入らないのか?

 

そういう意味での興味だったら、

人文科学、ほぼ全部の分野において興味があるよ?僕は。

 

あんまりIT系とかプログラミングには興味ないかな。抽象的思考が嫌いなので。

 

いつも思うんだけど、一般に一人の人間が興味を持つ範囲って、ほんと幅狭いなって。

だから、世界ってうまく、本当うまいこと住み分けられているなって。

 

だからたまに僕もあこがれる。もっと何にも興味を持たなかったらいいのにって。

そうしたら物事の好き嫌いの優先順位がつけやすかっただろうにって。

しかし、僕はそういう風にならなかった。

困ったことに、なんでもそれなりには興味があるし、それに、それなりにしか興味が無い。

 

それなりの興味を一つに絞れない僕は、たぶん思ってたより社会から規格外なんだと思う。ゼネラリストタイプとしてではなく、スペシャリストタイプとして、複数のことに同時に手を出す人間など、人間が考案して設計した企業においては、ご所望などされてはいない。

 

いや、まあ今までそれなりになんかなあなあでながして生きてきたけどね、

それなりにしか興味が無い多数の興味の群れの中で、

どうしてもこれだけはやらないと死ねないっていう一部の興味の地が見つかっていて、そこをどうにかしたい、

どうにかしたくて、うずうずするんだ。その土地を足がかりに燈台を建て…。

ダヴィンチは天才だったか-生まれる時代を間違えた技術者の末路について。

ふと、レオナルド・ダ・ヴィンチについて考えた。

彼は確かに多才である。たったひとりで、ありとあらゆる方面の知的好奇心を持ち、それらの現象について洞察した大量のアイデア・スケッチが残されている。

そして、人々は彼の業績を褒め称える。ただの芸術家以上の付加価値を付けて。

 

僕はその点に疑問を持った。

 

確かに芸術面での彼の作品は今でも現存しているし、それは評価すべきものである。

しかし、それはそれ自身で評価するべきものではないのか。

 

現実問題として、彼が自然科学者として、技術者として考案し設計したものの内で、

実現まで至った、あるいはその後の科学の基盤となったようなアイデア

どれ程あるのだろうか。

 

有名なものに、彼は空飛ぶ機械のスケッチを多量に残している。

しかし、それらは結局、スケッチのままで留まった。

16世紀に航空機が誕生することはなかった。

 

もし、産業革命後の19世紀・20世紀に彼が生まれていたならば、

きっと彼は実際に飛ぶ航空機を開発することが出来ただろう。

今のような半ば神格化されたような評価を後世の人々からされることは無く、

その時代の中に埋もれる一技術者でしかないとしても、そんなIFの世界の彼は、歴史上で実在したほうのダヴィンチが出来なかったであろう業績を成し遂げられたに違いない。

 

個人として、人格として評価されることは無くても、目標は、達成できる。

どっちの時代に生まれたほうが、彼は、彼自身は充足感に満ちた人生を遅れていたことだろうか、と。

 

 

自分がわりと望んでいたはずの、仕事がなぜかつまらないという 戯言。

まずはkasakoblogさんから引用

好きなことを仕事にすると、かえってキライになるという勘違い : つぶやきかさこ

 

 僕は子供のころから憧れていたもののうち一つと今非常に近い業界にいるのだが、

非常に倦怠感に襲われていて、やる気も起きず、調べもせず、

なんでこんなに意欲がそがれてしまったのだろうと思うことがある。

…ていうか、わりとここ最近ずっと思っている。

 

 なんだ、やっぱりやりたいことじゃなかったんだな。

まあ、自分に向かない(というか出来そうにない)多数の仕事のうち、出来なそうなものを除外していって、その後社会的地位やステータス、と天秤に掛けながら、

(いやそもそも美味しい所だけつまみ食いしようという魂胆が……)

一応今の立場にいるんだが、ぶっちゃけ、多分、この業界はこんなやる気のないスタンスでは務まらない。

 

 最初に社会から報酬を得る形で接した時に、ちょっと社会の底辺を見すぎたのかな、という気もする。

「仕事はえり好みしていいもんじゃない」「わがまま言っていると日雇い労働者になるぞ」と、目の当たりにしてしまった。

 ああはなるまい……と、逃げ癖のようにどこでもいいからなんかやれることを、と求めてしまう癖がどうも根底にあるのだが、

多くの仕事が充実している人って言うのは、多分そのスタンスでは、逆にできないんだろうな、そして、

 いや、もっと案外えり好みしていいもんなんじゃないかなとも思い始めている。

雑感。 五分歩けば金の音にあたる

ここ数日~ないし今月に起きた日々の記録:

(という名の公開処刑/というほど強い語を使うべきでもない何か)

 

○自分にいい訳をしても仕方がない

○インターネット/世界からの連絡のwebから自分を断ってみると、

それはそれで元気になるという事実が判明

○ごはんをたべよう

 

○学生時代に読んでいた漫画を久々に読み返す

→好みのキャラは変わらない:案外変わっていない

/つまらないと思っていた話が面白くなっていると感じた→やっぱり変わっている

【雑感】2・3年来続けていたtwitterのアカウントを消した。

さきほど、二・三年ほど続いていたtwitterのアカウントを消した。

特に理由らしい理由は無い。

 

あるとすれば、それは、マンネリ化の進行と、自分のつぶやきの不毛さに自分自身が飽きたということだろうか。

 

そのアカウント上では、ある種のキャラクター(?)のようなものとして振舞っていた側面があったけれども、そのキャラクターが周りに定着するにつれ、そのこと自体に自分自身が飽きてしまった。

 

なので、これといった理由があったわけではないのだが、なんとなくの感覚で、「このままではいけないぞ」という、漠然とした焦りはあった。そこは、とりとめもないほどぬるい空間で、本拠地をそこにしてはいけないとよく自覚はしていた。

 

自分だけはマンネリズムの罠にはまりはしない、という根拠の無い自負があったけれども、実際のところ、そとから客観的に眺めてみれば、僕は完全にマンネリズムの泥沼にはまりつつあったように思う。

 

twitterに限らず、最近はいろんな関係を自発的に切るようにしている。

それにはとりわけ何がどう嫌、という理由はないのだが、居心地のいいコミュニティーで楽に過ごすことは、停滞につながるように感じるのだ。

抽象的な意味での「停滞」、である。

「停滞」の先にあるのは「死」であると思うし、僕はそんなところで小さく収まりたくはない。いや、収まることは出来ない。

僕は自分が楽に出来ることには価値を見出せないのだ。

「社会の中で役に立てること、自分の出来ることに線を引いて一生懸命やりましょう。」という思考に、どうも根本的になじめない。

(その割りに、問題なのが、外面だけは完全に染まりきっているし、さらに最近ではそれがどんどん内へ浸食してきていることだ)

損なもの、だと思うが、まあ皆意外とそんなものなのではないかと思う。

 

あと、そのアカウントと連結されたクラウドに、いろんなものの習作を置いて創作のモチベーションを維持させる役割も持たせていたが、今はそのような動機付けは必要がなくなったので、その意味でもそのアカウントは不要になったのだ。

 

 

 

日本のマスメディアの報道方法はなぜワイドショー化するのか~無意識のうちの親近感という戦略

ところで、最近の日本のマスメディアの報道傾向について思うことがあるので、今日はそれについて記そうと思う。

 

最近、発生生物学に関する新発見をした研究者が話題になっているが、彼女への日本のマスコミの扱いがちょっとひどいと、逆にネット上で話題になっている。(これもこれでどうかと思うが……)

 

《一晩中泣き明かした30歳若手女性研究者と書く我が国にはゴシップ新聞しかないらしい - WirelessWire News(ワイヤレスワイヤーニュース)》

http://wirelesswire.jp/london_wave/201401310211.htmlhttp://niiuchi.hatenablog.com/entry/2014/01/31/111820

 

 つまり、海外のマスメディアは、ちゃんと研究内容にフォーカスを当てて報道しているのに、日本のマスコミは研究者の人物像(というかむしろキャラクター)に着目して面白おかしく述べている、という批判だ。

これだけの証拠で、「海外は正当に評価する!それに比べて日本は!」という主張に持っていくにはやや強引な気もするが、まあ、少なくとも海外がどうであれ、日本のマスメディアは物事をワイドショー化して報道しようとする傾向があるのは事実だ。

海外のメディアは自国の業績をあげた人に対してそういった野次馬的なアプローチをまったくしないのかといったら、疑問が残るが、しかし、それはあくまでゴシップ誌でありエンターテイメント側の役割であり、それとは別に科学的内容を噛み砕いて興味を持たせようとする報道もちゃんと存在する。しかし、日本語圏のマスメディアの場合は、そもそも内容に対する報道のほうが機能していないということが、この件で浮き彫りにされたようだ。

 

とりわけ、特異に映ったのは、彼女が「平凡である点」をやたら強調している報道だ。

海外(とりわけ米国)の場合も業績を上げた人をピックアップすることはあるが、それはヒーロー化であり、「最初からこの人はこんなに平凡な人間だ!」という扱いをするメディアはあまり見かけない気がする。

 

◎なぜ内容をみないで人を見るか?

人間は興味関心のあることしか知ろうとしない生き物である。そして、日本のマスメディアは、視聴者は研究内容には興味を持たず、その人となりに関心を示すと無意識のうちに判断したウェイトをかけた、ということだろう。

 

その興味というのは、大まかに二種類に分けられると思っていて、

Ⅰ)自分に関係ないが、なぜか持ってしまう興味

Ⅱ)自分に身近な問題としての興味

の二種類があると思う。

 

二種類あるといったが、大体の(Ⅰ)も、まわりまわって自分に関係してくる問題だったりすることがあるので、実は大体の人間が物事に関心を持つ動機なんて、「自分に身近かどうか」がほとんどなんじゃないかと思う。

 

報道の本来の役割は、人に役に立つ情報を流すことであり、さらにそれを興味を持ってもらえるような形で流せればなおよい、というものだ。人に役に立つということは、つまりそれはその人にとって身近なことであることでもあるから、つまり、身近で興味を持たせるようなことしか報道する必要が無い、ってスタンス自体は別に普通のことである。

 

その傾向自体は、日本に限らずどの国でもそうだと思う。

つまり、その「科学的な内容」自体がすでに興味をそそり、身近な話だからこそ、海外のメディアでも大きくピックアップされたのだ。(本当は世界中で、いろんな分野で山のように研究がなされているし、その蛸壺化した分野の中で先進的な発見であっても、埋もれてしまう研究は多い。)

 

STAP細胞が身近?何の話だ?

と思った肩もいるかもしれない。でも考えてみて欲しい。これは近い将来医学に大きくかかわる研究成果である。本当は非常に身近な問題だ。

 

では、なぜ日本のマスメディアではこれほどまでに、科学的な内容ではなく、わかりやすい人物像ばかりが一人歩きして語られる傾向があるのだろうか。

 

 

◎近視眼的な親近感という戦略

 

今回の件では(本当は今回の件に限らず)、日本のマスメディアは、ある研究成果を取り上げるさい、研究内容だけを取り上げるよりも、その発見者を親近感のある人物像として重点的に描写することで、人々の注目が集まるだろうという戦略を、無意識のうちにとったといえる。

その結果、その研究の記事は「研究者の人物像はこういう人です!かわいいでしょ!」という風に描写された。

現に、賛否両論とはいえ、結果的にこれだけ視線を集められたのだから、その「キャラクター化」という表現方法は功を制したとも言える。(もちろんこれはマスメディア側や情報を受け取る側の視点であり、研究チームにとってはたまったものではないかもしれない)

(現に、彼女が遠くの外国の研究者で、外国のチームで同じ研究成果を出したとしたら、たぶん多くの日本にはこの研究成果があったことすら知られないわけだから)

 

 

 

この傾向を、以前から考えていた日本社会の傾向(トレンド)について、関連付けてみようと思う。

 

 

☆2010年代~ 『親近感』が武器になってくる時代

 

ここ近年のバラエティ番組に出てくる芸能人の傾向をみていて、ふと思ったことがある。最近売れ出す芸人には、「こうみえてもあなたと同じごく普通の人間です」ということをアピールする売り方をする人が多い。ひな壇芸人の語るトークはあくまでも等身大の人間の身近なあるあるエピソードだったりするし、最近とみに芸能界内部の上下関係事情や撮影における裏エピソードをあからさまに見せつけられることが多くなった気がする(それとも、こちらは昔からの傾向ですか?)。俺はこうみえても実はこんなに一般人と価値観が違うんだぜ!といった売り出し方をする芸人には、昭和の雰囲気を感じた若い視聴者層の反感を買い、逆に、一見奇怪な雰囲気を押し出していても、実はこんなに良識ある大人!という側面が強調される芸人は親しみの持てる人物像として、人気が出ている気がする。僕も面白く見ているが、マツコと有吉の番組などは典型的な例だろう。アイドルでいったらモモクロやAKBだってそうだ。

 

長々と書いてみたが、一言でまとめれば、今の日本人(特に若い世代)にとって、『親近感がもてるかどうか』が、興味・好感を持てるかどうかの大きな基準になっているらしい、ということだ。

 

(また、これは、先の記事↓とも関連性のある内容だ、

クリエイターのデビュー方法論~ご近所応援タイプと雲の上崇拝タイプと。 - 荷内思考開発所

 

必ずしも、親近感をもたせる人物像(キャラクター)を強調して興味を持ってもらうというやりかたがまずいわけではない。

しかし、それはなんでも使える万能の方法というわけではない。日本のマスメディアはこの部分を見落としていた。

その広報方法は非常に便利だが、本来はそう扱うべきでない「科学研究の報道」まで応用してしまった点が、今回の報道がずれてしまった本質的な問題のひとつなのだろう。

 

 

しかし、近い未来にこの生物学の実験の成果は、今度は医療というブラックボックス・パッケージングをされて、多くの人々の元へ帰ってくる。そのときになったら本当にそれは(いい意味でも悪い意味でも)「誰にとっても身近」なものになってしまう。つまり自分の人生をどう延ばすか・生きるか死ぬか、といった根本的な選択に関係してくる、非常に身近で切実なテーマなのだ。本当は。

だからこそこの研究は「報道される価値がある」と海外でも大きく取り上げられているのだが、そのことに気づけない・価値を見出せないこの国の近視眼的なメディアに対して、悲観すればいいのやら、ほほえましいのやら、複雑な気持ちになる。

 

 

 

 

 

ちなみに、話題になっている研究とは↓

体細胞の分化状態の記憶を消去し初期化する原理を発見 | 60秒でわかるプレスリリース | 理化学研究所

 

なぜSTAP細胞は驚くべき発見なのか――STAP細胞が映し出すもの

http://synodos.jp/science/6918ww.riken.jp/pr/press/2014/20140130_1/digest/

 

 

 

(ちなみに、本文の主張とは関係ないが、僕自身は彼女の研究内容は手放しでほめていいものではないとは思っている。それは生命倫理と切り離せないテーマだからであるが、そういった類の話はまた別の機会にでも書くかもしれない。)

クリエイターのデビュー方法論~ご近所応援タイプと雲の上崇拝タイプと。

友人と、今の時代に、進出のクリエイターが作品を世に出して多くの人から知ってもらうにはどうすればいいかについて話をしていて、面白いすれ違いがあったので、忘備録的にこちらに記してみようと思う。

 

まず友人(以下、S)は、小規模な作品をweb上にどんどん公開して、ファンをつけていくという方法を提示した。ニコニコやyoutube発のアーティストや若者文化が取り上げられる機会がどんどん増えている、今の時代らしい考えだ。

 

僕は、皆が驚くような何らかの要素を取り入れた作品を作り、それをどこかちょっと人の目にとまりやすい方法を模索して、公開するのがいいのではないかと発言した。「目にとまりやすい方法」といっても、流石に広告会社のように多額の資金で枠を買い取ることは現実的ではないので、その部分は今のweb時代に合うようにチューニングする必要があるが、基本的には旧来型のエンターテイメントビジネスの焼き直しみたいな発想に基づく考えである。

(僕自身の意見といっても、元はといえば別の友人Rの入れ知恵かもしれない)

 

それぞれの発想に名前をつけるならば、ざっと、

Sの発想→『ご近所応援・親近感タイプ』

僕の発想→『雲の上・偶像崇拝タイプ』

という感じかなと思う。(もっと良いネーミングがあったらご意見を頂けると嬉しいです)

 

『ご近所応援・親近感タイプ』を基盤とするクリエイターとは、その名の通り、インターネット横町において、ご近所の知り合いが何か面白そうなことをやっているから見に行こう、という親近感的な感情と、うまくwin-winになったクリエイター象だ。相互交流型の情報網が発展した現代のweb時代では、画面ごしに知り合った、数百キロも離れた場所に住んでいる顔も見たことのない友人知人が多くいるのはごくごく普通のことである。そうすると、人々が親近感を持つ「ご近所」の定義も格段に広がってくる。

自分自身を振り返ってみても、10年前の僕は、2013年の未来になったら、まさか自分が日本の北や南の「知らない人達」とリアルタイムで趣味の企画をやるような人間になるとは思いもしなかったことだろう。当時の感覚ではSF夢物語のような未来が、気付かないうちにこんな身近に来ていたのだ。

この場合、応援してくれる人々はかけがえのない顔の見えるひとりひとりの友人知人であり、連綿とした共同体の大切な一員である。あまりに人数が多くなってしまって、現実問題として数えられなくなったとしても、地盤としているものはそういう発想だ。

作品のクオリティ的なものに関しては、多少甘い部分があっても許されるが、どちらかといえば応援してくれる人を裏切るような真似をする方が致命的に響く。例えばそれまでの出身文化を否定したり、(本人には悪気はなくとも)新しい表現に挑戦したり、別のコミュニティーに移行したり、ということが、それまで応援してくれたファンに対する裏切りと映ることがある。

よく、今まで応援していたインディーズアーティストがメジャーにいったらどこか遠くに行ってしまった気がしたという感想を見かけるが、まさにそういうことだろうと思う。

 

一方、『雲の上・偶像崇拝タイプ』は、説明するまでもなく、上で書いた通り今までの(~00年代)エンターテイメントビジネスの焼き直しである。つまり、インパクトのあるものを一方通行的に流せば視聴者はそれに応じて選別し、興味のあるものなら反応して「ファン」になってくれる、という発想である。

この場合、視聴者からしたら、制作者は、とんでもなく想像を絶する「自分とは縁のない世界に生きる雲の上の別の存在」、と認識されている。そもそも、その作品が(例えばミュージシャンのように)直接制作者がスポットライトを浴びるタイプのものでない場合、明確な「作り手がいる」ということ自体が視聴者から忘れられている場合も多い。

(有名なアニメキャラのある仕草・言動・性格を愛でる時に、そのキャラクターの言動を考えた人がどういう人間だかをいちいち意識するファンはなかなかいないはずだ)

この場合、制作者にとってターゲットの視聴者とは、個々の人間であるというよりは、あくまでも「こういったらこう動く群れ」抽象的なまとまりとして考える傾向があると思う。

それでは、それはファンに対して失礼なことなのかと言ったら、そうではない。制作者がファンの事を以上に、視聴者はその作品と制作者を、モノであるかのようにみている。

芸人や有名漫画家がtwitterを始めたことにより、その中身に失望したり幻滅したりしてファンが離れるということが多々あるが、それは、彼らが実は中身のある普通の人間であることを忘れたうえで視聴者はファンになっている、という現実があるからこそのことだろうと思う。

だからこちらの場合も、互いに距離を非常に遠く置いて、或いは真ん中に跳びこせない大きな溝の崖で線を引いて、お互い日常が見えない範囲からモノとして消費し合う、という関係ではwin-winなのだ。

 

 

どちらがいいというものではないが、かなり違う発想を下敷きにした方法論であることは間違いないだろう。