荷内思考開発所

ありがちなことばでありがちなことものを考えてみる

一般に思われているより、知的能力は遺伝しないのかもしれない~よくできている生命 1

成人した親子同士で、話がかみ合わない、意識も合わない、という話をいたるところでよく聞きます。

それは、裏を返せば、遺伝的つながりのある者同士は思考の方向性、知識水準、記憶力その他もろもろが似ていて当り前みたいな暗黙の了解があるがゆえに、必要以上にそう思われているようも見えます。

そこで、そもそもの前提として、知的能力が遺伝するというのは当たり前のことなのでしょうか。

何を言っているんだ、「知能は多くが遺伝する」と結論付けている科学論文は、いっぱいあるだろうと思われるかもしれませんし、ですので科学的なことについてはちょっと口はつぐまなければならないのですが、

しかし、その割には、親子で(考え方・思考の癖・知識や興味があまりにも異なるので)話がかみ合わないケースって非常に普遍的ですよね。

なので、ぼくは今のところ、ひとが言うほど知的能力は遺伝しないのではないかという価値観ベースで考えています。

つまり、けっこう無作為な、ランダムなものなんじゃないかと思ったわけです。

 

じゃあ、なぜ知的能力が遺伝しないのかといえば、生態系としての多様性を維持しやすいようにそうプログラムされているのかもしれないと思ったわけです。

さっき科学的なことは何も言えないといいながら、ここで科学的な発想を持ち込むのは、ちょっと趣旨に反する気もするのですけれども、完全に同じ分野ではないのでちょっとばかし目を瞑ってもらうとして(笑)少し雑感を述べますが、

その生物全体の集団として、ある程度は序はあったほうがいいのだろうけれど、完全に固まって身動き取れなくなってしまうのは、外部の変化への臨機応変な対応ができなくなるので、生物集団全体でみるとあまり「よい」状態でもないんですよね。

ですので、ある程度秩序は形成されつつも、定期的というか自発的に、ある意味ランダムにその秩序は壊される状態、のほうが、集団全体としてはよりしなやかさを増して、強固な状態となるわけです。いっぱんに。

なので、人間の知的能力云々も、基本的には一代限りのもので、本当は次世代には(何もしない限りは)続かないものなのではないかと思うわけです。

個人としての人間自体は、実は変化をきらう性質を大いに持っているようなので、次世代にも同じようであることを無意識のうちに強制しがちではあるのだけれど(全員とは言いませんよ)、ただ、実際のところは、都合よくそのようになってないかもしれない、という発想です。

よく、遺伝子を残すために子孫を作るとかもったいぶっていう人が言いますが、それは集団としてはその通りなのですが、あなた個人に限って言えば必ずしもあなたの性質はあまり受け継がれないということが最初から分かっていたとしたら、同じことを同じように言える人は、いったいどれほど残るのでしょうか、という気もします。

……おっとちょっとわき道にそれすぎてしまったようですね。戻ります。

 

なのでまあ、よくSF等でさんざん言われてきた世界設定の焼き直しみたいな発想ですが、思ったより生物やものの考え方、思考の方向性、…そして、それに続く自我…といったものは、何にも規定されてないし、逆にもっと別の何かから規定されていたのかもしれない、という感じの雑感でした。

 

※ 補足ですが、ぼくはなにがしかの宗教を崇拝しているわけではないので、おそらく無神論者なのですが、先ほどのプログラム云々の分を書く際に、隠れていた主語をどう記述するべきか迷いました。(けっきょくよくわからないまま、隠してしまったのですが。)つまり、上記の文は、主語述語でちゃんと記述すれば「…(前略)多様性を維持しやすいように(生物が、《誰によって》)そうプログラム…」という文面なわけですよね。 ここでいう《誰によって》とは、いったい誰なんだろう、と。僕は神の存在を認めているわけじゃないのに、そこに自然と記述するにせよ宇宙と記述するにせよそれは結局神がかった都合のいい何かになってしまうわけで、つくづく、人間の認識にしろ、文法などのロジックにしろ、「よくわからないなあ」という感想に至ることができるわけです。じっさい、《誰が》なにを、やってるんですかね…。