荷内思考開発所

ありがちなことばでありがちなことものを考えてみる

ダヴィンチは天才だったか-生まれる時代を間違えた技術者の末路について。

ふと、レオナルド・ダ・ヴィンチについて考えた。

彼は確かに多才である。たったひとりで、ありとあらゆる方面の知的好奇心を持ち、それらの現象について洞察した大量のアイデア・スケッチが残されている。

そして、人々は彼の業績を褒め称える。ただの芸術家以上の付加価値を付けて。

 

僕はその点に疑問を持った。

 

確かに芸術面での彼の作品は今でも現存しているし、それは評価すべきものである。

しかし、それはそれ自身で評価するべきものではないのか。

 

現実問題として、彼が自然科学者として、技術者として考案し設計したものの内で、

実現まで至った、あるいはその後の科学の基盤となったようなアイデア

どれ程あるのだろうか。

 

有名なものに、彼は空飛ぶ機械のスケッチを多量に残している。

しかし、それらは結局、スケッチのままで留まった。

16世紀に航空機が誕生することはなかった。

 

もし、産業革命後の19世紀・20世紀に彼が生まれていたならば、

きっと彼は実際に飛ぶ航空機を開発することが出来ただろう。

今のような半ば神格化されたような評価を後世の人々からされることは無く、

その時代の中に埋もれる一技術者でしかないとしても、そんなIFの世界の彼は、歴史上で実在したほうのダヴィンチが出来なかったであろう業績を成し遂げられたに違いない。

 

個人として、人格として評価されることは無くても、目標は、達成できる。

どっちの時代に生まれたほうが、彼は、彼自身は充足感に満ちた人生を遅れていたことだろうか、と。