荷内思考開発所

ありがちなことばでありがちなことものを考えてみる

架空的歌詞ごっこ

創作論

昔は絶対的な神様がいてその息吹を信じてた。
今はもういないと信じている。
筆は動機を見失い。
もう虚空すら彷徨わない。

その意志はどこに。

唯一生きていた表情が描けなくなった。
コピペとAIで済ますのだ。
客はどうせわからない。
分かってるしょせん我々は数学的な生物機構に過ぎず、
だから機械だってきちんと我々のことを模倣できるのだと。

創作の意志はいずこに。

あいつは感情的だと嘲られ、
したがって限りなく理論武装をしてきた。
人よりはるか先回りをし、先手をうって理論の道を征った結果、
人よりはるかに先に創作は機械に、数学的機構に模倣できるものでしかないということを知ってしまった。

創作論の意志はいずこに。

芸術論について

ありとあらゆることは無意味だ。

 

ある作品があるとしよう。

そこには何かを思想を吹き入れた誰かはいないとする。

しかし鑑賞者はつい心を動かされてしまったとしよう。

そんなとき。

鑑賞者はそこに誰もいない、何の意図も意志もないということを受け入れたがらない。

その裏には、心を動かされる芸術を作った人間、あるいは神様の存在を信じていたい。

そういう心理的圧を最近よく感じる。

 

視聴者なり読者なりが、上手く設計図を書かれた自動生成プログラムに思想を感じ、その奥に神を見出すことができるのなら、人間としての作者に意味はない。

 

誰かの作者の願望と思想、渇望と叫び、そういった数々の形にならない思念、息吹。そういったものを流し込まれて型に取られて、小規模なパッケージとして搬出され、商品や芸術作品として陳列され、またとない機会を得て読者視聴者鑑賞者の目の前におかれて、審美される。そのプロセスを得て、鑑賞者となった人は何かインスピレーションを感じ、受取り、考え、そして明日への発想にいかされたりするかもしれない。

かつての芸術というのはそのようなものと認識されていたのではなかったか。

 

そういう共同幻想は確かにあったような気がするけれども、その幻覚は打ち砕かれようとしている。
ほとんどの人はまだ気づいていない。なぜ自分が気付いたかといえばちょっとばかしひとよりパソコンが上手かったということがあるだろう。

あまりによくできた自律論理装置の台頭によって、である。

 

今後芸術というのは、視聴者一人で完結する心の動きプロセスに変わりつつあるような気がするのだ。

 

無意味な世界で、立ち続けるための、自分のための意味を探している。

自分は標準的な人とはかなり違うんだなあということを認識しつつある。

最近、自分は標準的なモデルケースとなる感性を持った人とはかなり違うんだなあということを認識しつつある。

まさかそんなことはあるまい、中二病の一環だろうという客観認識を持とうと努めていたところだったのだけれど、最近のあれやこれや、人々の行動や感情の動きのマス的な動態を見るに、やはり僕自身の感性がおおむねずれていたのではないかという見当をつけ、そのようなある種の客観的な認識を得つつあるのだ。

 

いいか悪いかはわからない。

読書記録 2020/02/21

桐島、部活やめるってよ」という本を読んだ。
映画は観ていない。

二回目の「宏樹」パートを読み、
これをリアルタイムで、あるいは朝井リョウがこれを書いた年齢である20歳前後にこの小説を読んでいなくて良かったと思った。

当時の自分だったら、自分と比べ、圧倒的な「才能の差」を感じて筆を折っていたかもしれない。

 

この歳で高校生をめぐる青春小説を読むのはキッツイなーと思ったけど、
いや、リアルタイムで読まなくて本当に良かった。
ほんとうに。

某実写映画からみる表現の自由について

いま、巷で話題になっている?単館系の低予算っぽい雰囲気の商業映画につきまして、ちょっと思うこと、そして解決策として提案したいことがあったので記事を書きます

人を傷つけかねない表現は「市民の声」なり「当事者の声」なり「公権力による圧力」によって公開停止をするべきか?ということについて、たいへん興味深い話題だなと思いました。

 

まずはじめに。

バイバイ、ヴァンプという映画について、僕は予告編も見ていません。

予告編を見ていなくて視聴した人のレビューから推測した内容のみで書かれている記事ですのであしからず。

 

 結論からすると、「公開停止はしなくていい」ただし、「この映画には差別的表現が含まれています、その差別的表現を架空(フィクション)のものとして現実として切り分けて楽しめる人だけが閲覧出来ます」という新レーティングを設定して、その基準をクリアできない人は娯楽として楽しめないように住み分けたらいいのではないでしょうか。
というか、おそらく昔だったらこの規模のアングラ風の上映である時点で、そういう住み分けは出来ていたかと思うのですが、今は白日のもと、インターネットによってそういった薄暗い溝(どぶ)のようなものも曝されてしまうシステムになっていますので、旧来のやり方が通用しなくなってきたのではないでしょうかね。

本来のR18Gの文面にはその意図が含まれているかもしれませんが、今回は映倫は全年齢向けとして通してしまっているので、そのあたりのレーティング感は事実無根という事でしょう。

これは、高校生ぐらいの学生さんがみて例えば(規模的にはありえませんが)クラスで流行っていたりすると、たとえばその場にいたクローズドな当事者からしたら、かなり厳しいものがあるなというのが個人的見解ですので、「健全」ではないと思うんですね。

ただ、過激な表現や政治的に正しくない、倫理的に道義にもとる表現をするのがいけないことかといえば、そういう表現はあってしかるべしとも思うので、

真に受けて、この価値観を無邪気に内面化しそうな人の視界には入らないようなレーティングなり住み分けを行ったらいいのではないかなあと思いました。

 

まあそんな感じです。それでは!

資本主義におけるAI活用の目的地を先に合議的に決めておいた方がいいと思った話

ちょっといろいろあって、いまAI(※1)と芸術の融合みたいなことの前線近くにいるんですけど、興味深い事実を知っていろいろ発見があったので、ちょっとばかりシェアします。

めっちゃ長くなったんで要約を先に書いておきます。

 

《本記事の要約》

AI利用の最前線を見てきました。

1)クリエイティブ業のうち、コストの関係から優先的に置き換わるのは『0→1』を作る分野。アイデアを出すといった「考える」機能が代替される。

2)クリエイティブ分野において人間の想像をリアルタイムで成果物としてアウトプットする技術が普及したら、つぎは、人間より速いスピードで計算するAIの考えたものをアウトプットして売ることが開発目標になる。AIの本格利用は、経済活動の目的地自体が変え、その立ち居地が補助的なツールでは留まらない。商用プロダクトにおいて、人間のクリエイターのどこかの作業が置き換わるというよりは、人間のクリエイターに制作依頼することが不要(スピード的に遅すぎて不可能)になる。

 

まとめていうと、
「AIはクリエイターの夢を実現するツールではなく、資本家の夢を実現するツール」

 

提案:今の形の社会を持続することを目指すのなら、AI利用にどこかしら歯止めを効かせるための国際協定を作っておいた方がいい。あるいは、社会の変容をそのまま追認する姿勢をとるのなら、人間というものの認識を変え、「人間というのは大変高貴で何に優先しても守るべき誇るべき生命体」ぐらいの、人間の尊厳と喜びがないがしろにされないための世界的な共通認識項を合意・形成しておいた方がいい。

 

  

最前線に迫る現場を見るまでは、自分の中でのAI利用のイメージは楽観的なものでした。

「人間が想像したものをリアルタイプにアウトプットして形にしてくれることを最終的な目標としている便利ツール」

というのがアート分野におけるAI活用の最終目標なんだろうと無邪気に思い込んでいました。


しかし、実際は違いました。

じっさいはこのような方向でAIの活用がすすめられています。

 

1)クリエイティブ業のうち、人件費のかかる分野の置き換えをするAIが優先的に開発が進められている。つまり、置き換わるのは『0→1』を作る分野。大まかな枠やアイデアブレインストーミングとして出す役割が置き換えられつつある。一方、仕上やディテールなどの人間っぽさを付加する部分は、生命科学研究分野の知識を組み入れる必要があるため比較的開発コストが高く、優先順位的にも後回しにされており、クリエイターの手作業での作業が残ることが多い。

2)AIの利用は目的地自体を変えうる(補助的なツールでは留まらない)
いまはまだ、人間の想像をリアルタイムに実現する段階までは到達していないので、今の所は「人間の空想した世界をすぐに、なるべくよりよい精度で、素早くアウトプットする」ということが目標に掲げられることが多いです。
しかし、そこは最終目的ではなく途中の通過点、通過目標に過ぎなかったということを知りました。
人間が物量的に思いつけるアイデアをリアルタイムでアウトプットすることは最終目的ではなく、その先に行くのです。

 

つまり、世界の最前線の目標設定の仕方を見るに、人間の都合より、多くの利益をあげる方が最優先になっているのです。そのため、人間の空想と同じ速度でアウトプットが作れるようになったらその次は、人間に出来ない速度で人間よりも物量をだすということに目的が置き換わっているということを知りました。

人間が10秒分の映像のコンテを書くには、どんなに速くても10秒分の映像を頭にイメージする時間が必要なので、10秒+絵や指示を描く時間がかかります。

(もちろん、慣れで機械的に決めていく方法は有りますが…)

しかし、AIを使うと、ワンクリックで10秒分の映像の設計図を何パターンも出力することが可能です。まさに上記の、人間が自身の体験から集約させた機械的に組む方法というノウハウを組み込むことで、ぱっと意味が通るぐらいの映像の流れぐらいだったらすぐに作れてしまうのです。

そういうわけで、「意味を伝える映像」ぐらいの映像の場合、人間が指示を出すことなく、機械で自動にアウトプットすれば十分実用に達しうるというところまで来ていました。

そうなった場合、目標はどうなるかというと、アウトプットの遅い人間ではなく、はるかに提案速度の速い機械に多くの指示を任せ、「目標自体の物量上限を上げる」ということが起きています。経済的には合理的だと思います。収益を上げるという観点からすると、足かせとなる人間の思考速度に合わせている義理はないわけですから。

 

エンターテイメントの場合、自動運転や医療、流通を担うシステム会社等と違って、その指示が仮に不適切だったとしてもユーザーに損害を与えることは有りません。ですから、指示を出す側が「責任をとる」ということができない機械だったとしても比較的問題が軽微に納まる業種です。そのため、人間と置き換えた場合の責任周りのリスクも軽く、導入がしやすいという事情もあるかもしれません。

いちおうクリエイターの端くれとして、「考える」「アイデアを出す」といった部分から機械に置き換えられつつあるというリアルを知ったとき結構驚きました。

 

今は「上限をこのぐらいの物量まで抑えましょう」という国際協定がないので、クリエイティブの最前線では「より大量の物量の成果物を、よりリアリティの感じられるクオリティで出したら価値」というルールで「代理戦争」をしているということを知りました。国際スポーツのような感じの「代理戦争」です。

スポーツと違って、そこにはルールがありませんので、その場合どうやったら成果を上げられるかといえば、人間をリストラし、疲れを知らず、計算速度では純粋に人間よりも速い機械に代用させるといったほうが物量という意味では成果が上がりますよね、という発想の地続き上でそういった物量競争は行われるんだなあと思いました。

 

まとめていうと、
「AIはクリエイターの夢を実現するツールではなく、資本家の夢を実現するツール」である、ということです。

 

何でそんなに精度がいいの?

「AIの思考手順」の部分にベテラン(人間)のノウハウが組み込まれはじめているからです。優れた開発者だけではクリエイターの作るような作品の模倣まではいけませんが、そこに助言する優れたクリエイターが発生したときに、クリエイター並の演出ノウハウを持ったAIが爆誕します。

 

これは、styleganみたいな絵の自動生成系のアウトプット等を見たときにも思ったことなんですけど、何か既に発表されている作品に対して、人間が模倣した作品を販売すると法律違反になることがありますが(※2)、たとえ著名な作品でも機械の学習データベースにするぶんには法律違反にならないという、その状態が野放しにされているのはどうなんだろうなあとは思っていました。…いましたが、あまりそこに問題提起している人を見かけなかったのであまり口には出してはいませんでした。そして、そこも不思議ではありました。

現実は仮面ライダーゼロワンの明るい未来像よりも容赦がなかった。

仮面ライダーゼロワンでは、人間と同じように漫画が描けるようになったAI(ヒューマギア)にアシスタントをさせるうち、「読者も気付いていないようだし自分が描かなくてもいいじゃないか」と、やる気を失ってしまう漫画家の姿が問題提起としてあげられていました。作中ではこの問題はどのように解決したかといえば、AIは背景アシスタントを行うにとどめ、漫画家自身が再び絵やお話を書くという終わり方をしていました。フィクションで提示される「AIとクリエイティブの共存」はこうでした。
いっぽう今、現実でのクリエイティブ産業の最前線で何が起こっているかといえば、漫画で言えばプロットまで人間が描いて、それを機械に読み込ませると自動でコマワリ案がぱーっと提案されて、それのうちよさそうなのを人間が選んで作画する、ということが起こり始めています。(念のために言うと漫画の分野ではないです)


日本が最前線をいっていて、分業化や機械化が遅れており、今で個人のマンパワーに頼っている漫画産業ですが、逆にいうと、日本が主導権をもち、作家の手作業ベースに拘っている漫画産業だからこそ、まだこのような憂き目にあうのを逃れていられるんだろうなあ、とも思いました。

 

最後にも似たような話題を書きましたが、自分はクリエイターでもあり、なんか俯瞰しているようでもあり、という気質なので、これをいいことと捉えるか残念なことと捉えるかは好悪が付けがたい感じであります。

人間クリエイターが人間という能力の限界という理由で、クリエイティブ業界からリストラされていくのは悲しいことではありますが、人間が想像できるよりはるかに高速で、物量的に大量の作品が供給されうるということは、コンテンツのファンからすると夢も希望もある未来ではあります。

 

アーサー=C=クラークの描く80億年後の未来像ですら、個々人がアート活動をし、そのアート活動を別の人が享受するという形のエンターテイメントが提示されていたのですが、現実においては人間が作らないアートを人間が享受するという世界が提示され始めました。それはいいことなのか、わるいことなのか、どうその波を乗りこなしていけばいいか、考えるべき、対応するべき、対策するべきことは一杯ありそうですね。

 

これらを踏まえて思ったことのは─────

僕の今の段階での提案はこうです。

第一次世界大戦を経て、いろいろな国際協定が生まれたり、ツール(当時でいうと軍事に転用できうる機械技術)の利用方法を制限しようという発想が生まれ、合意がなされるようになりました。
つまり、当時は大戦による大量の人的被害が起こる前に、その事態をあらかじめ想像力をもって防ぐことができなかったわけです。
今このままだと、そういう事態の二の舞というか三の舞いといいますか、AIによってちょっと大変なことが起きうるなという気がしてきました。ですので、これは先手を打って、当時でいう「大戦後の軍事兵器技術の利用制限とかの国際規約」みたいな、「国際協定のAI版」をあらかじめ考えておいた方がいいんじゃないかと言う気がしました。体感です。

 

あるいは、社会の変容をそのまま追認する姿勢をとるのなら、社会における人間というものの認識を変え、「人間というのは大変高貴で何に優先しても守るべき誇るべき生命体」ぐらいの「めちゃ尊いもの、神さま!」ぐらいの扱いにしておいた方がいいんじゃないでしょうか。

なんか、機械の方からすると、人間のできることって、「有機的なしなやかな動きは得意で柔軟さはあるけど、それ以外は、計算が遅くて思考が遅くてアウトプットも遅くて判断も感情とかよくわからんものが邪魔をして合理的な判断も迅速に行えず、仕事作業ができるか目線でいえばポンコツな生き物」ぐらいの認識になってしまうんじゃないかなーという気がしました。可愛くない猫みたいな。

自発的に「あれやりたい!これやりたい!」とか「これすき!(役に立たないけど)」とかそういう方向の感情ベースや個人の主観ベースの思考に関してはまだ人間に部があるなという感じがしますが、それ以外のちゃんと作業進めるとかノウハウにそって安定的にアウトプットするとかそういうのはかなりAIベースでも出来てしまう感じがしましたね。

 

これらは理系の大学院などの現場だと逆に気付かなかった感想です。なんでかというと研究開発って「こんな課題展をみつけました!問題提起します!」「えらいね!」みたいな価値観のコミュニティによって成り立ってる分野であり、これらは上記でいう主観ベースの行動であり、こういったことはAIは不得手だからです。AIは今まで全く問題にされていなかった分野に課題(つまり個人的主観による面白み)を見出す、つまり、今まで特に意味のなかったところに「意味を見出す(付与する)」ことには向きません。

そうではなく、同じ、「なかったものを作り出す」こととはいえ、だいたいの型が決まっていてそのとおりに作るということが得意なのです。
つまり、ある白紙の用紙があって、「あれこれこういうふうにやるといいよ」みたいなふわっとした職人のノウハウがあって、という場合なら、AIはそういったノウハウを教えてもらうことで、そのノウハウの基準から外れない範囲内で限定的に計算をすすめ、アウトプットを出すことができます。

 

なので、クリエイティブに限らず多くの分野で応用可能と思うので、人間の尊厳と喜びがないがしろにされかねないなあと感じます。それを防ぐために、世界的な共通認識項を合意し、形成しておいた方がいいんじゃないかとも思いました。

 

人間の作者が存在しない作品を楽しめるか

クリエイターは「描きたいもの、伝えたい世界」が自らのうちにある人が多いのではないかと思います。それを作品の形に落とし込んで表現し、そして人に伝えるんだ!という情熱の結果として作品を作っている人が大勢いるわけです。そして、世に出ている作品の数々もそのように作られているわけですが、商品として購入したり楽しんだりする側は必ずしもクリエイターの意図や世界を全部汲めているわけではありません。

というか、汲み取りたいが故に読んだり観たりするという人もいますが、多くの人は楽しみたいから作品に浸りたい、だから購入しようと思うんじゃないでしょうか。ようするにクリエイター側は国語の現代文の出題者側で、100点満点で読んでもらえてると期待しながら書くわけですが、別にお金を出して買ってる側が全員100点でなければいけないなんてことはないわけです。実際はぜんぜんだったりして、でも、だからこそ多くの人に楽しんでもらえてる側面があるわけで。

だから何がいいたいかというと別に購入側、視聴者は作品を制作している側に意志が有ろうとなかろうと、それが本当は見よう見真似によって作られたAIが全部作った作品であろうと、その「実は人間は携わっていません」という部分が伏せられている限りは全く問題がなく楽しめるんじゃないかと思うんです。

いまの法律では「人間の作者が存在しているかどうか」の提示義務はありませんので。

まあ、個人的には今後は「この作品は、人間が75パーセントのシナリオを考案しています」みたいな掲示義務があるといいかもと思いますね。「よかった、ちゃんと向こうに人はいるんだ」って思いますし。

 

ここまで読んでくださった皆様、長いのに読んでくださってありがとうございました。

 (以下は注釈です。)

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