荷内思考開発所

ありがちなことばでありがちなことものを考えてみる

人類が何者なのか、判ってしまった。

3日前ぐらい。

どうして人間は「こう」なのか。諍い解り得ないのか、分かり合うには他者の尊厳を侵害や制限をせねばならず、どうしてかくも集団としてこう、「よくできていて」「不自由なのか」ということを発端として考えこんでいたら、その結果として、「人類は何か」ということ、「他の動物とどうちがって、なぜ自分たちは神の御子であるかのように、(そんなことはないのに)無条件で思い込み、振舞うのか」とか、そういった類のその他のこととか、どうしてそうなのか、「その根拠は何か」ということの、それらしい根源と理由について、納得がいく形で気がついてしまった。

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オーディオブック

アマゾンを経由してオーディブルというものを試してみました。

書籍の内容を朗読してくれるアプリというものですが、これはすごく革命的だなと感じました。
画像制作系の作業をしながら、耳では同時に書籍の内容をインプットできるのです。

たったそれだけなのですが、これはすごいなあと思って少しメモ書きをしてみた次第になりました。

善意で敷き詰められた真綿のような世界

インターネットの片隅に投稿された誰かの匿名の投稿。

そこに羅列される善意のアドバイス、善意のコメントにクラクラした。

「あなたはこうやったらふつうになれるんだよ」
「社会人とはこういうものだ」
「そういうことは言っちゃいけない」

 

そういう感情は「いだいちゃ」いけない。

 

というまっとうらしいアドバイス

 

かれらの言うことに従えばこうだ。

諦めること、自分の中でけりをつけることはいいこと、いいことなんだ。


しかし、僕自身はそういう大人になりきれないまま、しかしながら、ある程度歳を重ねてしまったから僕は知っている。

バズったツイートやインターネットまとめ掲示板に書き込んでる暇人の親切な善意の台詞に、真実はない。

 

諦めようとして諦めそびれた、自分に見切りをつけきれなかった肥大した自尊心の人たちがどうなったかといえば、周りを見る限り、だいたいなるようになっているのだけれど。

あまりにも多くの人が常識からの脱落を怖れてどんどん脱落していくから、気付いたら諦めが悪い人が残っている。席は大分空いてきた。

 

そういうものは見えないし、皆わざわざ言わないから、手軽に手に入るのは親切な善意からの「君には無理だ諦めろ」という声。そしてギアをでチューンして少し社会と折り合いが良くなるや否や「よくやった大人になったね。成長したね」と手のひらをくるっとかえし褒める声。

 

その繰り返し。

 

 

早い段階で諦めてしまった大半の人からは、諦めが悪い人間にとっての到達した世界を覗き見ることが出来ない。

馬って自由な乗り物なんだなあ

西部劇の映画を見ていて、馬が未舗装道路もなんのその、はだか山を縦横無尽に駆け回る映像を見ていて少し知見を改めた。

 

そうか、車が行けないところでも、馬は自在に行くことができるのだ。

 

もしかしたら、車輌が道路を行きかう現在よりも、馬にのってそこかしこを走り回れた150年前の人間社会のほうが、あるいみ個々の人間が自由に行動できる範囲自体は広かったのかもしれない。

自殺について。

たしか8年前のことだったと思う。

ある漫画家さんが31歳で自殺したと報道された。

その漫画家さんの公開ミニブログを覗いたところ、当時ミニブログはそのままに残されていた。今はどうなっているかは知らない。

特に当時の自分には
「自分は怒りを原動力にして作品を書くタイプではない」
「真綿で首を絞められる思いがする」
という言葉が印象に残った。

 

自分はその漫画家さんと面識があったわけではない。もちろんやり取りもしたことがない。どちらかといえば当時の自分にとっては「雲の上の人」だった。

その人がデビューしたのはとある雑誌の新人賞だった。その新人賞の初回の受賞者だった。
自分はそれよりずっと後の新人賞に応募してたか担当がついてたかぐらいのただの新人作家だった。

その作家さんの作風、画面、その雑誌の方向性やカラー。キャラクターの表情、テーマ、表現方法。そういったものに、当時の自分は好感を持ち、親近感を持っていた。共感していた。とはいっても、いくつもある自分の作風や感受性の一部の話であって、そちらだけが僕のすべての方向性というわけではなかったのだけれども…、まあそのこと自体はこの記事の話題ではないのでどうでもいい。

ともかく、当時の自分は、「このままの作風、この雑誌での成功の向こうには、《自殺》があるかもしれない」という現実を学んだ。

それは驚きだった。

それは、売れて誰でも知る国民的作家というほどまで売れていないことに絶望したからなのか?とも表面的な邪推をしたこともあったが、例えば自分だったら、と、「好きな作品を書き続けて生きられればそれで幸せじゃないか」と、無邪気な足りない頭で思った。
結局、当時の、人生経験の足りなく人に対する感情も想像力も欠如していた僕には、彼がいったい何を絶望したのかはわからなかった。

 

当時の僕にとっての「成功=自分の作家性を打ち出して、専業作家になること」の向こうにある、《真綿で首を絞められる思い》というものが、どういうものなのか想像がつかなかった。想像はつかなかったが、「そういうことがある」ということを学んだ。

 

多分彼の「自殺」という報道は、今の僕を形成する役に立ったのだと思う。ある種の礎になった。指針になった。もちろん、その割合は決して大きいものではないが、その中の一つになったことは事実だろう。


《職業漫画家という肩書きを得た後の真綿で首を絞められる思いの末の自殺》

そのカッコ《》の中の概念を習得したのは非常に僕にとっては衝撃的で有益なことだった。

成功してもそのようなことになる可能性があるのだ。
当時の自分の夢見る将来の《成功》の後にも、そういった《自殺》ということが選択肢としてありうるとぼんやりと考え、それによって、それを予防するという発想を得るに至った。

 

いつしか、報道から若いアーティストの自殺という文字が消えたように感じる。

 

それはいいことなのか。わからない。

目標が定まらない

アニメが完成したあとなにをしようかなあというのがいまいち見えてなくて、

漠然と考えてはいたんですけれどどうするべきか答えは決めていません。

 

 

あ、今これ書きかけの歌詞なんですけど、こういう平坦な気分な時に見ると、「あっ、良いな…。」って思います。

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見渡す限り人間の痕跡だらけの世界に眩暈がする。

多分それは色鮮やかで美しい眩暈なのだ。

 

右を見れば「人間」左を見れば「人間」モニターを見ればモニターの向こうへ「人間」外へ行けば野山に行かない限り「人間」

どこを見渡しても人間の痕跡がする。

あまつさえ、人間の生活圏のことを「世界」と何の疑いもなくいってはばからない人も多い。

 

人間が決して嫌いではない気がするから、構わないといえば、まあ構わない。

しかしながら、見渡す限り人間であるこの世界に、たまにくらくらして距離を置きたくなることがあるのも決して嘘ではない。

距離を置いて閉じこもれる場所なんて実際どこにもないのだけれど。