荷内思考開発所

ありがちなことばでありがちなことものを考えてみる

読書記録 2020/02/21

桐島、部活やめるってよ」という本を読んだ。
映画は観ていない。

二回目の「宏樹」パートを読み、
これをリアルタイムで、あるいは朝井リョウがこれを書いた年齢である20歳前後にこの小説を読んでいなくて良かったと思った。

当時の自分だったら、自分と比べ、圧倒的な「才能の差」を感じて筆を折っていたかもしれない。

 

この歳で高校生をめぐる青春小説を読むのはキッツイなーと思ったけど、
いや、リアルタイムで読まなくて本当に良かった。
ほんとうに。

某実写映画からみる表現の自由について

いま、巷で話題になっている?単館系の低予算っぽい雰囲気の商業映画につきまして、ちょっと思うこと、そして解決策として提案したいことがあったので記事を書きます

人を傷つけかねない表現は「市民の声」なり「当事者の声」なり「公権力による圧力」によって公開停止をするべきか?ということについて、たいへん興味深い話題だなと思いました。

 

まずはじめに。

バイバイ、ヴァンプという映画について、僕は予告編も見ていません。

予告編を見ていなくて視聴した人のレビューから推測した内容のみで書かれている記事ですのであしからず。

 

 結論からすると、「公開停止はしなくていい」ただし、「この映画には差別的表現が含まれています、その差別的表現を架空(フィクション)のものとして現実として切り分けて楽しめる人だけが閲覧出来ます」という新レーティングを設定して、その基準をクリアできない人は娯楽として楽しめないように住み分けたらいいのではないでしょうか。
というか、おそらく昔だったらこの規模のアングラ風の上映である時点で、そういう住み分けは出来ていたかと思うのですが、今は白日のもと、インターネットによってそういった薄暗い溝(どぶ)のようなものも曝されてしまうシステムになっていますので、旧来のやり方が通用しなくなってきたのではないでしょうかね。

本来のR18Gの文面にはその意図が含まれているかもしれませんが、今回は映倫は全年齢向けとして通してしまっているので、そのあたりのレーティング感は事実無根という事でしょう。

これは、高校生ぐらいの学生さんがみて例えば(規模的にはありえませんが)クラスで流行っていたりすると、たとえばその場にいたクローズドな当事者からしたら、かなり厳しいものがあるなというのが個人的見解ですので、「健全」ではないと思うんですね。

ただ、過激な表現や政治的に正しくない、倫理的に道義にもとる表現をするのがいけないことかといえば、そういう表現はあってしかるべしとも思うので、

真に受けて、この価値観を無邪気に内面化しそうな人の視界には入らないようなレーティングなり住み分けを行ったらいいのではないかなあと思いました。

 

まあそんな感じです。それでは!

資本主義におけるAI活用の目的地を先に合議的に決めておいた方がいいと思った話

ちょっといろいろあって、いまAI(※1)と芸術の融合みたいなことの前線近くにいるんですけど、興味深い事実を知っていろいろ発見があったので、ちょっとばかりシェアします。

めっちゃ長くなったんで要約を先に書いておきます。

 

《本記事の要約》

AI利用の最前線を見てきました。

1)クリエイティブ業のうち、コストの関係から優先的に置き換わるのは『0→1』を作る分野。アイデアを出すといった「考える」機能が代替される。

2)クリエイティブ分野において人間の想像をリアルタイムで成果物としてアウトプットする技術が普及したら、つぎは、人間より速いスピードで計算するAIの考えたものをアウトプットして売ることが開発目標になる。AIの本格利用は、経済活動の目的地自体が変え、その立ち居地が補助的なツールでは留まらない。商用プロダクトにおいて、人間のクリエイターのどこかの作業が置き換わるというよりは、人間のクリエイターに制作依頼することが不要(スピード的に遅すぎて不可能)になる。

 

まとめていうと、
「AIはクリエイターの夢を実現するツールではなく、資本家の夢を実現するツール」

 

提案:今の形の社会を持続することを目指すのなら、AI利用にどこかしら歯止めを効かせるための国際協定を作っておいた方がいい。あるいは、社会の変容をそのまま追認する姿勢をとるのなら、人間というものの認識を変え、「人間というのは大変高貴で何に優先しても守るべき誇るべき生命体」ぐらいの、人間の尊厳と喜びがないがしろにされないための世界的な共通認識項を合意・形成しておいた方がいい。

 

  

最前線に迫る現場を見るまでは、自分の中でのAI利用のイメージは楽観的なものでした。

「人間が想像したものをリアルタイプにアウトプットして形にしてくれることを最終的な目標としている便利ツール」

というのがアート分野におけるAI活用の最終目標なんだろうと無邪気に思い込んでいました。


しかし、実際は違いました。

じっさいはこのような方向でAIの活用がすすめられています。

 

1)クリエイティブ業のうち、人件費のかかる分野の置き換えをするAIが優先的に開発が進められている。つまり、置き換わるのは『0→1』を作る分野。大まかな枠やアイデアブレインストーミングとして出す役割が置き換えられつつある。一方、仕上やディテールなどの人間っぽさを付加する部分は、生命科学研究分野の知識を組み入れる必要があるため比較的開発コストが高く、優先順位的にも後回しにされており、クリエイターの手作業での作業が残ることが多い。

2)AIの利用は目的地自体を変えうる(補助的なツールでは留まらない)
いまはまだ、人間の想像をリアルタイムに実現する段階までは到達していないので、今の所は「人間の空想した世界をすぐに、なるべくよりよい精度で、素早くアウトプットする」ということが目標に掲げられることが多いです。
しかし、そこは最終目的ではなく途中の通過点、通過目標に過ぎなかったということを知りました。
人間が物量的に思いつけるアイデアをリアルタイムでアウトプットすることは最終目的ではなく、その先に行くのです。

 

つまり、世界の最前線の目標設定の仕方を見るに、人間の都合より、多くの利益をあげる方が最優先になっているのです。そのため、人間の空想と同じ速度でアウトプットが作れるようになったらその次は、人間に出来ない速度で人間よりも物量をだすということに目的が置き換わっているということを知りました。

人間が10秒分の映像のコンテを書くには、どんなに速くても10秒分の映像を頭にイメージする時間が必要なので、10秒+絵や指示を描く時間がかかります。

(もちろん、慣れで機械的に決めていく方法は有りますが…)

しかし、AIを使うと、ワンクリックで10秒分の映像の設計図を何パターンも出力することが可能です。まさに上記の、人間が自身の体験から集約させた機械的に組む方法というノウハウを組み込むことで、ぱっと意味が通るぐらいの映像の流れぐらいだったらすぐに作れてしまうのです。

そういうわけで、「意味を伝える映像」ぐらいの映像の場合、人間が指示を出すことなく、機械で自動にアウトプットすれば十分実用に達しうるというところまで来ていました。

そうなった場合、目標はどうなるかというと、アウトプットの遅い人間ではなく、はるかに提案速度の速い機械に多くの指示を任せ、「目標自体の物量上限を上げる」ということが起きています。経済的には合理的だと思います。収益を上げるという観点からすると、足かせとなる人間の思考速度に合わせている義理はないわけですから。

 

エンターテイメントの場合、自動運転や医療、流通を担うシステム会社等と違って、その指示が仮に不適切だったとしてもユーザーに損害を与えることは有りません。ですから、指示を出す側が「責任をとる」ということができない機械だったとしても比較的問題が軽微に納まる業種です。そのため、人間と置き換えた場合の責任周りのリスクも軽く、導入がしやすいという事情もあるかもしれません。

いちおうクリエイターの端くれとして、「考える」「アイデアを出す」といった部分から機械に置き換えられつつあるというリアルを知ったとき結構驚きました。

 

今は「上限をこのぐらいの物量まで抑えましょう」という国際協定がないので、クリエイティブの最前線では「より大量の物量の成果物を、よりリアリティの感じられるクオリティで出したら価値」というルールで「代理戦争」をしているということを知りました。国際スポーツのような感じの「代理戦争」です。

スポーツと違って、そこにはルールがありませんので、その場合どうやったら成果を上げられるかといえば、人間をリストラし、疲れを知らず、計算速度では純粋に人間よりも速い機械に代用させるといったほうが物量という意味では成果が上がりますよね、という発想の地続き上でそういった物量競争は行われるんだなあと思いました。

 

まとめていうと、
「AIはクリエイターの夢を実現するツールではなく、資本家の夢を実現するツール」である、ということです。

 

何でそんなに精度がいいの?

「AIの思考手順」の部分にベテラン(人間)のノウハウが組み込まれはじめているからです。優れた開発者だけではクリエイターの作るような作品の模倣まではいけませんが、そこに助言する優れたクリエイターが発生したときに、クリエイター並の演出ノウハウを持ったAIが爆誕します。

 

これは、styleganみたいな絵の自動生成系のアウトプット等を見たときにも思ったことなんですけど、何か既に発表されている作品に対して、人間が模倣した作品を販売すると法律違反になることがありますが(※2)、たとえ著名な作品でも機械の学習データベースにするぶんには法律違反にならないという、その状態が野放しにされているのはどうなんだろうなあとは思っていました。…いましたが、あまりそこに問題提起している人を見かけなかったのであまり口には出してはいませんでした。そして、そこも不思議ではありました。

現実は仮面ライダーゼロワンの明るい未来像よりも容赦がなかった。

仮面ライダーゼロワンでは、人間と同じように漫画が描けるようになったAI(ヒューマギア)にアシスタントをさせるうち、「読者も気付いていないようだし自分が描かなくてもいいじゃないか」と、やる気を失ってしまう漫画家の姿が問題提起としてあげられていました。作中ではこの問題はどのように解決したかといえば、AIは背景アシスタントを行うにとどめ、漫画家自身が再び絵やお話を書くという終わり方をしていました。フィクションで提示される「AIとクリエイティブの共存」はこうでした。
いっぽう今、現実でのクリエイティブ産業の最前線で何が起こっているかといえば、漫画で言えばプロットまで人間が描いて、それを機械に読み込ませると自動でコマワリ案がぱーっと提案されて、それのうちよさそうなのを人間が選んで作画する、ということが起こり始めています。(念のために言うと漫画の分野ではないです)


日本が最前線をいっていて、分業化や機械化が遅れており、今で個人のマンパワーに頼っている漫画産業ですが、逆にいうと、日本が主導権をもち、作家の手作業ベースに拘っている漫画産業だからこそ、まだこのような憂き目にあうのを逃れていられるんだろうなあ、とも思いました。

 

最後にも似たような話題を書きましたが、自分はクリエイターでもあり、なんか俯瞰しているようでもあり、という気質なので、これをいいことと捉えるか残念なことと捉えるかは好悪が付けがたい感じであります。

人間クリエイターが人間という能力の限界という理由で、クリエイティブ業界からリストラされていくのは悲しいことではありますが、人間が想像できるよりはるかに高速で、物量的に大量の作品が供給されうるということは、コンテンツのファンからすると夢も希望もある未来ではあります。

 

アーサー=C=クラークの描く80億年後の未来像ですら、個々人がアート活動をし、そのアート活動を別の人が享受するという形のエンターテイメントが提示されていたのですが、現実においては人間が作らないアートを人間が享受するという世界が提示され始めました。それはいいことなのか、わるいことなのか、どうその波を乗りこなしていけばいいか、考えるべき、対応するべき、対策するべきことは一杯ありそうですね。

 

これらを踏まえて思ったことのは─────

僕の今の段階での提案はこうです。

第一次世界大戦を経て、いろいろな国際協定が生まれたり、ツール(当時でいうと軍事に転用できうる機械技術)の利用方法を制限しようという発想が生まれ、合意がなされるようになりました。
つまり、当時は大戦による大量の人的被害が起こる前に、その事態をあらかじめ想像力をもって防ぐことができなかったわけです。
今このままだと、そういう事態の二の舞というか三の舞いといいますか、AIによってちょっと大変なことが起きうるなという気がしてきました。ですので、これは先手を打って、当時でいう「大戦後の軍事兵器技術の利用制限とかの国際規約」みたいな、「国際協定のAI版」をあらかじめ考えておいた方がいいんじゃないかと言う気がしました。体感です。

 

あるいは、社会の変容をそのまま追認する姿勢をとるのなら、社会における人間というものの認識を変え、「人間というのは大変高貴で何に優先しても守るべき誇るべき生命体」ぐらいの「めちゃ尊いもの、神さま!」ぐらいの扱いにしておいた方がいいんじゃないでしょうか。

なんか、機械の方からすると、人間のできることって、「有機的なしなやかな動きは得意で柔軟さはあるけど、それ以外は、計算が遅くて思考が遅くてアウトプットも遅くて判断も感情とかよくわからんものが邪魔をして合理的な判断も迅速に行えず、仕事作業ができるか目線でいえばポンコツな生き物」ぐらいの認識になってしまうんじゃないかなーという気がしました。可愛くない猫みたいな。

自発的に「あれやりたい!これやりたい!」とか「これすき!(役に立たないけど)」とかそういう方向の感情ベースや個人の主観ベースの思考に関してはまだ人間に部があるなという感じがしますが、それ以外のちゃんと作業進めるとかノウハウにそって安定的にアウトプットするとかそういうのはかなりAIベースでも出来てしまう感じがしましたね。

 

これらは理系の大学院などの現場だと逆に気付かなかった感想です。なんでかというと研究開発って「こんな課題展をみつけました!問題提起します!」「えらいね!」みたいな価値観のコミュニティによって成り立ってる分野であり、これらは上記でいう主観ベースの行動であり、こういったことはAIは不得手だからです。AIは今まで全く問題にされていなかった分野に課題(つまり個人的主観による面白み)を見出す、つまり、今まで特に意味のなかったところに「意味を見出す(付与する)」ことには向きません。

そうではなく、同じ、「なかったものを作り出す」こととはいえ、だいたいの型が決まっていてそのとおりに作るということが得意なのです。
つまり、ある白紙の用紙があって、「あれこれこういうふうにやるといいよ」みたいなふわっとした職人のノウハウがあって、という場合なら、AIはそういったノウハウを教えてもらうことで、そのノウハウの基準から外れない範囲内で限定的に計算をすすめ、アウトプットを出すことができます。

 

なので、クリエイティブに限らず多くの分野で応用可能と思うので、人間の尊厳と喜びがないがしろにされかねないなあと感じます。それを防ぐために、世界的な共通認識項を合意し、形成しておいた方がいいんじゃないかとも思いました。

 

人間の作者が存在しない作品を楽しめるか

クリエイターは「描きたいもの、伝えたい世界」が自らのうちにある人が多いのではないかと思います。それを作品の形に落とし込んで表現し、そして人に伝えるんだ!という情熱の結果として作品を作っている人が大勢いるわけです。そして、世に出ている作品の数々もそのように作られているわけですが、商品として購入したり楽しんだりする側は必ずしもクリエイターの意図や世界を全部汲めているわけではありません。

というか、汲み取りたいが故に読んだり観たりするという人もいますが、多くの人は楽しみたいから作品に浸りたい、だから購入しようと思うんじゃないでしょうか。ようするにクリエイター側は国語の現代文の出題者側で、100点満点で読んでもらえてると期待しながら書くわけですが、別にお金を出して買ってる側が全員100点でなければいけないなんてことはないわけです。実際はぜんぜんだったりして、でも、だからこそ多くの人に楽しんでもらえてる側面があるわけで。

だから何がいいたいかというと別に購入側、視聴者は作品を制作している側に意志が有ろうとなかろうと、それが本当は見よう見真似によって作られたAIが全部作った作品であろうと、その「実は人間は携わっていません」という部分が伏せられている限りは全く問題がなく楽しめるんじゃないかと思うんです。

いまの法律では「人間の作者が存在しているかどうか」の提示義務はありませんので。

まあ、個人的には今後は「この作品は、人間が75パーセントのシナリオを考案しています」みたいな掲示義務があるといいかもと思いますね。「よかった、ちゃんと向こうに人はいるんだ」って思いますし。

 

ここまで読んでくださった皆様、長いのに読んでくださってありがとうございました。

 (以下は注釈です。)

続きを読む

世のため人のため

世のため人のために何かを成し遂げようと思っていたけれど、「世のため人のために何かを成し遂げようと思ってこれを作っている」というと何を言っているのだというふうな視線に晒される。

 

世のため人のためという抽象的な相手に対して何か善行を行いたいというのは、自身のコンプレックスと満たされなさの裏返しなのではないかという心理学的な指摘があったような気がしてしばらく控えてみた。

 

自分が個人として幸福を得ることを最大化するように心がけてみた。自分がやりたいこと、日常を楽しく生きること、それらの優先順位を上げてみようとした。

日々は楽しくなっていったが、しかしやるべきことは永久に後回しにしてしまっている。理由も良くわからなくなった。世間では趣味だとか楽しみだとか思われているらしい。もうよくわからない。趣味だから、楽しい余暇のことだから、優先順位として後回しにしていいのではないか?いいのではないか?

その場その場の楽しみを優先するばかりに後回しにしていった結果、当初自分で立てていた目標はまだ達成されていないまま刻刻と時間だけがすぎていく。

「今の日常は楽しい。」

わりとそろそろいろんなことが限界であるようで、たいへん限界である。

 

いろいろあって、「規範的なライフコースとしての幸福像」というのは、ある程度提供されているのだけれど、僕は最初からその幸福像にそもそも合致しないということが理解っていたはずだ。わかっていたのに、その規範に無自覚に従うものの声に無批判に相槌を打ちすぎ、耳を傾けすぎていた。


無理である。
もっと彼らと自分は根本的に違うのだと気付いているべきだった。

 

いや、気付いていたけれど半分ぐらいいる普通の人間の感性が惰性のまま社会にあわせることを選択してた結果が今なのではないか?

twitterからの覚え書き

僕は極めて常識人なんですけど、ただ属性が極めて特殊なので、リアルだと周りが勝手にこういうものが好きでこういう性格だろうと勝手に決め付けた挙句それを前提にコミニュケーションをされて、いや貴方の認識間違ってるよと指摘するとキチガイと認定され石を投げられるのでうっすら社会が嫌いです。

「このぐらいなら外見や第一印象から勝手に決めても失礼に当たらない」という社会的合意のラインがありますが、僕の場合はそのラインよりはるかに手前で「それは失礼だ」という認識になるので、だからこそ極力他者と関わりたくありません。

 

なのでネットや文字ベースからスタートするコミニュケーション形態を得たとき、思ったより僕の認識する僕が僕自身だったというか、思ったよりこれはまがい物ではなく本物の意志を持った人格だったんだなという知見を得ました。制作作品の感想とか交流とかでもそうだったんですけど。

 

僕が責任を持って振舞える自分という自我と人格はこれだけれど、しかし、社会的正しさのためには、こうしなければ貴方は社会の構成員として振舞うことが許されないよ、少なくとも皆が喜ぶそのような扱いで喜びではなく怒りを感じるのは流石に困るからこちらにあわせてくれと社会は述べるわけですね。

 

なので本来の制作動機はこの腐った社会を焼き払うことだったわけなんですが、あまりにも長いこと負け続け、焼き払おうとする僕が間違っているんじゃないかという気がしてきたわけです。僕一人がどうにかなれば誰も困っていないので、そもそも焼き払おうとすることが悪なのではないかと。僕は悪では。

 

だからこそ素晴らしく皆様により受け入れていただけるような優しい世界観の温かいお話を書いていたわけですね。

 

 

 

続きを読む

ジェンダーについて

これは、本当は最近、中編小説の形で書きかけてはいたのだけれど、最近の自分の小説や物語としての関心ごとがこれではないので、ここに独立した形で文章という形で骨子を記しておこうと思います。
この話題について、個人的に気がのらないが故に後回しにしているうちに話題が風化して(というより、社会的な議論がないまま科学の方が進んでしまって)人間の人格と尊厳の方がないがしろにされるような流れにもなりそうだと思ったので、

 

(純粋に小説というにはテーマ性やストーリーライン(=枠組みとしてのハコ)の方が前面に出すぎたうえ、登場人物の心理描写や魅力自体はかなり浅く薄めた作りをしているので、純粋に面白くないなと思ったのが小説として後回しにしている理由です。個人的に最近の自分の中での関心ごとはキャラクター物語なので、すすめる意欲があまりなかった感じです。あと、今の流行としてもそうだと思うし、さらにいうと、自分は「枠組みだけ書く人」という印象を初期活動で付けすぎたので(諸星大二郎っぽいといわれたことが有ります)、別にそういうわけでもなく案外普通の人ですよという方向でやっていきたさもあります。普通語彙に戻ってしまった。)

 

ジェンダーについてとありますが、いわゆる男性女性ジェンダーがどうこう、社会の中で男が~女が~という話では有りません。

 

あれですね、なぜ(ほとんどの)人は自分のことを男/女と認知し、それを疑わないで受け入れるのか?という話です。

 

それが不思議でした。

自分のことを男/女(/その他)と心から思い込む認知のことを性自認といいますが、大体の人は性自認と生物学的な特徴がイコールで結ばれています。
そして、性愛対象として生物学的特徴が異なっている側の人を無自覚に性愛的に好むという傾向もあるように見受けられます。

 

今の社会では、『性指向は個性』、『性自認は個性』ということになっています。

 

個人的に、そういうセクシャルマイノリティー的な自我や認知というのは、生物学的にどこか脳かどこかの認知機能をつかさどる部分のどこかが、身体性とは別の性別の方に分化したケースなんじゃないかと思ってるんですよね。

つまり、男性と女性の両方の部分を生物学的に持っているのではないかと。

あくまで憶測では有りますが、でも有りうるかもしれない話かなあと思っています。

そこで、もし今後、「性別違和を感じる個体」イコール「脳のどこかが分化過程で男性/女性になった個体」ということが、科学的証拠を持って示された場合、その人はその後どのように社会とおりあわせを付けていくべきでしょうか。

 

今のところは、「心の性別」という曖昧な概念を最重要視するという価値観が(イスラム教を除く)多くの社会で浸透していますから、その場合は「身体を心の性別側に合わせる」「社会的な振る舞いを心の性別側に合わせる」という措置をとることが一般的です。

ただ、思うに、「心の性別」という曖昧な概念を最重要視するという価値観自体がある種の宗教観のようなものではないかとも思えるのです。

つまり、別の強固な宗教観が出てきた場合、バッティングする可能性がありうる概念だ、と。
そして、科学というのは、そのバッティングを引き起こすに足るような強固で堅牢な価値基準だと体感的に感じます。

 

まあ要するに「科学的正しさ」って強いよねー。という話です。

 

もし、性別違和が生物学的な現象であり、投薬などで軽減される現象だとした場合、「身体の性別に脳を強制しよう」という話が発生したりしませんか?という問題提起です。

 

今の社会では、「抗鬱剤」や「ADHD用の薬」などで、神経系の特殊さを均(なら)す薬が実用化されています。合法化は微妙ですが、試験の成績をあげるためのスマートドラッグなるものを服用する人たちもいるみたいですね。


なので、イメージとしては、脳神経の働きを一部を薬を使って変更する、みたいなことは、社会的にはOKなこととして合法的なコンセンサスが取れている社会になっているわけです。

 

もし、今後、(あくまで仮定ですが)性別違和の根本原因が脳内物質や神経系統を基にするものだと判明したとしたら、それらの特性と同様に、薬や後天的な処理で変更が出来るようになる類のものになりうるかもしれません。

その場合、その人の性別的認知を後天的に変更することが、社会的に正しくなりうるでしょうか?

これわりとただの勘なんですけど、今の感じだと社会的に正しいと主張する一派がでてきて、そしてわりとその認識が勢力を持ちうるところまではいきかねないかもなあと思っています。

 

「ずっと性別違和の話じゃねーか、ジェンダーだなんて言葉が大きすぎるじゃないか?」と思われるかもしれません。ここでようやく包括的なジェンダーの話につながります。

 

そこで、その「後天的に性別を変更する手段」がわりと社会的な合意を得て実行され始めるようになったとしましょう。

例えば、清水さんという人がいたとしましょう。性自認と身体や戸籍の性が異なる方で、普段の行動や思考のベースにもそれが如実に滲み出ているタイプの方でした。(例えば、イメージとしては、身体は男だけど明確に雰囲気が女性だよね、話していても間合いが女性的だよね、とか人間関係の形成の仕方が女性的だよね、というタイプの)

その清水さんが、脳神経に作用する薬を使用することで身体や戸籍の性別としての自覚が芽生え、身体や戸籍の性別としての性自認を得、身体や戸籍の性別で形成された社会的役割やグループの構成員として身体や戸籍の性別側の性別で溶け込むことに違和感がなくなったとしましょう。

 

その清水さんは、元の清水さんと同一人物ですか?

 

行動や振る舞いパターンがガラッと変わってしまった後の清水さんは、自他共に、元の清水さんと本当に同じ人間なのでしょうか?

顔や声、身体的特徴がよく似た、よく似た、同じ個体を引き継いだだけの別人なのではないでしょうか?

 

僕が普段、日常においてジェンダーというものが存在するように一番感じるタイミングは、「男性/女性集団において(個体差はあるものの統計的には)コミニュケーションの間合いの取り方にある種の傾向がある」そして「その傾向自体は国籍人種を超えたり等の全く違う環境で派生した集団にさえ、共通点が見受けられるように(思われる)」という実例を目にした時なのですが、脳内を科学的に操作することによって、その人の自我の中の「性別に対する自己認知」という部分を変更するとは、その人のその人たら締める行動や思考の源泉をいじくりまわすことになってしまいやしませんか?

そして、根幹となる行動や興味関心をつかさどる部分を変更されたその人は、もう、自他共にその人自身と言えるのか?という問題提起をそろそろしたかったなーという話でした。

 

そして、その人自身の認知を社会のためだからといって変更する権限は社会には有りうるのか?みたいなこともいいたかった感じですね。

 

うん、キャラクター小説にするにはめっちゃつまんなそうな話だな。文章でかいといてよかった。話が仮定に仮定を乗せて二転三転してるのはいかにも小説のストーリーテリングをベースにしてますみたいな感じの趣がありますね。ほんとうにその原因が小説だったからなのかは定かではないですが……。

 

めっちゃ国語の現代文のテストみたいな文章になってしまいましたねー。

レベルアップとともに、また変わってきた、見渡せるようになった水平線の姿

また見渡せる世界が変わってきた。
という感じ。


「創作意欲がなくなった」というより、世界への期待が無に達したという感じが近いかもですね。

 

 

誰かのためでなくただ作品を作って公開するということが難しくなってきた。
あくまで個人的な内面の事情である。

 

作品を公開する地平線は結局この同じ社会なのだ。みる人も評価する人も感じる人も考える人も同じ、同じ人達であって、自分がまだみたこともないような唐突な価値観を持った誰かではなく、結局同じ人たちの間にいきわたる。同じ社会、同じ世界。

 

同じ顔ぶれに同じ幻影を見せるためだけにこんな回りくどい舞台の裏側で(自発的に)あくせくしなければいけないのかと思う。

ここで顔ぶれといったのは比喩的な意味であり、もちろん具体的な身近な誰かというわけではない。

作品を作るプロセス、想起するそのプロセス自体が厭になったわけではない。なぜかその「瞬間だけは」いつも高揚するし、楽しい、幻想に、別の時空に浸れる。

ただ、アウトプット先の世界の解像度が上がり、社会、そして社会を形成する人の集団として明瞭になってきた……つまり、”大人になった”……結果、アウトプット先の社会に対する無条件な期待を潜在的に抱けないようになってきた。

ーーーーーーーーーーーーーー

お陰様で、「アウトプットをせざるを得ない状況」になってきたので、もちろんアウトプットは続けるけれど、以前のような、「作品を提出した先は未知の異界、どんな評価がされるかは未知数、ある種の好奇心を伴った高揚感を抱くような世界」は消失した、様な気がする。

レベルがアップしたということは喜ぶべきことなんだと思うよ。思おうな。