荷内思考開発所

ありがちなことばでありがちなことものを考えてみる

SFをみるとしばしばテレパス(脳内通信)という描写を見かけるけれど、実際それを実現させるには我々は既にリアルタイム通信に飽きている気がする。

よく、サイエンスフィクション等の中で、未来技術として「瞬時に他者と思考を共有できる」テレパシー的な脳内通信技術が描かれるのを見かけます。

そこではそれらの技術は「心地よいもの」「明るい未来をもたらすもの」と、(作品の主人公らの思惑は別として、当の脳内通信を用いている彼らは)肯定的に認識している様が描かれている印象が強いです。

よく、過去のSFに描かれた未来技術が、数十年のときを経て現実に実現する、ということがありますが、これら生体的な改変を伴う通信技術に関しては、現実問題として人間はそれらを導入する未来をもたらすほど無配慮ではないような気がするのです。

というのも、実際そのような未来技術を想定するには、我々はSNSやチャットシステム等で、既に物理的障壁を超越した、ほぼリアルタイムな他者との意思疎通の社会実験に参加しすぎ、そして、その結果どうなるかを体感的に知りすぎているような気がするのです。

他の未来技術に関しては、「来てみないとわからない」ところがありましたが、こういった意思疎通系の通信システムについては、世界中の人を巻き込んだ実験が既に行われており、今後これらを導入したらどうなるかがあらかじめ具体的なイメージが沸きすぎているのではありませんか?

皆がなんとなくのイメージがついてしまっているからこそ、「こういうふうになったら未来はどうなるんだろう?」という好奇心があまり駆り立てられることがない分野なのかなという気がします。

VR的なものが台頭し始めてきましたが、(このブログを含め)身体性を離れた状態で遠隔的なコミニュケーションが出来るツールが既に浸透している現在の私達の感じる「VR世界への好奇心」とたとえば、1990年代からタイムスリップして来た人が今のVR世界を見て抱いた、「VR世界への好奇心」は、また違ったものではないかと思うのです。

これは個人的な主観ですが、どんなに通信技術の技術的側面が発展しようとも、よりリアルタイムで的確な通信ができるようになったとしても、「向こうにいるのはただの人なんだよなあ」という事実が変わらない限り、過剰な変化はなさそうだなあと思った次第ではあります。
もちろん、過剰な変化が起きえないというのも、目線によっては「良いこと」だとも思っています。