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荷内思考開発所

ありがちなことばでありがちなことものを考えてみる

クリエイターのデビュー方法論~ご近所応援タイプと雲の上崇拝タイプと。

友人と、今の時代に、進出のクリエイターが作品を世に出して多くの人から知ってもらうにはどうすればいいかについて話をしていて、面白いすれ違いがあったので、忘備録的にこちらに記してみようと思う。

 

まず友人(以下、S)は、小規模な作品をweb上にどんどん公開して、ファンをつけていくという方法を提示した。ニコニコやyoutube発のアーティストや若者文化が取り上げられる機会がどんどん増えている、今の時代らしい考えだ。

 

僕は、皆が驚くような何らかの要素を取り入れた作品を作り、それをどこかちょっと人の目にとまりやすい方法を模索して、公開するのがいいのではないかと発言した。「目にとまりやすい方法」といっても、流石に広告会社のように多額の資金で枠を買い取ることは現実的ではないので、その部分は今のweb時代に合うようにチューニングする必要があるが、基本的には旧来型のエンターテイメントビジネスの焼き直しみたいな発想に基づく考えである。

(僕自身の意見といっても、元はといえば別の友人Rの入れ知恵かもしれない)

 

それぞれの発想に名前をつけるならば、ざっと、

Sの発想→『ご近所応援・親近感タイプ』

僕の発想→『雲の上・偶像崇拝タイプ』

という感じかなと思う。(もっと良いネーミングがあったらご意見を頂けると嬉しいです)

 

『ご近所応援・親近感タイプ』を基盤とするクリエイターとは、その名の通り、インターネット横町において、ご近所の知り合いが何か面白そうなことをやっているから見に行こう、という親近感的な感情と、うまくwin-winになったクリエイター象だ。相互交流型の情報網が発展した現代のweb時代では、画面ごしに知り合った、数百キロも離れた場所に住んでいる顔も見たことのない友人知人が多くいるのはごくごく普通のことである。そうすると、人々が親近感を持つ「ご近所」の定義も格段に広がってくる。

自分自身を振り返ってみても、10年前の僕は、2013年の未来になったら、まさか自分が日本の北や南の「知らない人達」とリアルタイムで趣味の企画をやるような人間になるとは思いもしなかったことだろう。当時の感覚ではSF夢物語のような未来が、気付かないうちにこんな身近に来ていたのだ。

この場合、応援してくれる人々はかけがえのない顔の見えるひとりひとりの友人知人であり、連綿とした共同体の大切な一員である。あまりに人数が多くなってしまって、現実問題として数えられなくなったとしても、地盤としているものはそういう発想だ。

作品のクオリティ的なものに関しては、多少甘い部分があっても許されるが、どちらかといえば応援してくれる人を裏切るような真似をする方が致命的に響く。例えばそれまでの出身文化を否定したり、(本人には悪気はなくとも)新しい表現に挑戦したり、別のコミュニティーに移行したり、ということが、それまで応援してくれたファンに対する裏切りと映ることがある。

よく、今まで応援していたインディーズアーティストがメジャーにいったらどこか遠くに行ってしまった気がしたという感想を見かけるが、まさにそういうことだろうと思う。

 

一方、『雲の上・偶像崇拝タイプ』は、説明するまでもなく、上で書いた通り今までの(~00年代)エンターテイメントビジネスの焼き直しである。つまり、インパクトのあるものを一方通行的に流せば視聴者はそれに応じて選別し、興味のあるものなら反応して「ファン」になってくれる、という発想である。

この場合、視聴者からしたら、制作者は、とんでもなく想像を絶する「自分とは縁のない世界に生きる雲の上の別の存在」、と認識されている。そもそも、その作品が(例えばミュージシャンのように)直接制作者がスポットライトを浴びるタイプのものでない場合、明確な「作り手がいる」ということ自体が視聴者から忘れられている場合も多い。

(有名なアニメキャラのある仕草・言動・性格を愛でる時に、そのキャラクターの言動を考えた人がどういう人間だかをいちいち意識するファンはなかなかいないはずだ)

この場合、制作者にとってターゲットの視聴者とは、個々の人間であるというよりは、あくまでも「こういったらこう動く群れ」抽象的なまとまりとして考える傾向があると思う。

それでは、それはファンに対して失礼なことなのかと言ったら、そうではない。制作者がファンの事を以上に、視聴者はその作品と制作者を、モノであるかのようにみている。

芸人や有名漫画家がtwitterを始めたことにより、その中身に失望したり幻滅したりしてファンが離れるということが多々あるが、それは、彼らが実は中身のある普通の人間であることを忘れたうえで視聴者はファンになっている、という現実があるからこそのことだろうと思う。

だからこちらの場合も、互いに距離を非常に遠く置いて、或いは真ん中に跳びこせない大きな溝の崖で線を引いて、お互い日常が見えない範囲からモノとして消費し合う、という関係ではwin-winなのだ。

 

 

どちらがいいというものではないが、かなり違う発想を下敷きにした方法論であることは間違いないだろう。