荷内思考開発所

ありがちなことばでありがちなことものを考えてみる

心地よい交流のラインは人それぞれ

結局のところ、ひとと交流したい適切な距離感の理想像みたいなのって、それぞれの人にとっての想的な距離感は、ひとりひとり、別の長さを持ち合わせているのだろうと思える。

 

僕がいままでなんとなくあちらこちらの共同体(コミュニティ)に違和感を感じたのは、それぞれの理想とする距離感というのが僕には遠すぎたり、あるいは近すぎたりするように感じたからかな、と今になって振り返ればそう思えるようになった。

 

僕にとっての理想的な他者との交流の距離感というのは、たぶん多数派の価値観のそれではないと思うけれど、とはいえ、理想を崩さないでそのままでいれば、おそらく僕の中では適切な距離感を保ち続けることが出来るのだろう、と思っています。

他の人の「変化」にきたいしない

ここ数年で、自分の意識が非常にめまぐるしく変わり、性格もかなり変わったんじゃないかな、と感じることが多々あります。そして、周りを見渡してみても、おなじようにいろいろ考え方が変わったり、話す内容が深化してきた友人知人も多くいます。

しかし一方、その人なりの成長を拒んでいるかのように、あるところで変化を止めてしまったかのような人もある程度の割合でいるように見受けられます。

 

僕からすれば、「どうして彼らはいつも同じステージをぐるぐると回っているのだろう」とみえて、それが楽しそうならば構わないのですが、そうではなさそうなので、そのことに気付いた身として、「こちらにおいでよ」と変化の兆しを提示したくなるのですが、ふと、それ自体がエゴなのかなあと思い至ってこちらに文章を書き留めたまでになります。

 

あたりまえのように、「人間の意識は年齢や社会環境の変化とともに、成長し変化するもの」と思っていたのですが、この前提を変えて、「人間の意識は変化も成長もしない」と認識しなおせば、彼らが決して特殊ではなく、「変化をして生き方や思慮を深化させた友人知人たち」そして、僕自身もが、たまたま非常に幸運でラッキーだったグループだと認識することが出来るようになるでしょう。

 

そうすると、根本的な解決をせずにいつまでも同じ問題で文句を言ったり他害をしたりする人たちの行為を、「歳相応に成長していないから成長すべき」とべき論で考えたりしなくてすむんじゃないかなあと思った次第です。

アカデミックの大理石にやわらかい爪跡だけ残して、去る。

 アカデミックの大理石にやわらかい爪跡だけ残して、去る。

……というのがいまの近況ですかね。といいますかこれが今日今この瞬間の気分です。

 

 僕は人類に新しい知識をもたらすのは、やはり役目ではなくて、いや、やってみたかったし、すこしばかりはなにがしかのことができたようなので、それはよかったのです。本当に。

 それをよく実感できたので、だからこそ、携われてその一片を覗けるという立場のありがたみを増しまして感じていました。この一か月。

 

 

…でもやっぱりクリエイターなんですよね、根が。

二年前の自分の日記が見れないという変化について。

さいきん、これから自分が取り組んでいく内容について話をしたところ、「天職ですね」といわれました。

就職活動を通して、「天職」が存在しなかったことをたしかめたから、その職業を創ることにしたので、それはもう、もちろん「天職」です。

目の前に、暗澹と立ちこめる暗い雲が立ちはだかっていて、それが、ぼくにとっての「天職」です。とうてい人にお勧めできるものではありません。

もしやってみて、どうしても、それが本質的に仕事にならない、ということが確認できるのであったら、あらためて何がしかの天職に巡り合えることになるのでしょうし、もしいま天職だと思っているものがそのまま機能するようであれば、それもたぶん天職なのでしょう。

 

…まあできると思っていますけどね。

 

…さて、ところで、というわけで、二年前ぐらい、2014年度前半の「迷っていたころ」の日記を振り返ってみようかと思ったのですが、それを眺められなくなっている自分に気づきました。

それぐらい、天職という感覚は「やわ」なものなんですかね。

 

暗澹と立ち込める天職、わーい。

日本で芸術が必要とされていないのは、まだ「感情」がアウトソーシングされるほど、社会の合理化が進んでいないからかもしれない。

最初に述べておきます。私は「芸術」を作っていた側の人間です。

 

しかしながら、世間を俯瞰すると、どうもこの国では、純文学とかアートといった「芸術」作品にはなかなか市場価値がつきにくい様子です。権威のついた作家の作品は、それは「権威のあるもの」として、非常に高値がついたりはするのですが、さて、著者を隠して、作品単体で心を動かした度合と、そういった市場価値に相関性があるかといわれれば、どうでしょう。そこには疑問符が付きまとうように感じます。

 

他の国ではどうなのか、といったことに関してはまだ調査不足ではありますが、すくなくともこの国内では、あまり芸術単体は必要なものとはみなされていない様子ですね。

 

芸術とは、ひとの感情をそのような媒体に閉じ込めてあるものであり、これを鑑賞することは、普段そこまで深く感情の動きを味あわないで生活している人に、疑似的にその感情の強いシグナルを感じてもらえるようになる、という効果があります。

それが市場価値を持つということは、それだけ、その「芸術を鑑賞している」ということによってもたらされる思想や感情の幅が非日常的であるからであって、逆説的にそれらを求める人は、普段はシステム化されて合理的な中で、あまり感情の揺れ動きがなく生きてしまっているのではないでしょうか。

とすると、「芸術が必要とされている」環境というのは、より近未来的なSFに描かれているような、何もかもがアウトソーシングされているような未来―たとえていうならアーサー. C. クラークの都市と星のような―に近い世界なのではないでしょうか、とも思ったのです。

 

逆に言えば、日本ではこういったものが必要とされていない以上、ディストピア的な管理社会からはまだ遠く、ひとの感情が毎日のように揺れ動き、交錯し…といった社会なのではないか、とも思いました。

 

じっさいのところどうでしょうか。

 

ところで、すこし気がかりなのは、芸術と名乗る類の芸術は大衆人気は下火ですが、そうではなくエンターテイメントの皮をかぶった類の芸術は非常に隆盛ですね。

エンターテイメントの皮をかぶった芸術とは、大衆小説や漫画やアニメなどのことなのですが、これらの上記の芸術群と違いといえば、描く対象の違いが大きいと思います。これらは基本的に人々の友情や恋愛、組織として敵対する組織と戦う、などといった、人間の日常の交流を模したものが多く、それが、「親しくなれた」、「敵対する組織に勝利した」、というふうにもっていくことで、視聴者にカタルシスをもたらす、という基本構造になっています。

 

つまり、そういったものを「欲している」ひとは増えてしまっている…逆に言えば、友情や恋愛、信頼関係による社会集団、といったものはかなりアウトソーシングされてしまっているのではないかともうかがえるのです。これは、よい現象なのでしょうか。

我思う故に我在り

かの有名なデカルトの言葉を少し引用してみたわけだけれども。

 

もちろん、そのデカルトが一体何をもってこの言葉を残したのかその心中は僕には定かではないけれども、僕はなんとなくその言葉にある種のシンパシーを感じた、まあだからいまこういう風にブログを書いているわけだけれども。

僕は、なんとなくだけれど、こういう風に文章を考え、打ち込む僕は、思考する主体として存在しているという気がする。この感覚自体は決して特殊なものでhないし多くのみんながなにかしらもっているようなものだと思うけれど、もしかしたら、僕の場合は他の多数の人より、この思考する主体としての自分像、というものに重きを置いているウェイトは大きいのかもしれない。

 

文章がいつもより若干支離滅裂だ、それはそう、今日は文章をわかりやすく書こう、とか人に読んでもらいやすく書こう、とかよりも、赴くままにキーをうつことを優先しているからだ。気の赴くままに文章を書きならべていっても、この水脈はこの程度は意味を成す文脈を形成していくし、まあ、これ以上の論理だったわかりやすい何かを形成していくほどの明瞭な系統だった思考は備えていない。

 

さあ、さて、この思考する主体としての僕、というやつであるが、最近ようやく24時間のほとんどをこの思考する主体という彼が引き受けてくれるようになったらしい。なにをいっているかといえば、やっと普通の人のように目の前の現実に僕の思考が向き合ってくれるようになったっていうことだな。目の前の現実…?本当に見ているか?

理解はしないけど「そういうもの」だと認めるものはある。 おそらく生育環境によって刷り込まれてきた先入観~1

おそらく後天的に身につくた先入観について、案外その影響は大きいのかもしれないという話。

 

ある人(A氏としておく)が、美術分野の芸術家と日本のロックグループと雰囲気が似ていると語っていた。その例えは、わからなくもないけれども僕にとってはあまりピンと来なかった、というか、芸術家のことを矮小化して語っているなあ、という印象だった。

 

そこで、なぜそれを矮小化しているように感じたのかといえば、彼に比べて、僕は外国の高名な絵描きを過大評価しすぎ/そして日本のロックグループを過小評価していたからだと思い至った。

どちらが正しいといったものではないのだけれど、僕にとってロックミュージシャン、とくに最近の邦楽のミュージシャンは低俗で安価なもの、あまり、しっかりした「芸術作品」を作っているような存在ではなく、安価な暇つぶしをcommercialにのっとって提供してくれる存在にすぎない、というイメージがあったのだろうと改めて思った。

 

それでは、僕にとってその芸術家の作品群と横に並べるとしたら、音楽家だったら「誰なら」納得するかと考えたところ、やはり行きつく先はクラシック管弦楽の作曲家・演奏家群なんだな、と思ったわけです。つまり、音楽と美術を同じショーケースに陳列すること自体には違和感は持っていない、と。

 

おそらくエレキギターやロックミュージックに対する偏見が、やはり僕にはあって、ではそれはどこから来るものかといえば、やはり「最初に触った楽器が何であったか」というところからくるのかな、と。

正直なところ、エレキギターというものが、楽器だと認識したのは18を越してからであって、それまではファッションの一種のような、身に包む飾りだと思っていた。つまり、彼らの機能は「カッコイイ」というアイコンであって、音は一応なりはするけどおまけである、と。そしてちゃんと音楽を作りたいのなら、ちゃんと音の鳴る「楽器」を使うべきだと、思っていたわけです。

 

今はエレキギターは弾けるし一応楽器なのはわかっているけど、でもやはりピアノや金管楽器と同列の楽器か?と聞かれると首をかしげざるを得ないし表現の幅も少ないと思う。これは僕の感覚であるけれど。

 

また別の人だけれど、ある人(B氏)は、ギターを一番感情の表現ができる楽器だと言いきった。

その時は、もちろん彼のいう理屈を僕は理解できたと思ったけれど、今思い返せばやはり僕には感覚的には全く理解ができない。というのもやはり僕にとっては金管ないしダブルリードの楽器群が一番エモーショナルである。人間の喉もよいダブルリード楽器であるけれど、ボーカルは時折歌詞を邪魔に感じる。

 

この不思議な偏見が、先天的なものであるはずはないのだから、だとするとこれは、たぶん後天的に身についた「感覚」なんだろうなあ、とは思うのだけれど、

だとすると、やはり人間ってすごいあいまいなものなんだなあ。と、

だってちょっと与える楽器の順番を変えるだけで、同じものに対してこうも異なる感覚を持つようになるのならば。