荷内思考開発所

ありがちなことばでありがちなことものを考えてみる

面白さをさがして-(1)

一つ一つ、勉強を重ねていくうち、表面をさらっただけで面白いと思えるものがどんどん減ってしまう。

その代り、学べば学ぶほど、より深く楽しめるようになるものことは増えていくのだから、けっきょく総量としての「感じられる面白さ」のこすうは変わらないので、決して悲観するべきことではないけれど、でも、みえるものがどんどん変わっていくので、やはり周りの人が変わらないままだとしたら、みんなとはどんどんずれていく。

 

ずれていく視界の中でわかることは、「昔は確かにそういうことがおもしろかった」「あの輪の心地よさはよくわかる、まじってみたい」「まじってみたいと思っていたが、たぶん今の僕が入っても面白くないだろう」「面白くないだろうし、きまりのわるさをかんじる」「きまりのわるさだったものが、もう何がどう面白いのかさっぱり感覚的には理解できない」「ただ、確かに昔はそれを面白いと思っていた過去があるしそのこと自体は忘れてはいない」。

自分で駆動系を制御できる らせんを描く上昇するエレベータに、乗っている気分であって、その半透明の窓から、かつての同好の士の「たのしさ」がはるか遠くに見渡せる。

みえなくなることはないから、それが楽しかったという気持ちは忘れることがないけれど、(わすれてしまったらおわりだ)

ただ、今の僕はそこにいない。みんなが楽しいと思っているフィールドで休日のボール遊びをすることはできないのだ。

物理的な距離の遠さなら、高速射出装置をエレベータ内に設置して、サーブマシンのようにうちだせば技術的な問題は解決できる。そこまで無茶しなくたって、一時的に「一時間ほど留守にします」と、エレベータに張り紙を張って、航空バイクで中空をすっぱぬき、ボール遊びの場へ降り立って一時間弱ストップウォッチで時間を計ってきっかり「遊んで」から、あわてて尾翼の生えたバイクを猛ダッシュさせてエレベータへとんで戻ればいい。

しかし、それは、楽しいのか。

それって、無理やりな感じがして、たのしくないんじゃないか。

だったら、けっきょく、エレベータの中で今の僕が自然体で遊べる遊びをすればいい。と思うのだ。ただし、物理的に、僕のいるエレベータ内には僕以外には誰もいない。これを耐えがたい孤独と感じるひとがいるならきっとその人には耐えがたい孤独なのだろう。僕としては、案外悪くなくて居心地のいいものなんじゃないかと思いはじめてる。

ただし、外はよく見える……。

 

 

 

なぜ、そんなに(何かの目標にむかって)頑張るのか、といった問いを向けられることが(実は、ちょっと)多くなってきていた。

 

じつは、僕も自分はけっこう頑張っているのかと思ってた。

でも、今日、ふと、明確に言語化できて、妙に腑に落ちたのだけども、

頑張っているわけではなくて、面白さをさがしているだけなんだと思う。

 

一回はいった知識は一時的に忘れることはあれ、やはり、消えないし、経験は記憶の奥底の砂礫に埋まっていたとしても、かってに取れてなくなったりしない。

どんどん変化する僕のスピードに合うように、自分が心から楽しめる面白さというのをどこまでも、さがしているだけなんじゃないかと思った。

 

(達成するのが普通の人には困難な、壮大な)目標にむかって、

(強い意志で)実現しようとしている、

 

というよりは、

(自分にとって「やりきった」と(今のところ)まあ満足できる)目標にむかって、

(とりあえず、けじめの/あるいは今後、環境のせいでやりたかったけどできなかったという愚痴を垂れ流す人間にならない)ために実現しようとしている

 

というのが実のところなような気がする。

 

いままで、「これが俺の最高傑作だ!」って、自作に酔えたことなくて、酔えるかな?と思った機会もなんか自分で握りつぶしてきてしまって、おかげで「自分っぽい作品」と紹介できるものはあれど、少なくとも今の方向の創作物において、「これが自分の渾身の作品だ」って思えるものは何一つ残せてない、というか、世に出せていない。

 

もちろん、どこかを切り捨てて、どれかの創作のスタンダードな形の箱にぎゅうぎゅう詰めて、成形してパッケージングして、小ぢんまりとまとめることは技術的に可能なんだけど、でも、どうしても、そうしたくない。それ絶対後悔するから。

というよりは、今まではそうしてきたんだよね。

既存の、『作家一人でできる限界はこのぐらいです』っていう、パッケージングに、はいそうですね、身の程を知ります って、ハイハイ言って合わせてたんですよ。

まあ、合わせたところで本質やエッセンスはもちろん表現できるから、もちろん言いたいこともかけたし自分としての作品らしさ、というのも徐々に出せた。

ただ、そこには打算があった。

「人間が肉体的にできる限界はここだから」と世間が言うから、それに合わせてるっていう打算。

個人的には、それは突破できるんじゃないかと思った。

 

なぜなら、僕には複数技術の蓄積があったから。

つまり、早咲きじゃなかったんだよね。有能な新人が自分のできることはコレ!って早くから決め打って実際成果を出すなか、僕は全く別のやってみたいことにあれやこれやに遊びで手を出してた。だから無駄な方向に複数スキルがあって、それを複合させたら一人でかなりいい線いけるんじゃないか、という気はしてた。

 

そして、試してみた。できた。カンペキだ。

できるじゃないか。

 

ということで、今体感的には真ん中ぐらいまで来てる。体感的には。(実作業としては1/ 4ぐらいな感じ)

 

 

まあ、自分が納得できること(=たのしく遊べること)が目標なのだから、周りの評価がどうというのはあまり重要な部分じゃない。

ある意味、諦めをつけたい、身の程を知りたいからこそやっているみたいな面もあるのかもしれない。

 

 

それはけっして偉大な理想を抱いているわけではなくて、(というより、偉大な理想を抱いている自分に酔っているわけではなくて)今とても自分がしっくりくる、自分の作品として僕が自分で納得できるような明確なパッケージングの最小単位というのがどこなのかを、知りたいと思った。

 

これは僕の結構悪いくせなのかもしれないけれど、自分でそれが妥協だと感じると、とたんに最低限の機能が果たせるラインまで手を抜く癖がある。手を抜きたいわけじゃないのだけれど、しかし、機能以上の作りこみをする気力の拡充がしようがないのだ。だから、どこまでも丁寧に作品を完成させられる人を尊敬しているし憧れていた。

 

だから、自分が真剣に作りこめる作品の単位を、確認したかったんですね。

 

体感として、今のその単位は、大きすぎず、手短に達成しうる目標のうちとてもしっくりくる単位なのである。外からどう見えるかは別として。

 

単純に、ほかの多くの人たちのように、「自分の渾身の作品だ」って堂々と言えるようなものが作りたい。つくってみたい。

それだけであって、「これが自分の作品だ」自分が納得するようなパッケージングが、ちょっとばかし手間のかかることだったってだけなのです。

 

 

 

 

露呈したときの弱さは罪か?

よく、お金が絡むと人が変わるとか、

酒を飲むと(悪い意味で)人が変わる等いうけれど、

それって、弱さが露呈することをいうんだと思う。

 

そして、その弱きを露出した状態で、その人が、周りの人にやつあたりして傷をつけたり、逆に周りに寄りかかりすぎて負担になりすぎたり、あるいは組織の上の立場にいるはずなのに無責任な行動をとったりすることは、ほんとうに、罪なのか。

それは確かに迷惑だったり、周りからしたら「悪い」行動であるのは明白だけれど、それは、自覚的に行う「悪さ」と同質の・あるいは同程度の「罪」なのか。

 

罪というのは何か。

僕は善悪というものがいまいちよくわかっていなかった。

実のところ、今でもよく理解しているかといえば、ちょっとこころもとない。

 

人格障害は、人格形成期に、うまく周りと強調してやっていく術を学べなかった人たちだし、

サイコパスは、一般に良心が欠落しているというけれど、ほかの大多数の人の気持ちがわからないというだけで、(あるいは、わかったうえで無視していいと認識しているだけで)それ自体では善でも悪でもない。意図的な他害的な行動を起こさない限りは。

 

 

 

 

一般に思われているより、知的能力は遺伝しないのかもしれない~よくできている生命 1

成人した親子同士で、話がかみ合わない、意識も合わない、という話をいたるところでよく聞きます。

それは、裏を返せば、遺伝的つながりのある者同士は思考の方向性、知識水準、記憶力その他もろもろが似ていて当り前みたいな暗黙の了解があるがゆえに、必要以上にそう思われているようも見えます。

そこで、そもそもの前提として、知的能力が遺伝するというのは当たり前のことなのでしょうか。

何を言っているんだ、「知能は多くが遺伝する」と結論付けている科学論文は、いっぱいあるだろうと思われるかもしれませんし、ですので科学的なことについてはちょっと口はつぐまなければならないのですが、

しかし、その割には、親子で(考え方・思考の癖・知識や興味があまりにも異なるので)話がかみ合わないケースって非常に普遍的ですよね。

なので、ぼくは今のところ、ひとが言うほど知的能力は遺伝しないのではないかという価値観ベースで考えています。

つまり、けっこう無作為な、ランダムなものなんじゃないかと思ったわけです。

 

じゃあ、なぜ知的能力が遺伝しないのかといえば、生態系としての多様性を維持しやすいようにそうプログラムされているのかもしれないと思ったわけです。

さっき科学的なことは何も言えないといいながら、ここで科学的な発想を持ち込むのは、ちょっと趣旨に反する気もするのですけれども、完全に同じ分野ではないのでちょっとばかし目を瞑ってもらうとして(笑)少し雑感を述べますが、

その生物全体の集団として、ある程度は序はあったほうがいいのだろうけれど、完全に固まって身動き取れなくなってしまうのは、外部の変化への臨機応変な対応ができなくなるので、生物集団全体でみるとあまり「よい」状態でもないんですよね。

ですので、ある程度秩序は形成されつつも、定期的というか自発的に、ある意味ランダムにその秩序は壊される状態、のほうが、集団全体としてはよりしなやかさを増して、強固な状態となるわけです。いっぱんに。

なので、人間の知的能力云々も、基本的には一代限りのもので、本当は次世代には(何もしない限りは)続かないものなのではないかと思うわけです。

個人としての人間自体は、実は変化をきらう性質を大いに持っているようなので、次世代にも同じようであることを無意識のうちに強制しがちではあるのだけれど(全員とは言いませんよ)、ただ、実際のところは、都合よくそのようになってないかもしれない、という発想です。

よく、遺伝子を残すために子孫を作るとかもったいぶっていう人が言いますが、それは集団としてはその通りなのですが、あなた個人に限って言えば必ずしもあなたの性質はあまり受け継がれないということが最初から分かっていたとしたら、同じことを同じように言える人は、いったいどれほど残るのでしょうか、という気もします。

……おっとちょっとわき道にそれすぎてしまったようですね。戻ります。

 

なのでまあ、よくSF等でさんざん言われてきた世界設定の焼き直しみたいな発想ですが、思ったより生物やものの考え方、思考の方向性、…そして、それに続く自我…といったものは、何にも規定されてないし、逆にもっと別の何かから規定されていたのかもしれない、という感じの雑感でした。

 

※ 補足ですが、ぼくはなにがしかの宗教を崇拝しているわけではないので、おそらく無神論者なのですが、先ほどのプログラム云々の分を書く際に、隠れていた主語をどう記述するべきか迷いました。(けっきょくよくわからないまま、隠してしまったのですが。)つまり、上記の文は、主語述語でちゃんと記述すれば「…(前略)多様性を維持しやすいように(生物が、《誰によって》)そうプログラム…」という文面なわけですよね。 ここでいう《誰によって》とは、いったい誰なんだろう、と。僕は神の存在を認めているわけじゃないのに、そこに自然と記述するにせよ宇宙と記述するにせよそれは結局神がかった都合のいい何かになってしまうわけで、つくづく、人間の認識にしろ、文法などのロジックにしろ、「よくわからないなあ」という感想に至ることができるわけです。じっさい、《誰が》なにを、やってるんですかね…。

無意識の思考の純化/鈍化と世間の期待

僕は、「勉強ができる、頭がいい、賢そう」と称されるのが嫌だった。

砕けた口語体でしゃべっているつもりでも、発言内容への厳密さを求めるあまり、つい具体的に具体的に、そして、誰にでも明瞭な尺度(数値などといった)を交えて話す癖を、あまりこころよいものとは思っていなかった。

 

そして、ここ一年弱、思考を言語化することによって明晰化して再確認する行為をやんわりとやめ、より感覚的な、視覚的/心象による快不快による判断をベースに思考ように切り替えていった。

 

その結果、いまはだいぶ、以前に比べて「勘」というものがきくようになったし、さらには、自分の心象に忠実に動くことがだいぶできるようになってきていた。

 

ところで、いいことづくめだったかといえば、そうではない部分もある。

 

失ったものがひとつ。

明瞭で明晰な思考 だ。

 

今はもう、深遠な古きよき哲学者をまねて井戸の深淵から論理の宇宙を見上げることはないし、ましてや数学の海岸で手を塩水にひたすこともない。

喧々諤々な政治論を小じわのついたグレーの背広を着たおじさんよろしく酒のつまみに語ることもなければ、若き死を遂げた100年前の若者の、現代とは少し違う日本語の作品に親しみを見出そうとするほどの気力もない。

 

端的に言えば、頭が悪くなった。

近視眼的な経済論とエンタテイメントに興味を持つただのひと。

ちょっと難しいことや困難な課題はすぐに投げ出し、まったく頑張ろうとはせず、やろうとしても目先の興業に目がいってしまう。

 

子供のころ、どうして周りの大勢の人は、あんなに好奇心や興味の対象が狭いのだろう、どうして そんなの で満足なんだろうと不思議に思っていたけれど、今の僕も、じゅうぶん好奇心に欠けている。

 

そして、大半のひとは、こうなのかもしれない。

 

今の状態は以前に比べて非常に気楽でいいものだけれども、そして、この状態に物足りなさを感じるほどの余裕も体力もないので、このままでいいと感じるのだけれども、

 

ところでところで、僕の置かれている地味に特殊な環境群は、この空中でふわふわした状態のことをOKとは言ってくれないらしい。

 

僕があまり自覚していなかったことだけれど、僕がいまの行動をどうとろうとも、その結果は、僕の今後一生ついて回るのかもしれない。

 

もっと、勘の鋭くてさとい人は、はじめからわかっていて、そのことに恥じないように振る舞い、とっくに行動に移しているのだろう。

 

けれども、僕はうっかりしていたので今頃気づき始めたわけだ。

 

そうすると、結局、失手をとると、ぼくの人生論的大損害になりうるわけなので、やっぱり綿密に対策をとらなきゃ。

 

……おーし、やる気でてきた?

 

ふりかえって ブログ貯蔵博物館

本ブログの内容を久しぶりに見返して、博物館みたいだなと思いました。

 

博物館って、展示しているのがすべてではなくて、目的は収蔵品の保管と研究、管理なのだそうでして。

 

このブログの管理画面を、久々に、開いてみて思ったんですけど、

公開しているほうの記事じゃなくて、非公開にしてあるほうの文字通り日記のほうが本編だなあと。

 

もう今考えていることと、当時抱いた感想や見方は変わってきてしまった面はあるのですが、当時は当時で面白い考え方・感想を抱いていたなあ、と。

まごうことなき僕の発言や思考の束だったとしても、今の僕は当時の僕の発言に全責任を負うことはできないので、今後、すべて公開することはないと思いますが、中にはなかなか興味深くてテーマが普遍的な内容もありましたので、今後、もしかしたら、文体を整えて、○○時期頃の日記です、っていう風に前置きを置いてから公開していくかもしれません。

 

いやあ、にんげんって面白いっすね。

中東はほんとうに危険地帯なのだろうか―平穏な毎日がふと崩されるという瞬間

なんとなくではあるが、日本は安全、中東は危険 というイメージが日本人には定着しているように伺える。

シリアにしろパレスチナにしろ、日本の報道だけを見ると、あたかもそこがいつも紛争の起こる危険地帯であるかのように見えるのは、それは勿論そう感じてしまうのも無理はないと思う。

 

しかし、本当に戦争状態・内乱状態の危険地帯であったら、『人々はその地に暮らしていない』はずではないのか。近代戦において国家間の戦闘をする場合、戦場として任命された土地の住民は避難させられるし、そうじゃなくても、『ここは危険である』とあらかじめ分かっているわけだから、大体逃げるか、覚悟はするわけだ。

 

だから、戦争あるいは紛争を起こしている当事者以外は、被害が出ないのが、本当の危険地帯なわけだ。

 

危険な場所だから、多くの民間人が犠牲になっている。わけではない。

安全で、ありきたりの平穏な日常を送っているところに突然爆弾がふってきたから、多くの民間人が犠牲になっているのだ。

 

そうはいわれても、乾燥地帯のどこか遠いせかいで、人が死にまくっていると聞いたら、そりゃそういう場所なんだな、とどこか冷めた目でみてしまうだろうけれども。

でも、その中に自分に卑近な例があると、ふと、ああなるほど、そういうことかと体感的に納得した気になれることがある。

 

少し前の出来事になるが、シリアのダマスカス大学の食堂に爆弾が落ちてきて、同大学の学生が何人か亡くなったという報道があった。

普通に学食でご飯を食べている時に爆弾が落ちてきて死ぬ。

もし、常にいつ爆弾が落ちてきて分からないような臨戦態勢だったら、大学だって『うちに今来ると紛争に巻き込まれる怖れがありますので来ないでください』とお触書を出すだろうし、当然トラブルを避けるための処置は起こすはずである。

普通に大学にいって普通に学生たちが一杯居て、学食を食べたりしているっていうことは、それだけ安全が保障された場所だったということであり、ごくごくありきたりな平穏な日常生活がおくれていたのである。

民間の飛行機が落ちたり、船が沈んだりすれば、わが身に起こりかねないことと身震いする。しかし、遠くのどこかで爆弾が落ちていても、それは、そういう場所なんだなあ、と自分にはまず起こらないだろうなあ、と思ってしまうのは、僕もそうだし、皆さんにもそういう人は多いと思う。

ニュースは普段の日常ではなくて、突発的なイベントを扱うものだ。

平穏な毎日がふと崩されるという瞬間を狙って、そこに着目して人々の視線を集めるようにニュースというのはつくられているのだから、それを通してだけその世界と接触するのであれば、そちらの世界が不安定な場所に見えて当然である。

崩される前の安定した日常のほうは、わざわざ絵にされない。だって、ありきたりで平凡すぎるから。絵にならない。

 

いま、そして昔からずっと、マスメディア等で注目される「センセーショナルな紛争地」とは、確かに我々の文化とは異文化の地帯ではありこそすれ、基本的な日常生活で言えば我々の住んでいる今ここと同じような、あくまでも「普通」の街だった。

そうしたごく平凡な町が、ある日を境に、急にその「普通」が普通じゃなくなることと、それが起こりうるということ。そして、その「普通」からの変遷が、世界の歴史を見渡す限りごく普通に、あたりまえのように何度もいたるところで起こっているということ。

その辺のことを、たまに思い出してやらないとなあ、と思うのです。

 

僕らの今感じている平穏な「普通」も、ある日急にがらりと変わってしまうかもしれない。そしてそれは、悪いほうにも、いいほうにも起こりうる。

 

当たり前だと思っていたことが突然なくなる現象とその予兆。

気に入っていた服のメーカーが、トレンドに合わず、消えた。

数年前は当たり前のように買えた物が、もう買えなくなってしまった。

 

それは、まあいいのだけれども。

出版業界が斜陽と聞いて、当たり前のようにスルーしている自分がいる。

出版業界に体力がない。という単語はもはやBGMのように聞こえる。

 

日本国内の出版物のうち、漫画や雑誌、娯楽小説が軒並み消えたとしても、多分、僕はあまり困らない。なんか本の棚のすきまが物寂しくなったな、と思い出したように見遣るだけだろう。

しかし、一般向けに、歴史や学術思想等々を開設したような本、ニッチな図説解説書等々が消えたら、知的好奇心はそこらをさまよい、好奇心の探検は大分味気もそっけもないものになってしまう、そんな未来が見える。

 

日本は西洋の植民地になったことがないからか、日本に住んでいると、さまざまな知識を探究できる知識体系が、母国語のみで充分構築されているということの恩益の大きさをあまり自覚していないような気がする。

当たり前のように本屋さんに言って多くの文字が縦書きの滝のように洪水のようにあふれている光景を当然だと感じてしまうが、それは決して当たり前ではない。

 

エンターテイメントを失ったとしても、そのときはまた何か別のエンターテイメントが台頭していることだろう。だからその辺のことは、少々さびしくは思いこそすれ僕はさほど悲観はしていない。物語とキャラクタへの人々の渇望は、それはすさまじい。

 

ただ、それに比べて知識と思考への渇望はどうか。

日本語の体系と共に失われた知恵はどこかに受け継がれるのだろうか。

言語が消えるという未来を僕らは想像が出来ない。

しかし、言語というのは、そして言語に伴った体系化された知識と思想体系というのは無限の未来まで続くことが保障されているものではない。体感レベルではあまり実感のわかないことだけれども。