荷内思考開発所

ありがちなことばでありがちなことものを考えてみる

若さゆえの勢いという価値

今年、2017年は自分にとって二十代前半に突っ走ったことの尻拭いをしている年でした。

私がいまいち今うまくいっていないのは、「本来40代50代になってキャリアをつけて業界での立ち位置を身につけた人」がようやく手にできる仕事、ポジションを若いうちからいきなりショートカットしてやろうとし、それゆえの信用が築けてないから、なのですが、

当時の直感よろしく、「今突っ走らなくて、『着実に』やろうとすると、できなくなる」未来がなんとなく見えました。それが故突っ走ってみたのです。

 

そして、その直感はおそらく正解でした。

二十代後半にして、創作意欲、もといその源泉となる想像力が衰え始めました。

いまからゼロからそういうことを始めようと思うのだろうか、とおもえば、まあ動かないだろうな、という感じがするのです。

 

何で勢いらしい勢いがここまで欠如してきたのかはわかりませんが、「好きなことを全力でやっている」イメージとは今の自分は申し訳ないですがかけ離れています。

 

今はそこまでの勢いがないので、

 

好奇心と想像力、創作意欲は何もしないとどんどん落ちるもので、そのことを身をもって実感できたのは収穫だったと思います。

 

想像力をたくましくする環境って、身の安全が確保されつつ、精神的な充足が完全に満たされていない環境、だと思うのです。目の前を見ていなくてもとりあえず死なないからこそ目の前以外の仮想世界をリアルに想像しても大丈夫、だからといいますか。

 

いまの自分の場合は、身の安全がない以上、仮想世界に逃避しているとどんどん本当に身の危険が迫ってくるので、この世の中は自発的に何かしらアクションをとらない限り、本当にこちらを殺そうとしてくるということをよく知りました。アクション取れば大丈夫なんですけど。

 

よくがむしゃらになって動けばなんとかなる、という話を聞きますが、そのひとががむしゃらになって動ける性格かどうかは「なってみないと何とも判断できない」ので、なんともいえません。あと、がむしゃらになるというのは現実と向き合う、ということなので、現実と向き合っている間は想像世界の思索に費やすことはできません、そういうことです。

 

白状しますとここ半年一年、「自分のための趣味的想像思索や物語づくり」をほとんどしていません。子供のころは、「毎日異世界を想像しないで生きているとか、何が楽しくて生きているんだろう?」と不思議でしたが、いまとなっては、私自身が子供のころ不思議に首を傾げられる対象の「不思議な」大人となってしまいました。

 

 

あれ、年齢関係ないのでは…???

 

どっちかといえば、貧すれば鈍する 案件だなあ、これ

お金の価値の重みについて実感したこと…

私は個人的に思うのですが、アーティストのCDや、アニメの円盤を数千円数万円で買うときって、すごい気に入った作品じゃないですか。

円盤を買うって、相当なことだと思うんですよ。

 

お金っていう指標に直されてしまうと、

お金持ちがアニメに興味なくて払った数百万円に、すごく気に入ってくれた人が円盤を先行購入してくれて払ってくれた数千円数万円にがまったく太刀打ちできなくなってしまうという事実を目の当たりにしてしまって、

自分の場合はレアケースとはいえ、

お金の重み、って時として百倍千倍…あるいはもっと、開いていて、かならずしも一律にならべてそのひとの「欲しい!」を反映したものと評価していいものでも、ないんだな、と思いました。

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労働市場に参入しないと生活できないというシステムについて

これは私が前々から思っていたことなのですが、基本的に、今資本主義の世の中では、多くの人が『労働市場に参入しないと生活が出来ない』と教え込まれ、思い込まされています。

実際はそうではなく、なんらかの方法で『お金』という名の信用を持っていれば生活できるのですが、大半の人にとって生活できるに足るお金を(正攻法で)入手する方法としては、労働市場に労働者として参入するという方法しかありません。私含め。(※受注請負のフリーランス等も含む)

 

(実際は生活保護などセーフティーネットは存在しておりますが、そのような、『セーフティーネットを使用するのは悪いこと』という刷り込みがされている人が多いようですので、後ろ指差されないで、生活する方法としては、やはり、『お金を持っていること』が『生活&生存』のための十分条件になります。今回の文章では、後ろ指差されないお金の入手方法=(正攻法)と表記しております。)

 

さて。

 

私が長年思っていたことではあるのですが、
「私は面白い心に響くお話を作れます」「絵がかけます」「漫画が描けます」「受賞歴もあります」「CGが作れます」「ついでにアニメも作れます」「そして、そのアニメは多くの人にとって(欲しいもの)であるとも断言できます」「つまり完成して公開した暁には価値が発生いたします」
しかし、「『信用』がまだないのでアニメを作る(あと半分を)環境を整えることが出来ません。」

 

この問題。

生活するには労働市場に参入しなければならないのでしょうか。

この問題。

私が労働市場に参入して少々のプラスをもたらした分の価値と、私のアニメ自体が完成してコンテンツとして成立した後の価値でしたら、明らかに後者の価値の方が大きいというのも、断言できます。

しかし、(正攻法では)作ることが出来ない。『信用』が、まだないから。

 

つまり、『信用』がまだないひとは、時間をかけて一つのものを創り上げる権利が保障されていないといってもいいのです。作るものがたとえいいものだとしても、そのプロトタイプを上げる猶予をつくることが(現行の世間では)許されない。

その問題。

『信用』を積み上げていけばいいじゃないか、といえば、(正攻法で)その『信用』が十分な力を発揮する頃には、私はもう中年~壮年です。もう、時代の空気を救った『若者のリアル』なんて話はかけない。

 

さあ、どうしたらいいものかな、と暗中模索中であります。

創作の目的はシンプルでいい01

創作の目的についてあれこれ考えていましたが、結局

――僕はこれを面白いと感じる。みんなはどう思う?

それでいいかもしれない。


あるいは、
――僕はこんな世界を理想像としたい。どうかな?こんな風な未来、めざしてみたくない?

 

こんなの、どうかな。

何のために創作をしているのかを最近ずっと考え続けている。 

子供の頃は、(ただ学校の授業が退屈だからと)何も考えずに、

青年期の頃は、ただこれが僕に出来る「発言」手段だからと、

そうやって物語を作り続けてきたわけですが、

今、いわゆる大人といわれる年齢になって、今まで揺るいだことがなかった、「何のために創作をしているのか」という部分に初めての迷いが生じているのです。

かれこれ二十余年にわたり、長年試行錯誤しているだけありまして、それなりに価値があるであろう面白い物語、多数の人の心に刺さるであろうシナリオと生き生きとして魅力的なキャラクター、そういうものが客観的にもよいものが作れるようになりました。多分二十を過ぎてからのことです。プロの漫画編集者さんからも「面白い」と担当についてもらったこともあり、(僕は漫画という媒体が自分にとってのベストな表現媒体だとは信じきれずなく、今は現場から離れておりますが、)自分が面白いと感じる漫画雑誌の編集者さんにも(100発100中の安定感ではないにせよ、)面白い素質があると認められていたことは確かだと思っております。

なので、ある程度の客観的自信等を持ち、今これから、アニメのクラウドファンディングを4月3日から行うことにしたのです。(kibidango というプラットフォームにて、ページ自体は3月31日~公開予定)



『雨上がりの虹』予告編PV(第0弾)
https://youtu.be/fcjtU_oClAU


漫画家(原作者)が直々に作画やBGMを作るアニメが面白くないわけがないですよね、って。

 

なので、その一点を根拠に、『とても面白い』から、皆さんの時間に見合ったエンタテイメントを提供します、ということで、
『僕の制作しているアニメの完成を応援してください/キャラクターたちのファンになってください』と皆さんに呼びかける段階にしたわけです。

しかし、いま、こうやって多くの不特定多数の人々に、『僕の作品の完成を応援してください』と呼びかける段階になって、
ふと何を目的に創作をしているのか僕の中の動機がよく判らなくなりました。

右を見たり左を見たり、誰の琴線にもっとも響いて欲しくて、どういったひとの興味を失わせないように、だとすると中庸な表現はどこまでか、、、みたいなことをちらちら気を配りながらやっているうち、僕自身いったい何をどうしたいのかがはっきりとしたこれだという指針が、どうにもぐらついてきてしまいまして。

 

この作品、アニメ『雨上がりの虹』シリーズは、最初から一貫したテーマとして、主人公らと同年代(20代前半)までの『若い青年』に一番みてもらいたいアニメだな、というのはあるんです。
ただ、このアニメが一番響くであろう高校生~大学生の人たちって、お金を稼いでいる年代ではないので、今回のようなクラウドファンディングで呼びかける相手にはなりにくいというところが迷走している点の一つでありまして。

どちらかといえば学生の彼らには懐を痛めずに安価で楽しんでもらって、彼らのバイト代なりなんなりは、かけがえのない部活動なり交際費なりに使って欲しいなあ…と思うんですよね。個人的に。

だとすると、そうではなく、技術面(過去記事:

実は、完全新発想による新技術を用いたアニメを作っていました。 - 荷内思考開発所

参照)を強調してガジェット好きの非アニメファンまでアピールする先を広げたほうがいいのか、
それとも、(たまたま今回の主人公が若い男性二人なので)もっと女性に向けてアピールする方向にしたほうがいいのか、しかし、そういう雰囲気にしすぎると、それ以外の人からは逆に遠ざけられてしまうんではないか、案外大丈夫なのか、自分自身はそのつもりで作ったわけではないのにそういうパッケージにすることに抵抗はないのか、のか、のか、、、等

考えれば考えるほどきりがなくなってくるのです。

そして。

僕は一体何がやりたかったんだっけ。

 

中庸で中庸であればあるほど、熱さを忘れる。

熱いことを言うと、敵を作る、かもしれない。なにも言わなければ、僕の作品を気に入ってくれたかもしれない方に、みる前から信用を失い、そっぽを向かれるかもしれない。そうしたリスク。そうしたリスクに打ち勝てるほどの熱意のある熱い紅くみなぎった鉄の芯、そうしたものを、僕はいまだに持ちえていないな、って。

そう思うのです。

僕が自分を客観的には不利な状況に追い込みつつも創作している理由はただ一つ、『これが僕にとって僕の適性を最大限に生かした社会貢献手段だから』です。今まで身につけてきたスキルのうち、僕はやはり物語を作るのが飛びぬけて得意だった、それも、ハッピーエンドで楽しませるのがとても得意だった。だからそれを生かそうと思った。だから、漫画家か小説家か脚本家か映像作家あたりがもっとも適性があると思った。その中で、自分の得意分野を生かしつつ目をひきつつ新鮮なことが出来るのはどれかといえば、おそらくアニメ映像作家だろう、ということで、(今は)その表現に絞って、そこに精進していたわけです。

でもこれって完全に僕のほうの理由ですよね。
僕は僕がレベルアップしたいがために創作している?すばらしい映像を作れるっていいつつ完成品はこれから作る?それで「人はついてくるか?」

そう自答して、商業に徹しよう、「この作品を支援すればあなたにはこんなリターンとメリットがありますよ」と、商売人として頭を切り替えようと、そうしてきたんですが、自分で作ったものを、「商材」としてみてしまうと、そして、「商材」として切り刻んで広告パッケージを作るとなると、つい、切り刻んで再構築しても痛くも痒くもない素材であるかのように、遠くの目で一歩ひいて見てしまう自分がいます。自分にダメージが来ないように。
だって、自分で自分の作品を切り刻んで、っていうのは、たとえその整形後のみためがだいぶ客観的によくなろうとも、それってある種の自傷行為ですからね。別にやりたくてやるようなものではない。

作品が軌道に乗ってから、公開後ファンがついてから、「一緒に楽しもうぜ!」という視点で考えてある、ゆるふわ面白い企画やスピンオフはいっぱいあるんですよ。

ただ、最初に、軌道に乗るところまで、人の注目を集める、その能力が圧倒的に足りない。ていうかアピール下手、口下手なんです。だって今まではその部分を漫画なり作品なりが『語って』補ってくれていたから。

しかし、そろそろ僕は、「創作物以外の手段で『語る』という技術」を覚えなければならない、という局面に困ったことに差し掛かってきてしまったようです。

ブログや小説では饒舌なのは、やはりそれ自身が「作品」というフォーマットとして僕が認識しているからでしょう。なんであれ、それが「作品」であっていいのなら、僕はこのように、語ることが出来ます。しかし、それがビジネスでありプレゼンであり、という土俵になると、交渉ごとやメリットデメリット、その他の約束事や決まりごと、マナー、etc. がちらつき、「正しく客観的な物言い」しか出来なくなります。

一般的にはそれでいいんです。ただ、インターネットで出資を募る、クラウドファンディングSNSでのいい口では、その熱のないビジネスライクな物言いは、かならずしもメリットにもなりえない、というのもわかってきました。

そこで僕はわりと困っているのです。適度なレベルで「熱さ」を「自分」を表現することが出来ない、作品として何かを語ってしまうと、このように、ちょっと個性が出すぎてしまいます。そうすると、ちょっと、なんというか、不適切な感じがそれはそれでするんですよね…。

こう、適度な熱さを帯びつつ適度にビジネスライクな文章って、そのフォーマット自体は「嘘くさく」感じてしまうんですよ。『それ本気で思ってるの、思ってなくてもそんなこと口ではいくらでも書けるような…』って。

フォーマット自体が嘘くさくても、説得力をつける方法もありまして、それは「中から滲み出てくる熱意のほうが一貫して芯が通っている」場合です。
しかし、今回の場合は―――。 そこもちょっと揺らいで…。