荷内思考開発所

ありがちなことばでありがちなことものを考えてみる

中東はほんとうに危険地帯なのだろうか―平穏な毎日がふと崩されるという瞬間

なんとなくではあるが、日本は安全、中東は危険 というイメージが日本人には定着しているように伺える。

シリアにしろパレスチナにしろ、日本の報道だけを見ると、あたかもそこがいつも紛争の起こる危険地帯であるかのように見えるのは、それは勿論そう感じてしまうのも無理はないと思う。

 

しかし、本当に戦争状態・内乱状態の危険地帯であったら、『人々はその地に暮らしていない』はずではないのか。近代戦において国家間の戦闘をする場合、戦場として任命された土地の住民は避難させられるし、そうじゃなくても、『ここは危険である』とあらかじめ分かっているわけだから、大体逃げるか、覚悟はするわけだ。

 

だから、戦争あるいは紛争を起こしている当事者以外は、被害が出ないのが、本当の危険地帯なわけだ。

 

危険な場所だから、多くの民間人が犠牲になっている。わけではない。

安全で、ありきたりの平穏な日常を送っているところに突然爆弾がふってきたから、多くの民間人が犠牲になっているのだ。

 

そうはいわれても、乾燥地帯のどこか遠いせかいで、人が死にまくっていると聞いたら、そりゃそういう場所なんだな、とどこか冷めた目でみてしまうだろうけれども。

でも、その中に自分に卑近な例があると、ふと、ああなるほど、そういうことかと体感的に納得した気になれることがある。

 

少し前の出来事になるが、シリアのダマスカス大学の食堂に爆弾が落ちてきて、同大学の学生が何人か亡くなったという報道があった。

普通に学食でご飯を食べている時に爆弾が落ちてきて死ぬ。

もし、常にいつ爆弾が落ちてきて分からないような臨戦態勢だったら、大学だって『うちに今来ると紛争に巻き込まれる怖れがありますので来ないでください』とお触書を出すだろうし、当然トラブルを避けるための処置は起こすはずである。

普通に大学にいって普通に学生たちが一杯居て、学食を食べたりしているっていうことは、それだけ安全が保障された場所だったということであり、ごくごくありきたりな平穏な日常生活がおくれていたのである。

民間の飛行機が落ちたり、船が沈んだりすれば、わが身に起こりかねないことと身震いする。しかし、遠くのどこかで爆弾が落ちていても、それは、そういう場所なんだなあ、と自分にはまず起こらないだろうなあ、と思ってしまうのは、僕もそうだし、皆さんにもそういう人は多いと思う。

ニュースは普段の日常ではなくて、突発的なイベントを扱うものだ。

平穏な毎日がふと崩されるという瞬間を狙って、そこに着目して人々の視線を集めるようにニュースというのはつくられているのだから、それを通してだけその世界と接触するのであれば、そちらの世界が不安定な場所に見えて当然である。

崩される前の安定した日常のほうは、わざわざ絵にされない。だって、ありきたりで平凡すぎるから。絵にならない。

 

いま、そして昔からずっと、マスメディア等で注目される「センセーショナルな紛争地」とは、確かに我々の文化とは異文化の地帯ではありこそすれ、基本的な日常生活で言えば我々の住んでいる今ここと同じような、あくまでも「普通」の街だった。

そうしたごく平凡な町が、ある日を境に、急にその「普通」が普通じゃなくなることと、それが起こりうるということ。そして、その「普通」からの変遷が、世界の歴史を見渡す限りごく普通に、あたりまえのように何度もいたるところで起こっているということ。

その辺のことを、たまに思い出してやらないとなあ、と思うのです。

 

僕らの今感じている平穏な「普通」も、ある日急にがらりと変わってしまうかもしれない。そしてそれは、悪いほうにも、いいほうにも起こりうる。

 

当たり前だと思っていたことが突然なくなる現象とその予兆。

気に入っていた服のメーカーが、トレンドに合わず、消えた。

数年前は当たり前のように買えた物が、もう買えなくなってしまった。

 

それは、まあいいのだけれども。

出版業界が斜陽と聞いて、当たり前のようにスルーしている自分がいる。

出版業界に体力がない。という単語はもはやBGMのように聞こえる。

 

日本国内の出版物のうち、漫画や雑誌、娯楽小説が軒並み消えたとしても、多分、僕はあまり困らない。なんか本の棚のすきまが物寂しくなったな、と思い出したように見遣るだけだろう。

しかし、一般向けに、歴史や学術思想等々を開設したような本、ニッチな図説解説書等々が消えたら、知的好奇心はそこらをさまよい、好奇心の探検は大分味気もそっけもないものになってしまう、そんな未来が見える。

 

日本は西洋の植民地になったことがないからか、日本に住んでいると、さまざまな知識を探究できる知識体系が、母国語のみで充分構築されているということの恩益の大きさをあまり自覚していないような気がする。

当たり前のように本屋さんに言って多くの文字が縦書きの滝のように洪水のようにあふれている光景を当然だと感じてしまうが、それは決して当たり前ではない。

 

エンターテイメントを失ったとしても、そのときはまた何か別のエンターテイメントが台頭していることだろう。だからその辺のことは、少々さびしくは思いこそすれ僕はさほど悲観はしていない。物語とキャラクタへの人々の渇望は、それはすさまじい。

 

ただ、それに比べて知識と思考への渇望はどうか。

日本語の体系と共に失われた知恵はどこかに受け継がれるのだろうか。

言語が消えるという未来を僕らは想像が出来ない。

しかし、言語というのは、そして言語に伴った体系化された知識と思想体系というのは無限の未来まで続くことが保障されているものではない。体感レベルではあまり実感のわかないことだけれども。

リアルタイムで流行の映画・音楽等々を追うメリットについて

僕は、流行のものにあまり関心を持てない性分で、あー面白そうだなー、と思いつつ、興味を持つの自体を先延ばしにしてしまう傾向がある。

 

しかし、別にそれが嫌いとかいうわけではないので、そのコンテンツが多くの人から忘れた頃に、ふと手にとってみて、鑑賞し、そして新たにそのよさに気付いくこが多い(遅い)。

 

つまり、コンテンツをたしなむテンポがワンテンポツーテンポ遅いのであるが、今までそんなにそれ自体について気にしたことがなかった。

 

ブームの最中であろうとなかろうと、そのコンテンツの質自体は変わらないはずだが、僕は最近、ふと、そういえば、好きになる作品の作者が死んでいたり、バンドが解散済みだったりすることが多いなあ……と思ったのだ。

当たり前である、僕は、「過去のもの」を漁っていたのだから。

 

作品の体をなしたディスクの中身はそりゃいつだって変わらない。何年後購入しようとデータの質は不変だ。

しかし、希望の有無が変化する。その続編を期待すること自体が、「もう、更新されなくなった作品群」からは許されない。

 

僕は、非常に「期待するモチベーション」の低いディスクの消費方法を自ら選択していたんだなあ、とふと思う。

 

その辺、肌感覚で分かっているから、多くの人は、「今」にこだわった作品の追い方を選択するのかもしれないなあ、と思う。

時間とわがまま

実を言うと、漫画を読んだりアニメ鑑賞が趣味という人の気持ちがさっぱり理解できない。

 

外から与えられた物語というのは不自由なものである。

始まりも終わりも自分で決められないし、時間を拘束される。

 

僕は決まった時間を拘束されるのは死ぬほど嫌いだ。

ある時間ずっと「何かをするためにここにいなければならない」と宣言されることがとても嫌いなのだ。

 

結果論として、時間を注ぎ込んでしまうことは別に嫌なことではない。

ただ、時間を注ぐかどうかの決定を「他者によって指定される」ことが嫌なんだと思う。

 

映画は2時間で終わるから、大した損失でもないと思えるので、とっつきやすい。

アニメ漫画はちょっと長すぎると思う。

 

もちろん、気に入ったものの続きを見たい、と思った時に続きがあるのは非常にうれしいことなのだけれど、アニメ漫画はその点も不自由で、「ちゃんと、終わりが設定されている」

 

そりゃあ商売なのだから当たり前だと思う。なんだろう、形式に固執しすぎて、「一定の長さで、一定の期間で、終わる」ように出来ていると感じるのだ。

 

「終わってしまった作品」は、終わりなのだ。

待てどわめけど、終わりは終わりだ。

ファンアートはもはや別物である。

 

 

僕は鑑賞者に決まった時間を要求しない芸術を鑑賞するのが趣味だ。

絵画とか、あるいは、短い音楽とか。 みたい時にみて、みたくなくなったら、辞める。

 

その主導権はこちらにあって欲しいと思う。つまりわがままだ。

思っていたより、強烈な刷り込みだった―。アポロ11号の月面着陸の歴史から

今まで全く疑いもせず、アポロ11号は月面に着陸し、人類は当時月に降り立ったのだと漠然と信じていた。

いや、それを否定する人の存在は知っていたが、むしろそちらのほうが根拠をでっちあげている感じていた。

 

キューブリック2001年宇宙の旅をみて、1960年代当時の技術でも、

リアルな宇宙空間の映像が作れるのだなあ、と知ってからも、

あまり人類月面着陸の映像が捏造だとは、思えなかった。

 

しかし、ふと、技術の発展史から考えて、「当時の制御工学のレベルで、機体に傷を付けずに安全に着陸することが出来たのか?」という疑問がよぎったのである。

 

近年、二千年代に入ってから、いくつもの探査機が火星や土星の衛星に着陸した探査機の様子が報道された。

そのイメージ映像(どのように着陸するか)を見たことがあるが、たしかSFのように逆噴射して減速しながら着陸するものだった。これは現代の技術である。

 

アマゾンの小包をリモコン飛行機で飛ばすという話が現実可能になってきた、

現代の技術である。

 

一度だけ、宇宙飛行士の人と話す機会があったが、その時の僕は気の利いた質問は何一つ思いかばなかった。

今後、聞き返す機会があるなら、ぜひ聞いてみたい。

当時の技術で、アポロの着陸は本当に可能だったのだろうか?と。

 

まあ、本当に20世紀の人類の月面着陸があったものかどうかは、今後の科学が否応なしに明らかにするのだろう。

そこに恣意的な操作が入らないとしたなら。

割と冗談じゃなく、今の日本のマンガ・アニメはジャパニーズ・モダン・浮世絵だと思っている

ジャパニーズ・ガラパゴス・ウキヨエ

 

その流通している文化圏の当事者は決してそれが独自の文脈による洗練されたデフォルメ技術だとは、気付かないような、エンターテイメント文化。それがジャパニーズ・ウキヨエ

とすると、現代のマンガアニメゲームなどは、十分ジャパニーズ・ウキヨエ たる資格があるように思える。

 

江戸時代のジャパニーズ・ウキヨエは、包装紙に刷られたまま、その大胆なデフォルメ・色彩・構図・意匠・テーマをもって、まったく別の文化圏を持つ人々の目も引いた。

当時の日本の絵画の特徴として、ざっくりといってしまえば、デフォルメをしているものの、全体としてはそれほど意味不明でも、素っ頓狂でも、空間がめちゃめちゃでも、ない。ということがあるのではないかと思う。

つまり、デフォルメとエンターテイメントの皮をかぶった写実表現。

それが江戸時代の当時、「普通だと認知されていた」日本の絵画の特徴なのではないかと思う。

 

さて、現代の日本のデフォルメテイストの写実文脈絵画はどこにあるか?(写実という単語を使うと、写実主義絵画、のように捉えられかねないので避けたほうがいい気もするが、まあ、それとは別文脈の、もっと大きなくくりでの「写実(=概念的な画ではない)」である)

そこにある!あなたの部屋のコミック棚の中だ。

 

現代美術において、美術界の潮流は、「写実でないもの」を求められるようになって久しい。

ただそれは、現代において、普通の写実的絵画表現があまりにもそこらじゅうにありふれているから、そもそもそれらは「美術」いや、「画」だと、認知されすらしていないのに等しいのではないか?

 

だから未来の美術史から省みた、現代の写実系の絵画文脈における巨匠は、巨匠と認知されないまま、今のこのエンターテイメント界隈のどこかにいるのかもしれないですね。