2018年になりましたね。
どこにも思ったことをかけないというのはなかなかこたえるということで、
今後はブログにいろいろ書いていこうかなーと思います。よろしくお願いします。
2018年になりましたね。
どこにも思ったことをかけないというのはなかなかこたえるということで、
今後はブログにいろいろ書いていこうかなーと思います。よろしくお願いします。
疲れたなあ…それだけ
今年、2017年は自分にとって二十代前半に突っ走ったことの尻拭いをしている年でした。
私がいまいち今うまくいっていないのは、「本来40代50代になってキャリアをつけて業界での立ち位置を身につけた人」がようやく手にできる仕事、ポジションを若いうちからいきなりショートカットしてやろうとし、それゆえの信用が築けてないから、なのですが、
当時の直感よろしく、「今突っ走らなくて、『着実に』やろうとすると、できなくなる」未来がなんとなく見えました。それが故突っ走ってみたのです。
そして、その直感はおそらく正解でした。
二十代後半にして、創作意欲、もといその源泉となる想像力が衰え始めました。
いまからゼロからそういうことを始めようと思うのだろうか、とおもえば、まあ動かないだろうな、という感じがするのです。
何で勢いらしい勢いがここまで欠如してきたのかはわかりませんが、「好きなことを全力でやっている」イメージとは今の自分は申し訳ないですがかけ離れています。
今はそこまでの勢いがないので、
好奇心と想像力、創作意欲は何もしないとどんどん落ちるもので、そのことを身をもって実感できたのは収穫だったと思います。
想像力をたくましくする環境って、身の安全が確保されつつ、精神的な充足が完全に満たされていない環境、だと思うのです。目の前を見ていなくてもとりあえず死なないからこそ目の前以外の仮想世界をリアルに想像しても大丈夫、だからといいますか。
いまの自分の場合は、身の安全がない以上、仮想世界に逃避しているとどんどん本当に身の危険が迫ってくるので、この世の中は自発的に何かしらアクションをとらない限り、本当にこちらを殺そうとしてくるということをよく知りました。アクション取れば大丈夫なんですけど。
よくがむしゃらになって動けばなんとかなる、という話を聞きますが、そのひとががむしゃらになって動ける性格かどうかは「なってみないと何とも判断できない」ので、なんともいえません。あと、がむしゃらになるというのは現実と向き合う、ということなので、現実と向き合っている間は想像世界の思索に費やすことはできません、そういうことです。
白状しますとここ半年一年、「自分のための趣味的想像思索や物語づくり」をほとんどしていません。子供のころは、「毎日異世界を想像しないで生きているとか、何が楽しくて生きているんだろう?」と不思議でしたが、いまとなっては、私自身が子供のころ不思議に首を傾げられる対象の「不思議な」大人となってしまいました。
あれ、年齢関係ないのでは…???
どっちかといえば、貧すれば鈍する 案件だなあ、これ
私は個人的に思うのですが、アーティストのCDや、アニメの円盤を数千円数万円で買うときって、すごい気に入った作品じゃないですか。
円盤を買うって、相当なことだと思うんですよ。
お金っていう指標に直されてしまうと、
お金持ちがアニメに興味なくて払った数百万円に、すごく気に入ってくれた人が円盤を先行購入してくれて払ってくれた数千円数万円にがまったく太刀打ちできなくなってしまうという事実を目の当たりにしてしまって、
自分の場合はレアケースとはいえ、
お金の重み、って時として百倍千倍…あるいはもっと、開いていて、かならずしも一律にならべてそのひとの「欲しい!」を反映したものと評価していいものでも、ないんだな、と思いました。
これは私が前々から思っていたことなのですが、基本的に、今資本主義の世の中では、多くの人が『労働市場に参入しないと生活が出来ない』と教え込まれ、思い込まされています。
実際はそうではなく、なんらかの方法で『お金』という名の信用を持っていれば生活できるのですが、大半の人にとって生活できるに足るお金を(正攻法で)入手する方法としては、労働市場に労働者として参入するという方法しかありません。私含め。(※受注請負のフリーランス等も含む)
(実際は生活保護などセーフティーネットは存在しておりますが、そのような、『セーフティーネットを使用するのは悪いこと』という刷り込みがされている人が多いようですので、後ろ指差されないで、生活する方法としては、やはり、『お金を持っていること』が『生活&生存』のための十分条件になります。今回の文章では、後ろ指差されないお金の入手方法=(正攻法)と表記しております。)
さて。
私が長年思っていたことではあるのですが、
「私は面白い心に響くお話を作れます」「絵がかけます」「漫画が描けます」「受賞歴もあります」「CGが作れます」「ついでにアニメも作れます」「そして、そのアニメは多くの人にとって(欲しいもの)であるとも断言できます」「つまり完成して公開した暁には価値が発生いたします」
しかし、「『信用』がまだないのでアニメを作る(あと半分を)環境を整えることが出来ません。」
この問題。
生活するには労働市場に参入しなければならないのでしょうか。
この問題。
私が労働市場に参入して少々のプラスをもたらした分の価値と、私のアニメ自体が完成してコンテンツとして成立した後の価値でしたら、明らかに後者の価値の方が大きいというのも、断言できます。
しかし、(正攻法では)作ることが出来ない。『信用』が、まだないから。
つまり、『信用』がまだないひとは、時間をかけて一つのものを創り上げる権利が保障されていないといってもいいのです。作るものがたとえいいものだとしても、そのプロトタイプを上げる猶予をつくることが(現行の世間では)許されない。
その問題。
『信用』を積み上げていけばいいじゃないか、といえば、(正攻法で)その『信用』が十分な力を発揮する頃には、私はもう中年~壮年です。もう、時代の空気を救った『若者のリアル』なんて話はかけない。
さあ、どうしたらいいものかな、と暗中模索中であります。