荷内思考開発所

ありがちなことばでありがちなことものを考えてみる

二年前の自分の日記が見れないという変化について。

さいきん、これから自分が取り組んでいく内容について話をしたところ、「天職ですね」といわれました。

就職活動を通して、「天職」が存在しなかったことをたしかめたから、その職業を創ることにしたので、それはもう、もちろん「天職」です。

目の前に、暗澹と立ちこめる暗い雲が立ちはだかっていて、それが、ぼくにとっての「天職」です。とうてい人にお勧めできるものではありません。

もしやってみて、どうしても、それが本質的に仕事にならない、ということが確認できるのであったら、あらためて何がしかの天職に巡り合えることになるのでしょうし、もしいま天職だと思っているものがそのまま機能するようであれば、それもたぶん天職なのでしょう。

 

…まあできると思っていますけどね。

 

…さて、ところで、というわけで、二年前ぐらい、2014年度前半の「迷っていたころ」の日記を振り返ってみようかと思ったのですが、それを眺められなくなっている自分に気づきました。

それぐらい、天職という感覚は「やわ」なものなんですかね。

 

暗澹と立ち込める天職、わーい。

日本で芸術が必要とされていないのは、まだ「感情」がアウトソーシングされるほど、社会の合理化が進んでいないからかもしれない。

最初に述べておきます。私は「芸術」を作っていた側の人間です。

 

しかしながら、世間を俯瞰すると、どうもこの国では、純文学とかアートといった「芸術」作品にはなかなか市場価値がつきにくい様子です。権威のついた作家の作品は、それは「権威のあるもの」として、非常に高値がついたりはするのですが、さて、著者を隠して、作品単体で心を動かした度合と、そういった市場価値に相関性があるかといわれれば、どうでしょう。そこには疑問符が付きまとうように感じます。

 

他の国ではどうなのか、といったことに関してはまだ調査不足ではありますが、すくなくともこの国内では、あまり芸術単体は必要なものとはみなされていない様子ですね。

 

芸術とは、ひとの感情をそのような媒体に閉じ込めてあるものであり、これを鑑賞することは、普段そこまで深く感情の動きを味あわないで生活している人に、疑似的にその感情の強いシグナルを感じてもらえるようになる、という効果があります。

それが市場価値を持つということは、それだけ、その「芸術を鑑賞している」ということによってもたらされる思想や感情の幅が非日常的であるからであって、逆説的にそれらを求める人は、普段はシステム化されて合理的な中で、あまり感情の揺れ動きがなく生きてしまっているのではないでしょうか。

とすると、「芸術が必要とされている」環境というのは、より近未来的なSFに描かれているような、何もかもがアウトソーシングされているような未来―たとえていうならアーサー. C. クラークの都市と星のような―に近い世界なのではないでしょうか、とも思ったのです。

 

逆に言えば、日本ではこういったものが必要とされていない以上、ディストピア的な管理社会からはまだ遠く、ひとの感情が毎日のように揺れ動き、交錯し…といった社会なのではないか、とも思いました。

 

じっさいのところどうでしょうか。

 

ところで、すこし気がかりなのは、芸術と名乗る類の芸術は大衆人気は下火ですが、そうではなくエンターテイメントの皮をかぶった類の芸術は非常に隆盛ですね。

エンターテイメントの皮をかぶった芸術とは、大衆小説や漫画やアニメなどのことなのですが、これらの上記の芸術群と違いといえば、描く対象の違いが大きいと思います。これらは基本的に人々の友情や恋愛、組織として敵対する組織と戦う、などといった、人間の日常の交流を模したものが多く、それが、「親しくなれた」、「敵対する組織に勝利した」、というふうにもっていくことで、視聴者にカタルシスをもたらす、という基本構造になっています。

 

つまり、そういったものを「欲している」ひとは増えてしまっている…逆に言えば、友情や恋愛、信頼関係による社会集団、といったものはかなりアウトソーシングされてしまっているのではないかともうかがえるのです。これは、よい現象なのでしょうか。

我思う故に我在り

かの有名なデカルトの言葉を少し引用してみたわけだけれども。

 

もちろん、そのデカルトが一体何をもってこの言葉を残したのかその心中は僕には定かではないけれども、僕はなんとなくその言葉にある種のシンパシーを感じた、まあだからいまこういう風にブログを書いているわけだけれども。

僕は、なんとなくだけれど、こういう風に文章を考え、打ち込む僕は、思考する主体として存在しているという気がする。この感覚自体は決して特殊なものでhないし多くのみんながなにかしらもっているようなものだと思うけれど、もしかしたら、僕の場合は他の多数の人より、この思考する主体としての自分像、というものに重きを置いているウェイトは大きいのかもしれない。

 

文章がいつもより若干支離滅裂だ、それはそう、今日は文章をわかりやすく書こう、とか人に読んでもらいやすく書こう、とかよりも、赴くままにキーをうつことを優先しているからだ。気の赴くままに文章を書きならべていっても、この水脈はこの程度は意味を成す文脈を形成していくし、まあ、これ以上の論理だったわかりやすい何かを形成していくほどの明瞭な系統だった思考は備えていない。

 

さあ、さて、この思考する主体としての僕、というやつであるが、最近ようやく24時間のほとんどをこの思考する主体という彼が引き受けてくれるようになったらしい。なにをいっているかといえば、やっと普通の人のように目の前の現実に僕の思考が向き合ってくれるようになったっていうことだな。目の前の現実…?本当に見ているか?

理解はしないけど「そういうもの」だと認めるものはある。 おそらく生育環境によって刷り込まれてきた先入観~1

おそらく後天的に身につくた先入観について、案外その影響は大きいのかもしれないという話。

 

ある人(A氏としておく)が、美術分野の芸術家と日本のロックグループと雰囲気が似ていると語っていた。その例えは、わからなくもないけれども僕にとってはあまりピンと来なかった、というか、芸術家のことを矮小化して語っているなあ、という印象だった。

 

そこで、なぜそれを矮小化しているように感じたのかといえば、彼に比べて、僕は外国の高名な絵描きを過大評価しすぎ/そして日本のロックグループを過小評価していたからだと思い至った。

どちらが正しいといったものではないのだけれど、僕にとってロックミュージシャン、とくに最近の邦楽のミュージシャンは低俗で安価なもの、あまり、しっかりした「芸術作品」を作っているような存在ではなく、安価な暇つぶしをcommercialにのっとって提供してくれる存在にすぎない、というイメージがあったのだろうと改めて思った。

 

それでは、僕にとってその芸術家の作品群と横に並べるとしたら、音楽家だったら「誰なら」納得するかと考えたところ、やはり行きつく先はクラシック管弦楽の作曲家・演奏家群なんだな、と思ったわけです。つまり、音楽と美術を同じショーケースに陳列すること自体には違和感は持っていない、と。

 

おそらくエレキギターやロックミュージックに対する偏見が、やはり僕にはあって、ではそれはどこから来るものかといえば、やはり「最初に触った楽器が何であったか」というところからくるのかな、と。

正直なところ、エレキギターというものが、楽器だと認識したのは18を越してからであって、それまではファッションの一種のような、身に包む飾りだと思っていた。つまり、彼らの機能は「カッコイイ」というアイコンであって、音は一応なりはするけどおまけである、と。そしてちゃんと音楽を作りたいのなら、ちゃんと音の鳴る「楽器」を使うべきだと、思っていたわけです。

 

今はエレキギターは弾けるし一応楽器なのはわかっているけど、でもやはりピアノや金管楽器と同列の楽器か?と聞かれると首をかしげざるを得ないし表現の幅も少ないと思う。これは僕の感覚であるけれど。

 

また別の人だけれど、ある人(B氏)は、ギターを一番感情の表現ができる楽器だと言いきった。

その時は、もちろん彼のいう理屈を僕は理解できたと思ったけれど、今思い返せばやはり僕には感覚的には全く理解ができない。というのもやはり僕にとっては金管ないしダブルリードの楽器群が一番エモーショナルである。人間の喉もよいダブルリード楽器であるけれど、ボーカルは時折歌詞を邪魔に感じる。

 

この不思議な偏見が、先天的なものであるはずはないのだから、だとするとこれは、たぶん後天的に身についた「感覚」なんだろうなあ、とは思うのだけれど、

だとすると、やはり人間ってすごいあいまいなものなんだなあ。と、

だってちょっと与える楽器の順番を変えるだけで、同じものに対してこうも異なる感覚を持つようになるのならば。

面白さをさがして-(1)

一つ一つ、勉強を重ねていくうち、表面をさらっただけで面白いと思えるものがどんどん減ってしまう。

その代り、学べば学ぶほど、より深く楽しめるようになるものことは増えていくのだから、けっきょく総量としての「感じられる面白さ」のこすうは変わらないので、決して悲観するべきことではないけれど、でも、みえるものがどんどん変わっていくので、やはり周りの人が変わらないままだとしたら、みんなとはどんどんずれていく。

 

ずれていく視界の中でわかることは、「昔は確かにそういうことがおもしろかった」「あの輪の心地よさはよくわかる、まじってみたい」「まじってみたいと思っていたが、たぶん今の僕が入っても面白くないだろう」「面白くないだろうし、きまりのわるさをかんじる」「きまりのわるさだったものが、もう何がどう面白いのかさっぱり感覚的には理解できない」「ただ、確かに昔はそれを面白いと思っていた過去があるしそのこと自体は忘れてはいない」。

自分で駆動系を制御できる らせんを描く上昇するエレベータに、乗っている気分であって、その半透明の窓から、かつての同好の士の「たのしさ」がはるか遠くに見渡せる。

みえなくなることはないから、それが楽しかったという気持ちは忘れることがないけれど、(わすれてしまったらおわりだ)

ただ、今の僕はそこにいない。みんなが楽しいと思っているフィールドで休日のボール遊びをすることはできないのだ。

物理的な距離の遠さなら、高速射出装置をエレベータ内に設置して、サーブマシンのようにうちだせば技術的な問題は解決できる。そこまで無茶しなくたって、一時的に「一時間ほど留守にします」と、エレベータに張り紙を張って、航空バイクで中空をすっぱぬき、ボール遊びの場へ降り立って一時間弱ストップウォッチで時間を計ってきっかり「遊んで」から、あわてて尾翼の生えたバイクを猛ダッシュさせてエレベータへとんで戻ればいい。

しかし、それは、楽しいのか。

それって、無理やりな感じがして、たのしくないんじゃないか。

だったら、けっきょく、エレベータの中で今の僕が自然体で遊べる遊びをすればいい。と思うのだ。ただし、物理的に、僕のいるエレベータ内には僕以外には誰もいない。これを耐えがたい孤独と感じるひとがいるならきっとその人には耐えがたい孤独なのだろう。僕としては、案外悪くなくて居心地のいいものなんじゃないかと思いはじめてる。

ただし、外はよく見える……。

 

 

 

なぜ、そんなに(何かの目標にむかって)頑張るのか、といった問いを向けられることが(実は、ちょっと)多くなってきていた。

 

じつは、僕も自分はけっこう頑張っているのかと思ってた。

でも、今日、ふと、明確に言語化できて、妙に腑に落ちたのだけども、

頑張っているわけではなくて、面白さをさがしているだけなんだと思う。

 

一回はいった知識は一時的に忘れることはあれ、やはり、消えないし、経験は記憶の奥底の砂礫に埋まっていたとしても、かってに取れてなくなったりしない。

どんどん変化する僕のスピードに合うように、自分が心から楽しめる面白さというのをどこまでも、さがしているだけなんじゃないかと思った。

 

(達成するのが普通の人には困難な、壮大な)目標にむかって、

(強い意志で)実現しようとしている、

 

というよりは、

(自分にとって「やりきった」と(今のところ)まあ満足できる)目標にむかって、

(とりあえず、けじめの/あるいは今後、環境のせいでやりたかったけどできなかったという愚痴を垂れ流す人間にならない)ために実現しようとしている

 

というのが実のところなような気がする。

 

いままで、「これが俺の最高傑作だ!」って、自作に酔えたことなくて、酔えるかな?と思った機会もなんか自分で握りつぶしてきてしまって、おかげで「自分っぽい作品」と紹介できるものはあれど、少なくとも今の方向の創作物において、「これが自分の渾身の作品だ」って思えるものは何一つ残せてない、というか、世に出せていない。

 

もちろん、どこかを切り捨てて、どれかの創作のスタンダードな形の箱にぎゅうぎゅう詰めて、成形してパッケージングして、小ぢんまりとまとめることは技術的に可能なんだけど、でも、どうしても、そうしたくない。それ絶対後悔するから。

というよりは、今まではそうしてきたんだよね。

既存の、『作家一人でできる限界はこのぐらいです』っていう、パッケージングに、はいそうですね、身の程を知ります って、ハイハイ言って合わせてたんですよ。

まあ、合わせたところで本質やエッセンスはもちろん表現できるから、もちろん言いたいこともかけたし自分としての作品らしさ、というのも徐々に出せた。

ただ、そこには打算があった。

「人間が肉体的にできる限界はここだから」と世間が言うから、それに合わせてるっていう打算。

個人的には、それは突破できるんじゃないかと思った。

 

なぜなら、僕には複数技術の蓄積があったから。

つまり、早咲きじゃなかったんだよね。有能な新人が自分のできることはコレ!って早くから決め打って実際成果を出すなか、僕は全く別のやってみたいことにあれやこれやに遊びで手を出してた。だから無駄な方向に複数スキルがあって、それを複合させたら一人でかなりいい線いけるんじゃないか、という気はしてた。

 

そして、試してみた。できた。カンペキだ。

できるじゃないか。

 

ということで、今体感的には真ん中ぐらいまで来てる。体感的には。(実作業としては1/ 4ぐらいな感じ)

 

 

まあ、自分が納得できること(=たのしく遊べること)が目標なのだから、周りの評価がどうというのはあまり重要な部分じゃない。

ある意味、諦めをつけたい、身の程を知りたいからこそやっているみたいな面もあるのかもしれない。

 

 

それはけっして偉大な理想を抱いているわけではなくて、(というより、偉大な理想を抱いている自分に酔っているわけではなくて)今とても自分がしっくりくる、自分の作品として僕が自分で納得できるような明確なパッケージングの最小単位というのがどこなのかを、知りたいと思った。

 

これは僕の結構悪いくせなのかもしれないけれど、自分でそれが妥協だと感じると、とたんに最低限の機能が果たせるラインまで手を抜く癖がある。手を抜きたいわけじゃないのだけれど、しかし、機能以上の作りこみをする気力の拡充がしようがないのだ。だから、どこまでも丁寧に作品を完成させられる人を尊敬しているし憧れていた。

 

だから、自分が真剣に作りこめる作品の単位を、確認したかったんですね。

 

体感として、今のその単位は、大きすぎず、手短に達成しうる目標のうちとてもしっくりくる単位なのである。外からどう見えるかは別として。

 

単純に、ほかの多くの人たちのように、「自分の渾身の作品だ」って堂々と言えるようなものが作りたい。つくってみたい。

それだけであって、「これが自分の作品だ」自分が納得するようなパッケージングが、ちょっとばかし手間のかかることだったってだけなのです。

 

 

 

 

露呈したときの弱さは罪か?

よく、お金が絡むと人が変わるとか、

酒を飲むと(悪い意味で)人が変わる等いうけれど、

それって、弱さが露呈することをいうんだと思う。

 

そして、その弱きを露出した状態で、その人が、周りの人にやつあたりして傷をつけたり、逆に周りに寄りかかりすぎて負担になりすぎたり、あるいは組織の上の立場にいるはずなのに無責任な行動をとったりすることは、ほんとうに、罪なのか。

それは確かに迷惑だったり、周りからしたら「悪い」行動であるのは明白だけれど、それは、自覚的に行う「悪さ」と同質の・あるいは同程度の「罪」なのか。

 

罪というのは何か。

僕は善悪というものがいまいちよくわかっていなかった。

実のところ、今でもよく理解しているかといえば、ちょっとこころもとない。

 

人格障害は、人格形成期に、うまく周りと強調してやっていく術を学べなかった人たちだし、

サイコパスは、一般に良心が欠落しているというけれど、ほかの大多数の人の気持ちがわからないというだけで、(あるいは、わかったうえで無視していいと認識しているだけで)それ自体では善でも悪でもない。意図的な他害的な行動を起こさない限りは。

 

 

 

 

一般に思われているより、知的能力は遺伝しないのかもしれない~よくできている生命 1

成人した親子同士で、話がかみ合わない、意識も合わない、という話をいたるところでよく聞きます。

それは、裏を返せば、遺伝的つながりのある者同士は思考の方向性、知識水準、記憶力その他もろもろが似ていて当り前みたいな暗黙の了解があるがゆえに、必要以上にそう思われているようも見えます。

そこで、そもそもの前提として、知的能力が遺伝するというのは当たり前のことなのでしょうか。

何を言っているんだ、「知能は多くが遺伝する」と結論付けている科学論文は、いっぱいあるだろうと思われるかもしれませんし、ですので科学的なことについてはちょっと口はつぐまなければならないのですが、

しかし、その割には、親子で(考え方・思考の癖・知識や興味があまりにも異なるので)話がかみ合わないケースって非常に普遍的ですよね。

なので、ぼくは今のところ、ひとが言うほど知的能力は遺伝しないのではないかという価値観ベースで考えています。

つまり、けっこう無作為な、ランダムなものなんじゃないかと思ったわけです。

 

じゃあ、なぜ知的能力が遺伝しないのかといえば、生態系としての多様性を維持しやすいようにそうプログラムされているのかもしれないと思ったわけです。

さっき科学的なことは何も言えないといいながら、ここで科学的な発想を持ち込むのは、ちょっと趣旨に反する気もするのですけれども、完全に同じ分野ではないのでちょっとばかし目を瞑ってもらうとして(笑)少し雑感を述べますが、

その生物全体の集団として、ある程度は序はあったほうがいいのだろうけれど、完全に固まって身動き取れなくなってしまうのは、外部の変化への臨機応変な対応ができなくなるので、生物集団全体でみるとあまり「よい」状態でもないんですよね。

ですので、ある程度秩序は形成されつつも、定期的というか自発的に、ある意味ランダムにその秩序は壊される状態、のほうが、集団全体としてはよりしなやかさを増して、強固な状態となるわけです。いっぱんに。

なので、人間の知的能力云々も、基本的には一代限りのもので、本当は次世代には(何もしない限りは)続かないものなのではないかと思うわけです。

個人としての人間自体は、実は変化をきらう性質を大いに持っているようなので、次世代にも同じようであることを無意識のうちに強制しがちではあるのだけれど(全員とは言いませんよ)、ただ、実際のところは、都合よくそのようになってないかもしれない、という発想です。

よく、遺伝子を残すために子孫を作るとかもったいぶっていう人が言いますが、それは集団としてはその通りなのですが、あなた個人に限って言えば必ずしもあなたの性質はあまり受け継がれないということが最初から分かっていたとしたら、同じことを同じように言える人は、いったいどれほど残るのでしょうか、という気もします。

……おっとちょっとわき道にそれすぎてしまったようですね。戻ります。

 

なのでまあ、よくSF等でさんざん言われてきた世界設定の焼き直しみたいな発想ですが、思ったより生物やものの考え方、思考の方向性、…そして、それに続く自我…といったものは、何にも規定されてないし、逆にもっと別の何かから規定されていたのかもしれない、という感じの雑感でした。

 

※ 補足ですが、ぼくはなにがしかの宗教を崇拝しているわけではないので、おそらく無神論者なのですが、先ほどのプログラム云々の分を書く際に、隠れていた主語をどう記述するべきか迷いました。(けっきょくよくわからないまま、隠してしまったのですが。)つまり、上記の文は、主語述語でちゃんと記述すれば「…(前略)多様性を維持しやすいように(生物が、《誰によって》)そうプログラム…」という文面なわけですよね。 ここでいう《誰によって》とは、いったい誰なんだろう、と。僕は神の存在を認めているわけじゃないのに、そこに自然と記述するにせよ宇宙と記述するにせよそれは結局神がかった都合のいい何かになってしまうわけで、つくづく、人間の認識にしろ、文法などのロジックにしろ、「よくわからないなあ」という感想に至ることができるわけです。じっさい、《誰が》なにを、やってるんですかね…。