荷内思考開発所

ありがちなことばでありがちなことものを考えてみる

ジェンダーについて

これは、本当は最近、中編小説の形で書きかけてはいたのだけれど、最近の自分の小説や物語としての関心ごとがこれではないので、ここに独立した形で文章という形で骨子を記しておこうと思います。
この話題について、個人的に気がのらないが故に後回しにしているうちに話題が風化して(というより、社会的な議論がないまま科学の方が進んでしまって)人間の人格と尊厳の方がないがしろにされるような流れにもなりそうだと思ったので、

 

(純粋に小説というにはテーマ性やストーリーライン(=枠組みとしてのハコ)の方が前面に出すぎたうえ、登場人物の心理描写や魅力自体はかなり浅く薄めた作りをしているので、純粋に面白くないなと思ったのが小説として後回しにしている理由です。個人的に最近の自分の中での関心ごとはキャラクター物語なので、すすめる意欲があまりなかった感じです。あと、今の流行としてもそうだと思うし、さらにいうと、自分は「枠組みだけ書く人」という印象を初期活動で付けすぎたので(諸星大二郎っぽいといわれたことが有ります)、別にそういうわけでもなく案外普通の人ですよという方向でやっていきたさもあります。普通語彙に戻ってしまった。)

 

ジェンダーについてとありますが、いわゆる男性女性ジェンダーがどうこう、社会の中で男が~女が~という話では有りません。

 

あれですね、なぜ(ほとんどの)人は自分のことを男/女と認知し、それを疑わないで受け入れるのか?という話です。

 

それが不思議でした。

自分のことを男/女(/その他)と心から思い込む認知のことを性自認といいますが、大体の人は性自認と生物学的な特徴がイコールで結ばれています。
そして、性愛対象として生物学的特徴が異なっている側の人を無自覚に性愛的に好むという傾向もあるように見受けられます。

 

今の社会では、『性指向は個性』、『性自認は個性』ということになっています。

 

個人的に、そういうセクシャルマイノリティー的な自我や認知というのは、生物学的にどこか脳かどこかの認知機能をつかさどる部分のどこかが、身体性とは別の性別の方に分化したケースなんじゃないかと思ってるんですよね。

つまり、男性と女性の両方の部分を生物学的に持っているのではないかと。

あくまで憶測では有りますが、でも有りうるかもしれない話かなあと思っています。

そこで、もし今後、「性別違和を感じる個体」イコール「脳のどこかが分化過程で男性/女性になった個体」ということが、科学的証拠を持って示された場合、その人はその後どのように社会とおりあわせを付けていくべきでしょうか。

 

今のところは、「心の性別」という曖昧な概念を最重要視するという価値観が(イスラム教を除く)多くの社会で浸透していますから、その場合は「身体を心の性別側に合わせる」「社会的な振る舞いを心の性別側に合わせる」という措置をとることが一般的です。

ただ、思うに、「心の性別」という曖昧な概念を最重要視するという価値観自体がある種の宗教観のようなものではないかとも思えるのです。

つまり、別の強固な宗教観が出てきた場合、バッティングする可能性がありうる概念だ、と。
そして、科学というのは、そのバッティングを引き起こすに足るような強固で堅牢な価値基準だと体感的に感じます。

 

まあ要するに「科学的正しさ」って強いよねー。という話です。

 

もし、性別違和が生物学的な現象であり、投薬などで軽減される現象だとした場合、「身体の性別に脳を強制しよう」という話が発生したりしませんか?という問題提起です。

 

今の社会では、「抗鬱剤」や「ADHD用の薬」などで、神経系の特殊さを均(なら)す薬が実用化されています。合法化は微妙ですが、試験の成績をあげるためのスマートドラッグなるものを服用する人たちもいるみたいですね。


なので、イメージとしては、脳神経の働きを一部を薬を使って変更する、みたいなことは、社会的にはOKなこととして合法的なコンセンサスが取れている社会になっているわけです。

 

もし、今後、(あくまで仮定ですが)性別違和の根本原因が脳内物質や神経系統を基にするものだと判明したとしたら、それらの特性と同様に、薬や後天的な処理で変更が出来るようになる類のものになりうるかもしれません。

その場合、その人の性別的認知を後天的に変更することが、社会的に正しくなりうるでしょうか?

これわりとただの勘なんですけど、今の感じだと社会的に正しいと主張する一派がでてきて、そしてわりとその認識が勢力を持ちうるところまではいきかねないかもなあと思っています。

 

「ずっと性別違和の話じゃねーか、ジェンダーだなんて言葉が大きすぎるじゃないか?」と思われるかもしれません。ここでようやく包括的なジェンダーの話につながります。

 

そこで、その「後天的に性別を変更する手段」がわりと社会的な合意を得て実行され始めるようになったとしましょう。

例えば、清水さんという人がいたとしましょう。性自認と身体や戸籍の性が異なる方で、普段の行動や思考のベースにもそれが如実に滲み出ているタイプの方でした。(例えば、イメージとしては、身体は男だけど明確に雰囲気が女性だよね、話していても間合いが女性的だよね、とか人間関係の形成の仕方が女性的だよね、というタイプの)

その清水さんが、脳神経に作用する薬を使用することで身体や戸籍の性別としての自覚が芽生え、身体や戸籍の性別としての性自認を得、身体や戸籍の性別で形成された社会的役割やグループの構成員として身体や戸籍の性別側の性別で溶け込むことに違和感がなくなったとしましょう。

 

その清水さんは、元の清水さんと同一人物ですか?

 

行動や振る舞いパターンがガラッと変わってしまった後の清水さんは、自他共に、元の清水さんと本当に同じ人間なのでしょうか?

顔や声、身体的特徴がよく似た、よく似た、同じ個体を引き継いだだけの別人なのではないでしょうか?

 

僕が普段、日常においてジェンダーというものが存在するように一番感じるタイミングは、「男性/女性集団において(個体差はあるものの統計的には)コミニュケーションの間合いの取り方にある種の傾向がある」そして「その傾向自体は国籍人種を超えたり等の全く違う環境で派生した集団にさえ、共通点が見受けられるように(思われる)」という実例を目にした時なのですが、脳内を科学的に操作することによって、その人の自我の中の「性別に対する自己認知」という部分を変更するとは、その人のその人たら締める行動や思考の源泉をいじくりまわすことになってしまいやしませんか?

そして、根幹となる行動や興味関心をつかさどる部分を変更されたその人は、もう、自他共にその人自身と言えるのか?という問題提起をそろそろしたかったなーという話でした。

 

そして、その人自身の認知を社会のためだからといって変更する権限は社会には有りうるのか?みたいなこともいいたかった感じですね。

 

うん、キャラクター小説にするにはめっちゃつまんなそうな話だな。文章でかいといてよかった。話が仮定に仮定を乗せて二転三転してるのはいかにも小説のストーリーテリングをベースにしてますみたいな感じの趣がありますね。ほんとうにその原因が小説だったからなのかは定かではないですが……。

 

めっちゃ国語の現代文のテストみたいな文章になってしまいましたねー。