最初に述べておきます。私は「芸術」を作っていた側の人間です。
しかしながら、世間を俯瞰すると、どうもこの国では、純文学とかアートといった「芸術」作品にはなかなか市場価値がつきにくい様子です。権威のついた作家の作品は、それは「権威のあるもの」として、非常に高値がついたりはするのですが、さて、著者を隠して、作品単体で心を動かした度合と、そういった市場価値に相関性があるかといわれれば、どうでしょう。そこには疑問符が付きまとうように感じます。
他の国ではどうなのか、といったことに関してはまだ調査不足ではありますが、すくなくともこの国内では、あまり芸術単体は必要なものとはみなされていない様子ですね。
芸術とは、ひとの感情をそのような媒体に閉じ込めてあるものであり、これを鑑賞することは、普段そこまで深く感情の動きを味あわないで生活している人に、疑似的にその感情の強いシグナルを感じてもらえるようになる、という効果があります。
それが市場価値を持つということは、それだけ、その「芸術を鑑賞している」ということによってもたらされる思想や感情の幅が非日常的であるからであって、逆説的にそれらを求める人は、普段はシステム化されて合理的な中で、あまり感情の揺れ動きがなく生きてしまっているのではないでしょうか。
とすると、「芸術が必要とされている」環境というのは、より近未来的なSFに描かれているような、何もかもがアウトソーシングされているような未来―たとえていうならアーサー. C. クラークの都市と星のような―に近い世界なのではないでしょうか、とも思ったのです。
逆に言えば、日本ではこういったものが必要とされていない以上、ディストピア的な管理社会からはまだ遠く、ひとの感情が毎日のように揺れ動き、交錯し…といった社会なのではないか、とも思いました。
じっさいのところどうでしょうか。
ところで、すこし気がかりなのは、芸術と名乗る類の芸術は大衆人気は下火ですが、そうではなくエンターテイメントの皮をかぶった類の芸術は非常に隆盛ですね。
エンターテイメントの皮をかぶった芸術とは、大衆小説や漫画やアニメなどのことなのですが、これらの上記の芸術群と違いといえば、描く対象の違いが大きいと思います。これらは基本的に人々の友情や恋愛、組織として敵対する組織と戦う、などといった、人間の日常の交流を模したものが多く、それが、「親しくなれた」、「敵対する組織に勝利した」、というふうにもっていくことで、視聴者にカタルシスをもたらす、という基本構造になっています。
つまり、そういったものを「欲している」ひとは増えてしまっている…逆に言えば、友情や恋愛、信頼関係による社会集団、といったものはかなりアウトソーシングされてしまっているのではないかともうかがえるのです。これは、よい現象なのでしょうか。