僕は、「勉強ができる、頭がいい、賢そう」と称されるのが嫌だった。
砕けた口語体でしゃべっているつもりでも、発言内容への厳密さを求めるあまり、つい具体的に具体的に、そして、誰にでも明瞭な尺度(数値などといった)を交えて話す癖を、あまりこころよいものとは思っていなかった。
そして、ここ一年弱、思考を言語化することによって明晰化して再確認する行為をやんわりとやめ、より感覚的な、視覚的/心象による快不快による判断をベースに思考ように切り替えていった。
その結果、いまはだいぶ、以前に比べて「勘」というものがきくようになったし、さらには、自分の心象に忠実に動くことがだいぶできるようになってきていた。
ところで、いいことづくめだったかといえば、そうではない部分もある。
失ったものがひとつ。
明瞭で明晰な思考 だ。
今はもう、深遠な古きよき哲学者をまねて井戸の深淵から論理の宇宙を見上げることはないし、ましてや数学の海岸で手を塩水にひたすこともない。
喧々諤々な政治論を小じわのついたグレーの背広を着たおじさんよろしく酒のつまみに語ることもなければ、若き死を遂げた100年前の若者の、現代とは少し違う日本語の作品に親しみを見出そうとするほどの気力もない。
端的に言えば、頭が悪くなった。
近視眼的な経済論とエンタテイメントに興味を持つただのひと。
ちょっと難しいことや困難な課題はすぐに投げ出し、まったく頑張ろうとはせず、やろうとしても目先の興業に目がいってしまう。
子供のころ、どうして周りの大勢の人は、あんなに好奇心や興味の対象が狭いのだろう、どうして そんなの で満足なんだろうと不思議に思っていたけれど、今の僕も、じゅうぶん好奇心に欠けている。
そして、大半のひとは、こうなのかもしれない。
今の状態は以前に比べて非常に気楽でいいものだけれども、そして、この状態に物足りなさを感じるほどの余裕も体力もないので、このままでいいと感じるのだけれども、
ところでところで、僕の置かれている地味に特殊な環境群は、この空中でふわふわした状態のことをOKとは言ってくれないらしい。
僕があまり自覚していなかったことだけれど、僕がいまの行動をどうとろうとも、その結果は、僕の今後一生ついて回るのかもしれない。
もっと、勘の鋭くてさとい人は、はじめからわかっていて、そのことに恥じないように振る舞い、とっくに行動に移しているのだろう。
けれども、僕はうっかりしていたので今頃気づき始めたわけだ。
そうすると、結局、失手をとると、ぼくの人生論的大損害になりうるわけなので、やっぱり綿密に対策をとらなきゃ。
……おーし、やる気でてきた?