荷内思考開発所

ありがちなことばでありがちなことものを考えてみる

当たり前だと思っていたことが突然なくなる現象とその予兆。

気に入っていた服のメーカーが、トレンドに合わず、消えた。

数年前は当たり前のように買えた物が、もう買えなくなってしまった。

 

それは、まあいいのだけれども。

出版業界が斜陽と聞いて、当たり前のようにスルーしている自分がいる。

出版業界に体力がない。という単語はもはやBGMのように聞こえる。

 

日本国内の出版物のうち、漫画や雑誌、娯楽小説が軒並み消えたとしても、多分、僕はあまり困らない。なんか本の棚のすきまが物寂しくなったな、と思い出したように見遣るだけだろう。

しかし、一般向けに、歴史や学術思想等々を開設したような本、ニッチな図説解説書等々が消えたら、知的好奇心はそこらをさまよい、好奇心の探検は大分味気もそっけもないものになってしまう、そんな未来が見える。

 

日本は西洋の植民地になったことがないからか、日本に住んでいると、さまざまな知識を探究できる知識体系が、母国語のみで充分構築されているということの恩益の大きさをあまり自覚していないような気がする。

当たり前のように本屋さんに言って多くの文字が縦書きの滝のように洪水のようにあふれている光景を当然だと感じてしまうが、それは決して当たり前ではない。

 

エンターテイメントを失ったとしても、そのときはまた何か別のエンターテイメントが台頭していることだろう。だからその辺のことは、少々さびしくは思いこそすれ僕はさほど悲観はしていない。物語とキャラクタへの人々の渇望は、それはすさまじい。

 

ただ、それに比べて知識と思考への渇望はどうか。

日本語の体系と共に失われた知恵はどこかに受け継がれるのだろうか。

言語が消えるという未来を僕らは想像が出来ない。

しかし、言語というのは、そして言語に伴った体系化された知識と思想体系というのは無限の未来まで続くことが保障されているものではない。体感レベルではあまり実感のわかないことだけれども。