世の中にはジョブワーカーとプロフェッショナル気質の二つしかない、って一般には思われているし、基本的な社会の仕組み―あるいはその歯車の中で生きる人間の用意された身分・立場―はそういう風に出来ているにできているらしい。
うすうす感づいていたけれども、最近顕著にそれを感じる。
しかし人間達の気質は本当は大雑把にくくれるその二通りではないだろうと僕は考える。それは詳しく細分化するということではなく、文字通りどっちにも収まりきらないタイプがいると思うのだ。僕自身はどうもどちらの立場に身をおいていても居心地が悪い。(ごくまれに)僕みたいなタイプもいるらしいが、本当にいないことになっているので、既存の社会構造の中では、明確な存在場所は確保されてない。(今までの社会構造の中では、たとえば学者等がその受け皿であったのだろう)
レイヤー化する世界、という書籍で描かれていた近未来像があった。
そこでは、一人の人間はその与えられたステロタイプ的な役割を全うするわけではなく、複合的に、多重の立場・役職・係わり合いの中で、存在しているらしいと。
そうして、現実に世界はそういう方向へ移行しつつあるらしいと。
それはある意味正しいと僕は読んでいた。しかし、現実はどうだ。
そう変化しつつある社会の枠組みの流れに、この孤島の日本は、そして海外含めローカルに生きる個々の人々を取り巻く社会の様相の変化は、非常にスローだ。
スローだった。
僕は既存の社会構造の中では、生きていけない。それをよく自覚した。
一旗上げたいというか、そういう気概はない。
ただ僕は、居心地が悪く、やりたくないと感じること、嫌だという感情に誠実に生きたいだけだ。
嫌だという感情に嘘をつくことは容易だ。
そうやって嫌だという感情に嘘をついて及第点を取ることは容易だ。
しかし、それではいい物を作れない。技術の問題ではない。いいものが作れない。
いいものが(構造的に)作れないことを延々と続けているようであれば、それは長期的な目で見れば、他者・後世の人々にとって、ただの無駄だ。一人の人的資源をかけた損失になるのだと思う。
だったら僕はいい物を作れる可能性をかけたほうに舵を切りたい。いや、切る。
切ることにした。
たとえ、世間からは落伍者という立場になっても。
(というか、今すでに、今まで乗ってきた、きらびやかな出世レールとやらを踏み外しつつある…)