さきほど、二・三年ほど続いていたtwitterのアカウントを消した。
特に理由らしい理由は無い。
あるとすれば、それは、マンネリ化の進行と、自分のつぶやきの不毛さに自分自身が飽きたということだろうか。
そのアカウント上では、ある種のキャラクター(?)のようなものとして振舞っていた側面があったけれども、そのキャラクターが周りに定着するにつれ、そのこと自体に自分自身が飽きてしまった。
なので、これといった理由があったわけではないのだが、なんとなくの感覚で、「このままではいけないぞ」という、漠然とした焦りはあった。そこは、とりとめもないほどぬるい空間で、本拠地をそこにしてはいけないとよく自覚はしていた。
自分だけはマンネリズムの罠にはまりはしない、という根拠の無い自負があったけれども、実際のところ、そとから客観的に眺めてみれば、僕は完全にマンネリズムの泥沼にはまりつつあったように思う。
twitterに限らず、最近はいろんな関係を自発的に切るようにしている。
それにはとりわけ何がどう嫌、という理由はないのだが、居心地のいいコミュニティーで楽に過ごすことは、停滞につながるように感じるのだ。
抽象的な意味での「停滞」、である。
「停滞」の先にあるのは「死」であると思うし、僕はそんなところで小さく収まりたくはない。いや、収まることは出来ない。
僕は自分が楽に出来ることには価値を見出せないのだ。
「社会の中で役に立てること、自分の出来ることに線を引いて一生懸命やりましょう。」という思考に、どうも根本的になじめない。
(その割りに、問題なのが、外面だけは完全に染まりきっているし、さらに最近ではそれがどんどん内へ浸食してきていることだ)
損なもの、だと思うが、まあ皆意外とそんなものなのではないかと思う。
あと、そのアカウントと連結されたクラウドに、いろんなものの習作を置いて創作のモチベーションを維持させる役割も持たせていたが、今はそのような動機付けは必要がなくなったので、その意味でもそのアカウントは不要になったのだ。