荷内思考開発所

ありがちなことばでありがちなことものを考えてみる

フーコーとヴィトゲンシュタイン(そもそも取り扱っている対象の違いについて)

 曖昧な知識で覚書することは、不勉強を講習に晒すようなある種の恥のようにもかんじられるけれども、しかし、アウトプットしないまま自分の中で溜めておいても、それではなかなか進展しない(本業ではないので、あまり触れる機会がない)気がするのでここで今の段階での覚書をしておく。

 

 自分がちゃんとその人の解説書を読んだことがある哲学者と呼ばれる人は、

ドゥルーズ

フーコー

ヴィトゲンシュタイン

のみである。

 

 哲学者が自分で記した本を、読みこんだことはない。ソシュールの翻訳を読もうと思ったこともあるが、あまりにも読みにくかったので、読み切れなかった。そのような人間が、哲学の何を気取ってそれらしい話をするのかと、そんな話などお前には語る資格などないだろうと、そういった突っ込みが入るのは、むろん想定の範囲内である。しかし、そこで挑発的に発言するような人間がいたら、それはあくまでそういう人なんだなあと僕が思うまでであり、それ以上の何にもならないであろうと思ったのでここにその(非常に少ない知識で)考えたことを、書き記すことにした。

 

 ここで、僕が話すテーマについて先に要約しておこう。

 【一般に、同じ哲学という土俵で彼らはくくられることが多いが、それぞれの思想において、根ざしている概念基盤の段階がそもそも違うのだなあ】ということ。

 

 フーコーの考え方は、わかりやすい。彼の言っていること、例えば人々の相互監視がそれ自体が暴力装置というか抑制装置である、といったアイデアを挙げると、これは、発想自体は当時としては斬新だけれども、現代の人にとっても、勿論当時の人にとってもそれほど特異に感じられる物の考え方ではなかったはずだ。

 つまり、たとえば友達から同様の話を言って聞かされれば、ああ成程と誰でも納得するような話だと思う。

 何が言いたいかというと、彼の場合はアイデアの新規性が新しかったわけで、決して地に足のついていないレベルの抽象思考をしているわけではない。

 これを、仮に、「地に足がついた、一般的な人々のものの考えの延長にある土俵」、としよう。

 

 一方、ヴィトゲンシュタインの考えは、わかりにくい。否、人によってはむしろこちらの方が根本的で「わかりやすい」と捉える人もいるだろう。というのは、論考において彼が語った内容は、非常に抽象的な表現を伴うし、そして内容もどこまでも抽象的なのである。

 僕が無知なだけかもしれない、大学の学部時代(理系)にてならった抽象数学の発想を生み出したのはどうやら彼だったらしい。そのことに驚嘆するとともに、彼はどうやら抽象的に世界を取り扱うことに意味を見出していなかった様にも感じられた。もののありようは写像関係で描写することができるが、しかしその写像関係自体を論理学で描写することは出来ない、という諦めである。

 

 つまり僕がある景色をみてそれを言葉で表現したとしよう。

 周りの人間もその表現された言葉について、僕がある景色をみてそれを表現したのだな、ということは理解してもらえるが、しかしそれは、それだけなのである。

 僕が見た景色がどうしてその言葉と一対一対応で結びつけられるかを適切に証明できる言語は存在しないし、つまりそこはどんなに気持ち悪くとも(そしてだからこそ美しいのであるが)描写することは出来ない、と彼の理論は言うのである。

 

 話がそれてしまった。

 つまり、ヴィトゲンシュタインの話の発想は、どこまでも抽象的で、それもただの抽象論ではなく、普通の人が生活する上で普段全く意識もしていない領域の細分化する類の抽象論なのである。

 

 僕ははじめこの発想はカントの三大理性批判に似ているなと思った。

 実際、ベースにしているんだろうけれども、こういった普通の人が日常生活で考えない次元のことについて真剣に議論するタイプの思考も、また、哲学というおおまかなくくりの中には存在する。

 

 (現在だと、ちょっと違うが、「時間」に対する議論とかもその部類に入るのだろうか…?)

 

 では、ヴィトゲンシュタインが論理学を提唱する前の、世界には論理だった議論は存在しなかったか?意志疎通の齟齬だらけだっただろうか?

 ……いや、ご存じの通り、そうではない。

それよりはるか昔から歴史は連綿と続いてきたし、なぜかわからないが人々には最低限の議論の型(AならばB、BならばC、CならばD…というように)うめ込まれているようだし、さらにいえばそれ以上の抽象理論については考えなくとも身体が自動に応答するようになっているらしい。(先ほどの風景とその言語化したものの伝わり方の例など。つまり何も注釈をつけなくても、何か言語化すれば、その人が「何かをさしたものである」ということはあたりまえのように瞬時に伝わる、ということ)

 

 しかし、じゃあ、そういった抽象理論について、抽象言語で規定しようとした人が古今東西いなかったかっていうと、そうではないと思う。

 おそらく、書物には残っていないかもしれないし、今曲解されてわかりやすい部分だけが伝わって変質しているだけかもしれないけれど、僕が想像するに、ギリシャ哲学者や中国の古代の思想家たちにはそういった抽象次元ベースで物の存在論を考える人がいたのではないかと思う。

 しかし、思うにその抽象論を論理的に議論した文面は残っておらず、彼らの言動の(おそらくたとえ話を用いて大分感覚的にわかりやすくした)議論だけが文面として残っているにすぎない。

 おそらくその理由は、そういった抽象的な次元の考え方にやその存在意義に興味をそそられる人は多くは無いからであろう。多数の人間によってそのようなことはどうでもよく――あるいは、そのような思考する次元が存在するということ自体も知らず――そのため後世へその部分の思想を橋渡ししてくれる理解者を得ることができず、消去されていったのではなかろうか。……と夢想する。

 

 推論に推測を重ねている非常によくない文章になっているのは百も承知だが、その上で一つ、考えたことを述べると、哲学と一般にくくられている思想の中には、全く異なる思想的基礎のものがごちゃまぜになっているようだということである。

 構造主義、とか実存主義、という思想グループはあるが、それは、あくまでだれが誰誰の系譜でどうきたか、というくくりのようにも見える。

 そうではなく、どの次元で発想しているかというところで、別の分け方が出来るのではないかと思った。

 

 (まあ、雑感。)

 

(余談だが、時代が飛んでも発想ベースが似ている思想家はちょくちょく見つけるのもまた不思議である)