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荷内思考開発所

ありがちなことばでありがちなことものを考えてみる

創作の倫理観についての問題には肩入れしにくい 2

 前記事では、模写をパクり(盗作)だとするならば、そもそも模写は悪か?という話につながってしまう、と述べた。

 

○果たして模写は盗作なのだろうか

 模写では完璧に同じ線を写すことは出来ないとされている。つまり、コピーではない。

 絵を描く人の間では、トレス(線なぞり)は駄目、模写はよいという暗黙のラインがあることが多いいようだ。

 一見、絵を描かない人からしたらこのラインは緩いように見えるかもしれない。しかし、もし、模写(おなじモチーフをもとに多少の構図・角度・比率を変えて描くこと)が全てアウトになってしまったら、大半の絵は実は何かしらアウトになりうる要素を含んでいるのではないか、という懸念が生じる。

 おそらく、絵を描かない人が思っている程、絵を描くというのはさほどオリジナルなばかりな行為でもない。いや、本来はもととなる試料や写真をまる写しせずに描ければ、それに越したことはないのだが、おそらく多くの描き手は(意外に思われるかもしれないが)それほどの実力も、細部描写やディテールのストックも、持ち合わせていない。

その状態で、化粧のようにとりつくろって完成度の高い作品を完成させるなら、やはり試料は不可欠なのである。

 

僕はそういったいい分に対して、以前は、それは努力の怠慢ではないかと思っていた。

しかし、現在はそちらが「ふつう」なのだ。

多数でありスタンダードなやりかたなのだ。

 絵を描くにあたって、ディテールやストックを忠実にものにして、習作を重ね…ている間に短い人生が終わってしまうよりは、それはさっさと手短に情報をかき集めて済ませて、描写したいもの、オリジナリティを発揮するメインの部分に注力する方が、効率的だし、現代の時代背景にあったやりかたであろう。

 そもそも絵を描くにあたって、或いは鑑賞するにあたって、重要なのは、どの部分にオリジナリティ=その人の興味好奇心そして視点特徴を見出すかであって、鑑賞者が我が、それらの絵に対して、画面全てが脳内の蓄積から出すオリジナル、じゃないと認めないという基準を要求したら、多分、発表されていく美術品の質は今より大いに下がると思われる。そこまで人間はマルチではない。

 それでも鑑賞者が構わないというなら、大いに上記の模写=盗作論争を盛り上げればいいともうのだけれど、もしそのことを無自覚にただ批判をしているのなら、絵を描かない人はもう少し大きな枠組みで考えてから議論をしてみたらいいと思う。