どうして人間はこうも愚かなのだろうか。気をつけていると言っておきながら約束を忘れ、遅刻をし、自分でたてたスケジュールすら守れない。さらにいうと朝、起きなきゃと思いながら二度寝する。
人間などと大きくくくるなって?それはお前だけだって?そうかもしれない、……がきっと僕以外にも程度の差こそあれ似たようなことは誰にでも経験があるのではないか?
まあ、これに限らずだが、人間・あるいは人間集団は、「まずいと頭ではわかっていながら残念なことをつい繰り返してしまう」性質があるのではないか、と思うことが多々ある。
例えば、大きく出てしまうが、戦争とかがいい例だろう。古来から大体戦争の後は何がしかの講和条約なり停戦協定が結ばれ、「こんな悲惨なことは二度とやめましょう」と互いに宣言しあったはずだ。しかし、ここ数十年、その「二度と」が実際の二度とだった試しがない。どうして忘れてしまうのか、その戦争の当事者はもともとそんなに大した打撃だとも損害だとも思っていなかったのか。しかし、多分そんなことはない。本当に痛手を感じていなかったら、目的を遂行するまでは、互いに戦争を続けるだろうから、相手の体裁を残した状態での講和なんて原理的にはありえない。(※1)
それで、だ。「二度とこんなことはやめよう」と、その時ばかりは強く願っていたのに、どうして人はそれをまた繰り返すのか。
それは、忘れるからだ。同じ個人(すなわち同じ個体)であっても、細胞は入れ替わる。その人の鮮明な記憶自体もどんどん変化していく。(※2)
そうやって考えていくと、そもそも、人は記憶をとどめていられない、という性を持ってこの世に存在しているのではないか、というアイデアへいきつく。
個体は生きて死ぬ。その人の記憶の全てが後世に継承されることは原理的にありえない。
その人の為した、或いは、みつけた何がしかの記憶が継承されているように感じられるなら、それは、練りに練って、或いは偶然の奇跡の産物として、まぐれに選ばれた数多くのその人だったものから厳選された、ほんの一部の記憶なのだ。
全部が残ることなど、ない。
そして、その一部残された記憶でさえ、時とともに、人々の中にもまれ、雨風に曝され、どんどん変質していく。
つまり、原形をとどめて残る記憶はない。
そうやって、人類は、人間は、記憶を失っていく。
この記憶の風化というプロセスは、拒むべきものでは、いや個々人の非力な人間に拒めるようなものではきっとないのだろう……確証はないが。
ということで、これが昨日もブログ書かなかったやつの壮大な風を呈したただの残念な言いわけでした。
(※1)(とはいえ、戦法・場所が限定され、プロ軍人で闘っていた近代以前の戦争は、そこまでの痛手でも無かったかもしれないが)
(※2)(神経細胞は入れ替わらないだなんて厳密な突っ込みは期待してませんしそれはわかっています)