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荷内思考開発所

ありがちなことばでありがちなことものを考えてみる

日本語と漢字仮名交じり文~1

 昨日は日本語の文章の構造についての話題だったので、関連して日本語について調べたところ、興味深いブログを見つけた。

 

ひらがなせいかつ への いざない - ぼんやりと考えたこと

「ここのところ、ぼくは かんじを いっさい つかわずに せいかつする という じっけんを してみている。

で、やってみたら、おもっていた よりも やれそうな きが してきて だいぶ じしんが ついたので、とうとう ここに せんげん することに します。 (引用)」

 

 とのことである。非常にチャレンジングな試みだが、果たして結果はあなたの目にはどのように映ったことだろうか。

 僕としては、単語ごとに空白を入れることで、大分読みやすくなるものだとは思ったが、やはり、通常の漢字仮名交じり文の方がずっと雰囲気を掴みやすいということを実感した。

 ここで、「読みやすい」と書かずに敢えて「雰囲気を掴みやすい」としたのには理由がある。

 もちろん、ここで使用されている「ひらがなぶん」でも、わかりやすく読者に内容を伝えるという、言語として最低限の機能は備えていることはよくわかる。

 しかし、漢字仮名交じり文の日本語には、それ以外の機能がある。即ち、ぱっと文字列を見ただけで、筆者の言わんとする雰囲気が浮かび上がる、という特徴だ。

 抽象的に書いてしまったが、要するに、我々日本語圏の人間は、漢字仮名交じり文を見たとき、漢字の量や配置から、日ごろから無意識に上下関係・相手の意図(どういう場でどういった意図で記された文章か)・誰を対象読者としているか・楽しげか/怒りを隠しているか/儚げか 等、様々な情報を連想してはいまいか?また、それを、当然のことのように文章を読む際の手がかりにしてはいないか?ということである。

 それは多分日本語のもつ大きな特徴の一つなんだろうと思う。

 例えば、英語の文章を見たとき、手書きか、タイプされた印字かでは、読者が受け取る印象はだいぶ異なるが、たとえば子供向けの科学雑誌の説明文も、大人向けのニュースの記事も、見た目にはあまり変わらないだろう。

 一方、日本語の場合は「こどもの科学」と「日経サイエンス」の記事は、例え扱っている内容も説明している用語がまるで同じだったとしても、見た目には大きく違うはずだ。子供向けの方は、意図的にひらがなが多くなっているし、また、漢字の多くにふりがながふってあることだろう。こうやって表記を分けることで、日本語では「この本は○○向けですよ」と、文字の段階で宣言しているのだ。

 つまり、英語などの全てが表音文字で表記される言語に比べて、日本語は、より情報を視覚に頼っている度合いが大きい言語だと言える。

 すると、ある文章があったとして、個々の単語・熟語自体は大人が一般的に使う硬い漢語であっても、それが記述された際、全てがひらがな表記であると、よくもわるくも、幼い子供に語りかけているような、ほんわかした語り口に見えてしまう。これは、よい効果をもたらす場合もあるであろうが、むしろビジネスや政治・社会問題についてしっかり話し合いたい場合に使う言語としては、あまり好ましい状態ではないだろうと思う。

 現在の日本語圏の我々には、漢字の使用頻度を視覚で判断して、無意識のレベルで情報を「読む」ことに慣れてしまっているため、その「読み方」を廃した視線で文字をあくまで音だと割り切って読むのには、なかなか頭の切り替えが大変だ。もし、仮にひらがなぶんを大人が使う言語として普及させた未来があるとしたら、多分それは、その無自覚の下の視覚に頼った「読み方」を日本人が忘れた/忘れさせられた後のことだろうと思う。