荷内思考開発所

ありがちなことばでありがちなことものを考えてみる

自殺について。

たしか8年前のことだったと思う。

ある漫画家さんが31歳で自殺したと報道された。

その漫画家さんの公開ミニブログを覗いたところ、当時ミニブログはそのままに残されていた。今はどうなっているかは知らない。

特に当時の自分には
「自分は怒りを原動力にして作品を書くタイプではない」
「真綿で首を絞められる思いがする」
という言葉が印象に残った。

 

自分はその漫画家さんと面識があったわけではない。もちろんやり取りもしたことがない。どちらかといえば当時の自分にとっては「雲の上の人」だった。

その人がデビューしたのはとある雑誌の新人賞だった。その新人賞の初回の受賞者だった。
自分はそれよりずっと後の新人賞に応募してたか担当がついてたかぐらいのただの新人作家だった。

その作家さんの作風、画面、その雑誌の方向性やカラー。キャラクターの表情、テーマ、表現方法。そういったものに、当時の自分は好感を持ち、親近感を持っていた。共感していた。とはいっても、いくつもある自分の作風や感受性の一部の話であって、そちらだけが僕のすべての方向性というわけではなかったのだけれども…、まあそのこと自体はこの記事の話題ではないのでどうでもいい。

ともかく、当時の自分は、「このままの作風、この雑誌での成功の向こうには、《自殺》があるかもしれない」という現実を学んだ。

それは驚きだった。

それは、売れて誰でも知る国民的作家というほどまで売れていないことに絶望したからなのか?とも表面的な邪推をしたこともあったが、例えば自分だったら、と、「好きな作品を書き続けて生きられればそれで幸せじゃないか」と、無邪気な足りない頭で思った。
結局、当時の、人生経験の足りなく人に対する感情も想像力も欠如していた僕には、彼がいったい何を絶望したのかはわからなかった。

 

当時の僕にとっての「成功=自分の作家性を打ち出して、専業作家になること」の向こうにある、《真綿で首を絞められる思い》というものが、どういうものなのか想像がつかなかった。想像はつかなかったが、「そういうことがある」ということを学んだ。

 

多分彼の「自殺」という報道は、今の僕を形成する役に立ったのだと思う。ある種の礎になった。指針になった。もちろん、その割合は決して大きいものではないが、その中の一つになったことは事実だろう。


《職業漫画家という肩書きを得た後の真綿で首を絞められる思いの末の自殺》

そのカッコ《》の中の概念を習得したのは非常に僕にとっては衝撃的で有益なことだった。

成功してもそのようなことになる可能性があるのだ。
当時の自分の夢見る将来の《成功》の後にも、そういった《自殺》ということが選択肢としてありうるとぼんやりと考え、それによって、それを予防するという発想を得るに至った。

 

いつしか、報道から若いアーティストの自殺という文字が消えたように感じる。

 

それはいいことなのか。わからない。

目標が定まらない

アニメが完成したあとなにをしようかなあというのがいまいち見えてなくて、

漠然と考えてはいたんですけれどどうするべきか答えは決めていません。

 

 

あ、今これ書きかけの歌詞なんですけど、こういう平坦な気分な時に見ると、「あっ、良いな…。」って思います。

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見渡す限り人間の痕跡だらけの世界に眩暈がする。

多分それは色鮮やかで美しい眩暈なのだ。

 

右を見れば「人間」左を見れば「人間」モニターを見ればモニターの向こうへ「人間」外へ行けば野山に行かない限り「人間」

どこを見渡しても人間の痕跡がする。

あまつさえ、人間の生活圏のことを「世界」と何の疑いもなくいってはばからない人も多い。

 

人間が決して嫌いではない気がするから、構わないといえば、まあ構わない。

しかしながら、見渡す限り人間であるこの世界に、たまにくらくらして距離を置きたくなることがあるのも決して嘘ではない。

距離を置いて閉じこもれる場所なんて実際どこにもないのだけれど。

最近、日本語ネット圏において、書かれたことを鵜呑みにする人が増えた気がする。

最近、日本語ネット圏において、少し以前と違う変化…というか、違和感を感じることが増えたような気がします。

 

ネット上に上がってる一語一句を「事実の伝聞」であるかのように飲み込むかのような言説が非常に増えたように感じるのです。

 

例えば、大学などへ行くと、理系文系を問わず、「その文章の原典はどこか、ソースはどこか、明示せよ」というのは耳タコで叩き込まれるわけです。

そういう発想を下地にして考えるとすれば、ネット上に書いてあることなんて、「ただそこに書かれた文章」でしかないわけです。確かなことと言えば、せいぜい「画面の向こうで誰かが入力したこと」ぐらいです。(※自動文章生成はまだ実用に投入されてはいない、という前提で書いています。)

 

実名や身分証明書と結びついたwebコミュニティの発言でもない限り、ネットにいる個人の各々の感想なんて、もしかしたらそれはフィクションかもしれないし、いや、フィクションや嘘設定であったほうが面白いと言うか、まあそんなもんでしょうという感じの世界だったような気がするんですよね。数年前までは。

 

さいきんは、ヴァーチャルなんとか…という3dモデルのようなアバターを被って3d空間を散歩したり、配信したり、するのが流行ってきているようですが、それをみていて思うのは、嘘(フィクション)を嘘(フィクション)として共有するためにバーチャルというガワすら必要なのか、というのが僕の個人的な驚きです。
というか、そういう前提が成立してしまうと言うことは、逆説的にみると、ヴァーチャル3dモデルというガワをかぶったり、「ヴァーチャルな世界です」と前置きされたweb空間に居ない限り、皆これがリアルの延長なのではないかと思っているのではありませんか?

自分で思っているより人間を好きではなかったんじゃないかと思う。

自分で思っているより人間を好きではなかったんじゃないかと最近思うことがあった。

自分では比較的誰とでも話せるほうだし、誰と喋っていても比較的有意義な時間と感じるし、これといって人嫌いというわけではないと思っていたのだけれど、

たとえば、同じ人間と一日8時間×5日/週時間を過ごすと考えると、閉塞感に億劫さを感じる。

これは至極普通のことで、割とみんなそんなもんなんじゃないかと思っていたのだけれど、どうもこれは少数派らしい。

 

これは僕の傾向なのだけれど、僕は人が何を考えているか、というか、思想の内容にはあまねく興味があるけれど、その人という身体的な存在自身には大して興味がないのだろうと思う。

 

これを描いていてふと思ったのだけれど、現在制作中のアニメ「雨上がりの虹」シリーズは、「自分が嘘をつかずにかける範囲の大衆向け」として構成していたものの、よくよく考えてみればそこの前提とされる価値観の裏に、自分の世界に対する認識・価値観が大いに反映されているのだろうなと思った。

狙っている筋書き、テーマ、人間関係、構成…そういったものはすべて文章で説明できる程度に考えた結果のお話であって、もちろんそこで説明された範囲に関しては、非常に「多くの人が納得できる」ような、普遍的なものではあるのだけれど、

一皮向いて、「どうして彼らはそれで良しと感じるのか」「どうして彼らはそういう関係に落ち着いているのか」というところを考察してみると、それは作者の価値観がそれを良しとしているから、にほかならないのではないかという気がした。

キュビズムの本当の意図した所は、デジタルが存在しなかった時期の3dモデル概念を説明した四面図なんじゃないか

ピカソキュビズムって芸術としての新表現というより、

紙上で表現できる3Dの製図(四面図の情報量を増やして、スペースをコンパクトにまとめたもの)として認識すると、すっと呑み込めますよね。

 

みたいなことを数年前に思いついたので、この機会にシェアしておきます。

SFをみるとしばしばテレパス(脳内通信)という描写を見かけるけれど、実際それを実現させるには我々は既にリアルタイム通信に飽きている気がする。

よく、サイエンスフィクション等の中で、未来技術として「瞬時に他者と思考を共有できる」テレパシー的な脳内通信技術が描かれるのを見かけます。

そこではそれらの技術は「心地よいもの」「明るい未来をもたらすもの」と、(作品の主人公らの思惑は別として、当の脳内通信を用いている彼らは)肯定的に認識している様が描かれている印象が強いです。

よく、過去のSFに描かれた未来技術が、数十年のときを経て現実に実現する、ということがありますが、これら生体的な改変を伴う通信技術に関しては、現実問題として人間はそれらを導入する未来をもたらすほど無配慮ではないような気がするのです。

というのも、実際そのような未来技術を想定するには、我々はSNSやチャットシステム等で、既に物理的障壁を超越した、ほぼリアルタイムな他者との意思疎通の社会実験に参加しすぎ、そして、その結果どうなるかを体感的に知りすぎているような気がするのです。

他の未来技術に関しては、「来てみないとわからない」ところがありましたが、こういった意思疎通系の通信システムについては、世界中の人を巻き込んだ実験が既に行われており、今後これらを導入したらどうなるかがあらかじめ具体的なイメージが沸きすぎているのではありませんか?

皆がなんとなくのイメージがついてしまっているからこそ、「こういうふうになったら未来はどうなるんだろう?」という好奇心があまり駆り立てられることがない分野なのかなという気がします。

VR的なものが台頭し始めてきましたが、(このブログを含め)身体性を離れた状態で遠隔的なコミニュケーションが出来るツールが既に浸透している現在の私達の感じる「VR世界への好奇心」とたとえば、1990年代からタイムスリップして来た人が今のVR世界を見て抱いた、「VR世界への好奇心」は、また違ったものではないかと思うのです。

これは個人的な主観ですが、どんなに通信技術の技術的側面が発展しようとも、よりリアルタイムで的確な通信ができるようになったとしても、「向こうにいるのはただの人なんだよなあ」という事実が変わらない限り、過剰な変化はなさそうだなあと思った次第ではあります。
もちろん、過剰な変化が起きえないというのも、目線によっては「良いこと」だとも思っています。