荷内思考開発所

ありがちなことばでありがちなことものを考えてみる

キュビズムの本当の意図した所は、デジタルが存在しなかった時期の3dモデル概念を説明した四面図なんじゃないか

ピカソキュビズムって芸術としての新表現というより、

紙上で表現できる3Dの製図(四面図の情報量を増やして、スペースをコンパクトにまとめたもの)として認識すると、すっと呑み込めますよね。

 

みたいなことを数年前に思いついたので、この機会にシェアしておきます。

SFをみるとしばしばテレパス(脳内通信)という描写を見かけるけれど、実際それを実現させるには我々は既にリアルタイム通信に飽きている気がする。

よく、サイエンスフィクション等の中で、未来技術として「瞬時に他者と思考を共有できる」テレパシー的な脳内通信技術が描かれるのを見かけます。

そこではそれらの技術は「心地よいもの」「明るい未来をもたらすもの」と、(作品の主人公らの思惑は別として、当の脳内通信を用いている彼らは)肯定的に認識している様が描かれている印象が強いです。

よく、過去のSFに描かれた未来技術が、数十年のときを経て現実に実現する、ということがありますが、これら生体的な改変を伴う通信技術に関しては、現実問題として人間はそれらを導入する未来をもたらすほど無配慮ではないような気がするのです。

というのも、実際そのような未来技術を想定するには、我々はSNSやチャットシステム等で、既に物理的障壁を超越した、ほぼリアルタイムな他者との意思疎通の社会実験に参加しすぎ、そして、その結果どうなるかを体感的に知りすぎているような気がするのです。

他の未来技術に関しては、「来てみないとわからない」ところがありましたが、こういった意思疎通系の通信システムについては、世界中の人を巻き込んだ実験が既に行われており、今後これらを導入したらどうなるかがあらかじめ具体的なイメージが沸きすぎているのではありませんか?

皆がなんとなくのイメージがついてしまっているからこそ、「こういうふうになったら未来はどうなるんだろう?」という好奇心があまり駆り立てられることがない分野なのかなという気がします。

VR的なものが台頭し始めてきましたが、(このブログを含め)身体性を離れた状態で遠隔的なコミニュケーションが出来るツールが既に浸透している現在の私達の感じる「VR世界への好奇心」とたとえば、1990年代からタイムスリップして来た人が今のVR世界を見て抱いた、「VR世界への好奇心」は、また違ったものではないかと思うのです。

これは個人的な主観ですが、どんなに通信技術の技術的側面が発展しようとも、よりリアルタイムで的確な通信ができるようになったとしても、「向こうにいるのはただの人なんだよなあ」という事実が変わらない限り、過剰な変化はなさそうだなあと思った次第ではあります。
もちろん、過剰な変化が起きえないというのも、目線によっては「良いこと」だとも思っています。

無駄ではない、多分。

自分の行動によって未来は変わるのかと言えば、先人の行動によって変えられた現在の恩恵を何重にも受けている身としては、やはり自分の行動によって未来はいい方向に変えられるのだと思う。

例えば僕が、(僕の分野では)現代日本では若者の夢を支援する機構がないね、という事実を実際に経験・確認してみたわけだけれど、それ自体が無駄なのかと言えば、決して未来の後進の人に向けては無駄ではないのだと思う。

僕が僕だといっても社会から排除されることがないということ自体が先人の努力の結果であるわけだし、これ自体が多分当たり前なことではないのだ、と。

退職エントリを書こうとしたんですが、後半人工知能と認知の話になってます。

二月下旬に、勤務していた映像制作会社を辞めました。

 

バズ狙いの退職エントリみたいなものを書きつつ記事の下のほうに今後の個人事業(受注業)のリンクでも貼って誘導でもしようかと、小賢しいことを思った時期もあるのですが、気乗りがしないのでやめました。

 

また、どういう体質の会社で何が合わなくてどうして辞めたのか、そういったことを匿名ながらそれらしく記事で書こうかとも思っていた時期もあるのですが、一週間たってほとぼりも冷めたのか、わざわざそういったことを掘り返して書くほどのものでもないな、と具体的なことはあまり書かない方向で本記事を書いております。

 

辞めてからわかったのは、みるみる頭の中の薄ぼんやりとした思考が晴れ、(なかば鬱めいた)物忘れや凡ミスの頻度が低下し、霧が晴れたように「元通りの」クリアな思考とネットワーク的な思考判断回路が戻ってきました。ちなみに残金は大変なことになっており、現在の将来の展望は……客観的には安定した未来があるとは言いがたい形になります。

 

AIの台頭が言われておりますが、まずそれらによって問題となってくるのは、「人間としての尊厳」との折衝であるのではないか、というのが自分の中で浮かび上がってきました。

「働きたくない」と心の底から思っている人はあまり多くないのではないか、ということを思ったのです。

 

先に私の思考の先に行き着いた(ひとまずの)結論を述べさせていただきますと、私はおそらく生命体である人類に最後に残される仕事は「判断すること」であると思っております。

 

これはアニメーションや制作の過程で機械、つまり、プログラミングどおりに動く計算機を使っている身として体感的に感じるのですが、デジタル技法としての連続する映像や、それを切り出した静止画の生成に関しては機械は非常に忠実にこなします。

機械=アルゴリズムというものは、うまく入力してやればきちんとベクター線をベクター線として認識し、それを別のところに新規のベクター線として出力することが出来ます。もちろん、ピクセル化された色情報についてもそうですし、ある種の固定の関係性を持った構造体をブロックとして認知し再配置することも出来ます。

 

ざっくりいえば、お手本となる構造体関係を読み込ませて、お手本となる構造体の関係を別の要素で差し替えたようなものを生成することは機械に可能であるということです。

しかし、それは機械がすべて描いた作品なのかと言えば、それは違います。なぜなら、人間がそのように描くように指示して生成した絵だからです。機械の自発的な動機にもとづく絵の生成でも、主体的な判断による美意識の発露の結果でもありません。それらは、数多あるお手本にしうる画像の中から、具体的にお手本となる画像を「選んだ」人間側が持ち合わせていたものです。

 

もちろん、全くの無から機械が自発的な判断の元、独自の学習によって生成された知覚体系に基づいた画像を生成することは可能ですが、それが(多くの)人間が(人間が描いたものと同様であるという観点から)好ましいと認知する段階にはまだ時期は至っていないのだろうと思われるのです。

 

それは、機械側の性能限界というよりも、人間の人間に対する認知の研究解明がまだ進みきっていないことに原因があるのだろうとみています。

 

というのも、人間の好ましいと感じる認知と、機械が認識した構造体の関係性の間に、(まだ人間自身が言語化して性格に認知をしてこなかった)微細なずれがあったとします。

それを、人間は「違和感」として感じたり、「あまり好ましくないもの」という感情早期させられたりして、明晰な言語化的な認知とは別のプロセスで検知する性能のよさのようなものを持っているように感じます。しかし、人間が明確に解っている認知の部分だけで構成された「機械が判断するためのアルゴリズム」には、その「違和感」を認知する機構が欠落しています。なので、機械の部分単体だけで、人間が心の底から安心できるようなものは完成し得ない(ことが多い)のではないかと思います。芸術にしろ、社会システムのデザインにしろ、食事にせよ。

 

そこで、登場するのが、「人間の(明確化されていない)判断力」です。機械が出力した大まかなプロトタイプを、人間の感覚で「判断し」、人間好みに「調整する」役が必要になってくるのではないかと思っております。

必要になってくるというよりは、数多ある仕事のうち、最後に人間のために残される、「人間ではないとできない」仕事として残されてくる、といいますか。

 

先述のとおり、人間はまだ自分の感覚を完全に数値化して記述できるほど理解しきっていませんから、この部分の再現はまだ難しいのだろうと思います。

そういういみで、このあたりの人間の勘周りの話が、人類に残された、機械にとって代替不能な最後の仕事として残るのではないかと思っております。(しかし、後述するようにこれはあくまで原理的な意味での側面に留まります。)

 

他の仕事に関して、どう考えているかと言いますと、コストの関係、生きる意味との折衝関係、をのぞけば基本的に機械的なもので代替は可能ではないかと考えています。

 

会社に入ってから思ったのは、人間は生きる意味を外部に依存したくて、依存したがりで、「自分のプロフェッショナルとしてのプライド」を維持するために、仕事人であり続けようとしているのではないか、ということです。

 

その認識を前提にして考えると、おそらく、機械(正確には機械+少数の人間チーム)が人間より正確で早いアウトプットをするようになったとしても、元からその仕事に従事していた多くの人間は、自分ですべてをやることを止めようとはしないだろうと思うし、その新システムの導入コストがあまりにも安価になりうる場合、人間の人件費より安くさせないような圧がかかるのではないかという印象があります。

 

効率化、効率化、そう唱える人自身にも、人によってはその裏に、(抜本的なシステムの変更を伴わない範疇での適切なサイズの)効率化という意味を含んでいることを知りました。

 

私はそもそも効率化ということに疑問を持っており、資本主義(なのにセーフティネットがろくに機能してないこのシステム)に懐疑的だったり、自分の身を滅ぼすようなことばかりを理想化する人たちの言動が不思議でしたが、おそらく「本音と建前は違う」ということを、無意識下で行ったうえでそのように言動し、完全な無自覚下で別の行動をしているのでしょう。

 

だからどうというわけではないのですが、しいて言えば私はとても働きたくない大変少数派の側の人間だったのだなぁ……ということを改めて自覚できた点は非常に貴重な経験だったとは思います。

正気とは

週に一回~二回ぐらいずつ正気に返っている気がするのだけれど、

その時以外の自分はまあまあ給与所得者として社会適合している感じがする。

 

しかし、ふと、冷静になって考えてみると、やはり自分は流されているだけなように感じるのだ。

うすうす感じていたことではあるけれど、業種や労働内容がどうであれ、自分にとってはこの期に及んでも無条件に「(給与労働者として)働くことは尊いことだ」という価値観は身につかなかったし、正気になると、「じつにくだらないことのために毎日エネルギーを消費しているなあ」という気になるのだ。内省すると、要するにそういうことである。

 

自分にはもっと価値があって、エネルギーを割くべき対象、そしてその対象のほうが世間的にも多分価値はあり、要するに今労働としてエネルギーを割いている対象より、よりよいアウトプットであることも確かで、もうこれは確証に近いものがあり、しかし現実の僕の身体は、目の前の瑣末なことに拘束されて準備も前進もアウトプットもままならない。

 

正気じゃないときは、「金銭的に購買される」とか、要するに「売れる」とか、「今すぐの目先の利益が出る」とか、「人から感謝される」とか「社会的地位がある」とか「肩書き」とか、そういうことにだってそれなりの意味と価値観を見出すような気分になることはできるけれど、

正気に返るとそういうのは心底どうでもいいなと思うわけです。

冷静に考えると仕事(人に従事する労働)したくない

ふと冷静になるといつも思うのですけれども、冷静に考えると仕事(人に従事する労働)したくないなって思います。

やめたいんですけど以前本当に(労働者として)働いてなかった時に収入がなさすぎて心身の不調が本当に出ていたので、それは避けたくはあるんですよね。

生存したくないわけではないんですけど収入を得る行為を本当にしたくなくて、心の底から働きたくないのです。

冷静になってないときとか、忙しさや何かで頭が体感的に2~6割ぐらいしか働いていなくてぼやっとしている時はそういうふうには思わないんですけれども、冷静になれる時間が生じてから数時間経つと、「あれ、何をやってるんだろうな、自分は」となるわけです。

人間社会のシステムに、心の底から合わないなと思います。

無題

10代の頃は、成人式前後を乗り越えられなかったら普通に自殺では?とは思ってたんですけど、思ってたより自分が非常に頑固だったというか、「これは譲らないぞ」という防衛ラインが思ってたよりはっきりとしてたので思ったよりその機会には恵まれませんでしたね。という感じです。

 

多分普通の多数派とは全く戦ってる対象が違って、「何でそんなこと気に病むんだ」みたいな内向的な青年期の課題と自分だけが向き合ってきた時期が長くて、大変遺憾なことに、ああ、大変遺憾なことに、あの時期はたいへんだったんだな、自分は。と。

 

あまりにも大変だったからか、今全く持って恵まれてる?からかすっかり忘れてしまっていたけど、じゃあ次の節目で見えてくるのは30代なのだけれど、今の僕にとっての、「30代だよ…どうすんだ…」 みたいな悩み?に関しては、すごくすごく回りの人と同じようなことを考えてるなって。10年かけてかなり普通な人になったんだな。

 

まあ、そういう例もあるので、若い皆様、頑張ってください。