荷内思考開発所

ありがちなことばでありがちなことものを考えてみる

無駄ではない、多分。

自分の行動によって未来は変わるのかと言えば、先人の行動によって変えられた現在の恩恵を何重にも受けている身としては、やはり自分の行動によって未来はいい方向に変えられるのだと思う。

例えば僕が、(僕の分野では)現代日本では若者の夢を支援する機構がないね、という事実を実際に経験・確認してみたわけだけれど、それ自体が無駄なのかと言えば、決して未来の後進の人に向けては無駄ではないのだと思う。

僕が僕だといっても社会から排除されることがないということ自体が先人の努力の結果であるわけだし、これ自体が多分当たり前なことではないのだ、と。

退職エントリを書こうとしたんですが、後半人工知能と認知の話になってます。

二月下旬に、勤務していた映像制作会社を辞めました。

 

バズ狙いの退職エントリみたいなものを書きつつ記事の下のほうに今後の個人事業(受注業)のリンクでも貼って誘導でもしようかと、小賢しいことを思った時期もあるのですが、気乗りがしないのでやめました。

 

また、どういう体質の会社で何が合わなくてどうして辞めたのか、そういったことを匿名ながらそれらしく記事で書こうかとも思っていた時期もあるのですが、一週間たってほとぼりも冷めたのか、わざわざそういったことを掘り返して書くほどのものでもないな、と具体的なことはあまり書かない方向で本記事を書いております。

 

辞めてからわかったのは、みるみる頭の中の薄ぼんやりとした思考が晴れ、(なかば鬱めいた)物忘れや凡ミスの頻度が低下し、霧が晴れたように「元通りの」クリアな思考とネットワーク的な思考判断回路が戻ってきました。ちなみに残金は大変なことになっており、現在の将来の展望は……客観的には安定した未来があるとは言いがたい形になります。

 

AIの台頭が言われておりますが、まずそれらによって問題となってくるのは、「人間としての尊厳」との折衝であるのではないか、というのが自分の中で浮かび上がってきました。

「働きたくない」と心の底から思っている人はあまり多くないのではないか、ということを思ったのです。

 

先に私の思考の先に行き着いた(ひとまずの)結論を述べさせていただきますと、私はおそらく生命体である人類に最後に残される仕事は「判断すること」であると思っております。

 

これはアニメーションや制作の過程で機械、つまり、プログラミングどおりに動く計算機を使っている身として体感的に感じるのですが、デジタル技法としての連続する映像や、それを切り出した静止画の生成に関しては機械は非常に忠実にこなします。

機械=アルゴリズムというものは、うまく入力してやればきちんとベクター線をベクター線として認識し、それを別のところに新規のベクター線として出力することが出来ます。もちろん、ピクセル化された色情報についてもそうですし、ある種の固定の関係性を持った構造体をブロックとして認知し再配置することも出来ます。

 

ざっくりいえば、お手本となる構造体関係を読み込ませて、お手本となる構造体の関係を別の要素で差し替えたようなものを生成することは機械に可能であるということです。

しかし、それは機械がすべて描いた作品なのかと言えば、それは違います。なぜなら、人間がそのように描くように指示して生成した絵だからです。機械の自発的な動機にもとづく絵の生成でも、主体的な判断による美意識の発露の結果でもありません。それらは、数多あるお手本にしうる画像の中から、具体的にお手本となる画像を「選んだ」人間側が持ち合わせていたものです。

 

もちろん、全くの無から機械が自発的な判断の元、独自の学習によって生成された知覚体系に基づいた画像を生成することは可能ですが、それが(多くの)人間が(人間が描いたものと同様であるという観点から)好ましいと認知する段階にはまだ時期は至っていないのだろうと思われるのです。

 

それは、機械側の性能限界というよりも、人間の人間に対する認知の研究解明がまだ進みきっていないことに原因があるのだろうとみています。

 

というのも、人間の好ましいと感じる認知と、機械が認識した構造体の関係性の間に、(まだ人間自身が言語化して性格に認知をしてこなかった)微細なずれがあったとします。

それを、人間は「違和感」として感じたり、「あまり好ましくないもの」という感情早期させられたりして、明晰な言語化的な認知とは別のプロセスで検知する性能のよさのようなものを持っているように感じます。しかし、人間が明確に解っている認知の部分だけで構成された「機械が判断するためのアルゴリズム」には、その「違和感」を認知する機構が欠落しています。なので、機械の部分単体だけで、人間が心の底から安心できるようなものは完成し得ない(ことが多い)のではないかと思います。芸術にしろ、社会システムのデザインにしろ、食事にせよ。

 

そこで、登場するのが、「人間の(明確化されていない)判断力」です。機械が出力した大まかなプロトタイプを、人間の感覚で「判断し」、人間好みに「調整する」役が必要になってくるのではないかと思っております。

必要になってくるというよりは、数多ある仕事のうち、最後に人間のために残される、「人間ではないとできない」仕事として残されてくる、といいますか。

 

先述のとおり、人間はまだ自分の感覚を完全に数値化して記述できるほど理解しきっていませんから、この部分の再現はまだ難しいのだろうと思います。

そういういみで、このあたりの人間の勘周りの話が、人類に残された、機械にとって代替不能な最後の仕事として残るのではないかと思っております。(しかし、後述するようにこれはあくまで原理的な意味での側面に留まります。)

 

他の仕事に関して、どう考えているかと言いますと、コストの関係、生きる意味との折衝関係、をのぞけば基本的に機械的なもので代替は可能ではないかと考えています。

 

会社に入ってから思ったのは、人間は生きる意味を外部に依存したくて、依存したがりで、「自分のプロフェッショナルとしてのプライド」を維持するために、仕事人であり続けようとしているのではないか、ということです。

 

その認識を前提にして考えると、おそらく、機械(正確には機械+少数の人間チーム)が人間より正確で早いアウトプットをするようになったとしても、元からその仕事に従事していた多くの人間は、自分ですべてをやることを止めようとはしないだろうと思うし、その新システムの導入コストがあまりにも安価になりうる場合、人間の人件費より安くさせないような圧がかかるのではないかという印象があります。

 

効率化、効率化、そう唱える人自身にも、人によってはその裏に、(抜本的なシステムの変更を伴わない範疇での適切なサイズの)効率化という意味を含んでいることを知りました。

 

私はそもそも効率化ということに疑問を持っており、資本主義(なのにセーフティネットがろくに機能してないこのシステム)に懐疑的だったり、自分の身を滅ぼすようなことばかりを理想化する人たちの言動が不思議でしたが、おそらく「本音と建前は違う」ということを、無意識下で行ったうえでそのように言動し、完全な無自覚下で別の行動をしているのでしょう。

 

だからどうというわけではないのですが、しいて言えば私はとても働きたくない大変少数派の側の人間だったのだなぁ……ということを改めて自覚できた点は非常に貴重な経験だったとは思います。

正気とは

週に一回~二回ぐらいずつ正気に返っている気がするのだけれど、

その時以外の自分はまあまあ給与所得者として社会適合している感じがする。

 

しかし、ふと、冷静になって考えてみると、やはり自分は流されているだけなように感じるのだ。

うすうす感じていたことではあるけれど、業種や労働内容がどうであれ、自分にとってはこの期に及んでも無条件に「(給与労働者として)働くことは尊いことだ」という価値観は身につかなかったし、正気になると、「じつにくだらないことのために毎日エネルギーを消費しているなあ」という気になるのだ。内省すると、要するにそういうことである。

 

自分にはもっと価値があって、エネルギーを割くべき対象、そしてその対象のほうが世間的にも多分価値はあり、要するに今労働としてエネルギーを割いている対象より、よりよいアウトプットであることも確かで、もうこれは確証に近いものがあり、しかし現実の僕の身体は、目の前の瑣末なことに拘束されて準備も前進もアウトプットもままならない。

 

正気じゃないときは、「金銭的に購買される」とか、要するに「売れる」とか、「今すぐの目先の利益が出る」とか、「人から感謝される」とか「社会的地位がある」とか「肩書き」とか、そういうことにだってそれなりの意味と価値観を見出すような気分になることはできるけれど、

正気に返るとそういうのは心底どうでもいいなと思うわけです。

冷静に考えると仕事(人に従事する労働)したくない

ふと冷静になるといつも思うのですけれども、冷静に考えると仕事(人に従事する労働)したくないなって思います。

やめたいんですけど以前本当に(労働者として)働いてなかった時に収入がなさすぎて心身の不調が本当に出ていたので、それは避けたくはあるんですよね。

生存したくないわけではないんですけど収入を得る行為を本当にしたくなくて、心の底から働きたくないのです。

冷静になってないときとか、忙しさや何かで頭が体感的に2~6割ぐらいしか働いていなくてぼやっとしている時はそういうふうには思わないんですけれども、冷静になれる時間が生じてから数時間経つと、「あれ、何をやってるんだろうな、自分は」となるわけです。

人間社会のシステムに、心の底から合わないなと思います。

無題

10代の頃は、成人式前後を乗り越えられなかったら普通に自殺では?とは思ってたんですけど、思ってたより自分が非常に頑固だったというか、「これは譲らないぞ」という防衛ラインが思ってたよりはっきりとしてたので思ったよりその機会には恵まれませんでしたね。という感じです。

 

多分普通の多数派とは全く戦ってる対象が違って、「何でそんなこと気に病むんだ」みたいな内向的な青年期の課題と自分だけが向き合ってきた時期が長くて、大変遺憾なことに、ああ、大変遺憾なことに、あの時期はたいへんだったんだな、自分は。と。

 

あまりにも大変だったからか、今全く持って恵まれてる?からかすっかり忘れてしまっていたけど、じゃあ次の節目で見えてくるのは30代なのだけれど、今の僕にとっての、「30代だよ…どうすんだ…」 みたいな悩み?に関しては、すごくすごく回りの人と同じようなことを考えてるなって。10年かけてかなり普通な人になったんだな。

 

まあ、そういう例もあるので、若い皆様、頑張ってください。

漫画や小説、映画などの表現物のタイトルの具体性によって、その世界観の広がりの上限が決定されるという話。

作中世界の広さとタイトルについて

世間にある漫画や小説、映画のタイトルを大まかにみていくと 世界観の狭さから順に

1. 具体的行動を文章で書くもの  てきとう例「ゴスロリメイド宇宙人が俺の部屋(まいるーむ)に居候を始めた件」

2. 登場人物がタイトル名になるもの  てきとう例「レンの刃(やいば)」

3. 具体的な固有名詞でテーマがわかるもの  てきとう例「ゆるバスケ」

4. 雰囲気や作中のキーとなるアイデアを伝えるタイトル  てきとう例「0-9(ゼロキュウ)」

大まかにこの4種類に大別されてるように見えてます。 そして、情報が具体的なほど、初見の人に中身の情報が伝わりやすい。

タイトルの情報は多いほうが興味のない人の購入欲をそそるものの、タイトルがあまりに具体的だと作中の内容が縛られる自体が起きます。 主人公名をタイトルにすると、主人公が途中で入れ替わることが難しくなります。

(※この辺、島耕作は作中内容の変化に従って、課長になったり部長になったり社長になったりすることでタイトルの方を変更することで乗り越えてますね)

 

個人的には、あまりにも具体的過ぎるタイトルは作品の質自体を軽視しているようにも見受けられるのですが、それはあくまで個人的な主観の範疇の話ですので、あまり一般化するような話でもないかと思います。

 

まあタイトルって思ったよりメタ的な意味で情報量をもっているんですねー、みたいなことを考えました、みたいな話です。

 
 
 
 
 

人間と仕事。「人」の「間」と「仕」える「事」。そして資本主義への敗北。

人間と仕事。「人」の「間」と「仕」える「事」。そして資本主義への敗北。

 

抽象的な話をしよう。見果てぬ夢の先には何もなかった。

今はそんな気分である。

 

よく、お金になる活動はそれ以外に比べて「価値がある」といった趣旨の主張を見かける。なんなら自分自身がそれを信奉していた時期だってあった。

なぜそれらに「価値がある」と感じていたかといえば、それは他者からの存在承認に直結するからであったように感じる。

経済力があるというのは、この資本主義において、切符のようなものである。

切符を持っている人間は(有限である)時間という資源をどう使うかにおいて選択の自由があるし、切符を持っていない人間はその時間を売ってその場に生きながらえる権利を得るのだ。

だからお金が欲しかった。

逆にいえば自分にとっての社会参画の欲求の動機はそれだけである。

 

「(人間の集団の情報伝達の行き違いなどに関して、)効率を考えると無駄なことを決行しているので、その無駄はカットしてより効率的に動くべき」という意見を見かける。

自分自身を振り返ってみても、若い頃はそう思っていた時期もあった。

今の自分の考えでは、それはそういうことではなく、人間の本質というのがその「無駄」な部分そのものだと思うのだ。

 

―人間は個体単体では存在(生存)できず、人の間にあってはじめて存在ができる。

―人間集団の限りある資源の分配には、仕事をする、ということが必要で、仕事というのは(他の)人に、仕えることである。決して自分のために何かをすることではない。

逆にいえば、(他の)人に仕えてさえいれば、内容自体はなんでもいい。

 

そういう点で、日本語における「人間」「仕事」という名前は非常に本質をついたネーミングをしているように感じる。

 

一つ目の、『―人間は個体単体では存在(生存)できず――』という文面に関しては、人間はもう野生の存在ではないので、人間社会の中でしか(生命的な)生存が困難だ、ぐらいの意味のつもりである。要するに準備もなしに野山に放り出されたら死ぬという話で、直感的に伝わりやすい内容かと思うのでこれ以上踏み込まなくてもよいかと思う。

 

二つ目の、これ『―人間集団の限りある資源の分配には、仕事をする、ということが必要で、仕事というのは(他の)人に、仕えることである。決して自分のために何かをすることではない。逆にいえば、(他の)人に仕えてさえいれば、内容自体はなんでもいい。』に関して、こちらについて少し補足しようと思う。

 

先に結論をいってしまえば、人間社会というものは人が他人(ひと)に仕える「そのこと自体」に価値が発生する仕組みになっている。

(もしかしたら秘境のどこかの文化圏では違うのかもしれないが、少なくともこの21世紀に於いて、資本主義を導入しておりスーツを纏うのが慣習になっている文化圏では、だいたいそうだとみなして差し支えがないような大枠の共通認識だと、(今現在の私は)考えている。

(そのあたりの認識に関しては、今後また新たな知見を得ると共に変わっていくかもしれない可能性は、ある。))

 

他人のために何かをする、というムーヴそれ自体に価値があるのだから、逆にいえば、他人のために何もしようとせず、自分のために自分の身体・精神資源を使う人間は仕事をしていないとみなされる。どんな内容であっても、だ。

 

「絶対的な価値というのはそんな人の気分で変わるようなものではない」

「だから無駄を省くべき」

 

そうだろうか。

 

食料を作る一次産業やインフラ産業は、人の生存に直結するから、生命の存続という観点からすると非常に価値がある事業だろう。

しかし、大半の人間がそういった産業についているわけではない。

だいたいの人が、誰かを助ける(便利にする)ために自分の身体・精神資源の一部を譲って(身を粉にして)何か(ほかでもないなにか)をしている。

サービス産業の存在価値は何か。なくても人間社会という集団を構成する個人は生きながらえることが出来る。ただ、あると、ちょっと便利だったり、ユーザー目線に立てばちょっと面白かったりする。ただ、ユーザー目線じゃなくて提供側目線に立つと、まあまあ面倒臭かったり、大変だったりすることがある。感情労働だってあったりする。ようするに、めんどうくさい。それに見合った評価や報酬を得たい。というより、報酬でもなければやっていられない。そうだ、これに仕事と名をつけて、一日の多くの時間と自分の身体・精神資源の一部を注ぎ込むに足る「価値のある」名目のものにしよう。そうだ、自分は「価値のある」仕事をして、その対価として「経済力(資源を手に入れる資格)」や「肩書き(人間界における序列の中の相対的順位)」を得るのだ。

 

……仕事は!立派だ!

 

 

前回書いたように、富の再分配という観点に立てば、すべての経済産業が等しく「価値のある」ものだ。再分配をする、ということは、人間集団の中に序列をつけ、資源を優先的に割り振るということである。つまり、それは、「順位をつける」ということと同義である。

 

私はお金が欲しいが、何でお金が欲しいのかといえば、それしか自分のために自分で仕える権利を買う方法が思いつかないからである。

自分のために自分で仕える権利を買うために、集団の中の序列でそれなりの階層に行かなければ行けないし、多分そのために努力する。

自分としては、そんな「無駄な努力」はしたいわけではないし、わざわざ他人のふりをして権利を買うまでもなく、自分の身体・精神資源を自分の企画に使いたいのだけれど、多分そういう仕組みが見当たらないのは、あまりそういうことを欲している人は多くないということなのだろうと思う。

 

 

自分は、他者からの承認そのものを渇望する価値感が欠けている。

だからこそ見えるものがあるのだけれど、

承認されて嬉しいと思う価値観は、内に秘めていたほうが、たぶんこの社会では生き易い。ように、みえる。

 

なぜ、そこまでして当たり前のようにそれらを求めるのか自分にはわからないのだけれど、そういうものに魅力を感じて、渇望し、努力する人間の方が「生き易い」ようにこの社会はデザインされている。

 

困ったことに、野生に一人放り出されても自分というヒト個体は生きられそうにない。一ヶ月…下手したら一週間も持たないうちにのたれ死ぬだろう。

だから自分にとっても、この人類集団を生存させるためという動機(※おそらく)で組み上げられた人間社会というもののどこかに居場所を置かせてもらうしか生存する方法はないというのは自明だと思うのだけれど、やはりこの社会のありようが、どうも、

いけ好かない

 

 

(要するに自分がクライアントになって自分に発注をだして自分に作業をさせて納品させて企画を完遂させたいわけなのですが、その初動が全く持って上手くいってないのでそもそも自分に発注したい人間の絶対数があまりいないのではないかという気がしたのが、このように思い至ったきっかけになります。)