荷内思考開発所

ありがちなことばでありがちなことものを考えてみる

冷静に考えると仕事(人に従事する労働)したくない

ふと冷静になるといつも思うのですけれども、冷静に考えると仕事(人に従事する労働)したくないなって思います。

やめたいんですけど以前本当に(労働者として)働いてなかった時に収入がなさすぎて心身の不調が本当に出ていたので、それは避けたくはあるんですよね。

生存したくないわけではないんですけど収入を得る行為を本当にしたくなくて、心の底から働きたくないのです。

冷静になってないときとか、忙しさや何かで頭が体感的に2~6割ぐらいしか働いていなくてぼやっとしている時はそういうふうには思わないんですけれども、冷静になれる時間が生じてから数時間経つと、「あれ、何をやってるんだろうな、自分は」となるわけです。

人間社会のシステムに、心の底から合わないなと思います。

無題

10代の頃は、成人式前後を乗り越えられなかったら普通に自殺では?とは思ってたんですけど、思ってたより自分が非常に頑固だったというか、「これは譲らないぞ」という防衛ラインが思ってたよりはっきりとしてたので思ったよりその機会には恵まれませんでしたね。という感じです。

 

多分普通の多数派とは全く戦ってる対象が違って、「何でそんなこと気に病むんだ」みたいな内向的な青年期の課題と自分だけが向き合ってきた時期が長くて、大変遺憾なことに、ああ、大変遺憾なことに、あの時期はたいへんだったんだな、自分は。と。

 

あまりにも大変だったからか、今全く持って恵まれてる?からかすっかり忘れてしまっていたけど、じゃあ次の節目で見えてくるのは30代なのだけれど、今の僕にとっての、「30代だよ…どうすんだ…」 みたいな悩み?に関しては、すごくすごく回りの人と同じようなことを考えてるなって。10年かけてかなり普通な人になったんだな。

 

まあ、そういう例もあるので、若い皆様、頑張ってください。

漫画や小説、映画などの表現物のタイトルの具体性によって、その世界観の広がりの上限が決定されるという話。

作中世界の広さとタイトルについて

世間にある漫画や小説、映画のタイトルを大まかにみていくと 世界観の狭さから順に

1. 具体的行動を文章で書くもの  てきとう例「ゴスロリメイド宇宙人が俺の部屋(まいるーむ)に居候を始めた件」

2. 登場人物がタイトル名になるもの  てきとう例「レンの刃(やいば)」

3. 具体的な固有名詞でテーマがわかるもの  てきとう例「ゆるバスケ」

4. 雰囲気や作中のキーとなるアイデアを伝えるタイトル  てきとう例「0-9(ゼロキュウ)」

大まかにこの4種類に大別されてるように見えてます。 そして、情報が具体的なほど、初見の人に中身の情報が伝わりやすい。

タイトルの情報は多いほうが興味のない人の購入欲をそそるものの、タイトルがあまりに具体的だと作中の内容が縛られる自体が起きます。 主人公名をタイトルにすると、主人公が途中で入れ替わることが難しくなります。

(※この辺、島耕作は作中内容の変化に従って、課長になったり部長になったり社長になったりすることでタイトルの方を変更することで乗り越えてますね)

 

個人的には、あまりにも具体的過ぎるタイトルは作品の質自体を軽視しているようにも見受けられるのですが、それはあくまで個人的な主観の範疇の話ですので、あまり一般化するような話でもないかと思います。

 

まあタイトルって思ったよりメタ的な意味で情報量をもっているんですねー、みたいなことを考えました、みたいな話です。

 
 
 
 
 

人間と仕事。「人」の「間」と「仕」える「事」。そして資本主義への敗北。

人間と仕事。「人」の「間」と「仕」える「事」。そして資本主義への敗北。

 

抽象的な話をしよう。見果てぬ夢の先には何もなかった。

今はそんな気分である。

 

よく、お金になる活動はそれ以外に比べて「価値がある」といった趣旨の主張を見かける。なんなら自分自身がそれを信奉していた時期だってあった。

なぜそれらに「価値がある」と感じていたかといえば、それは他者からの存在承認に直結するからであったように感じる。

経済力があるというのは、この資本主義において、切符のようなものである。

切符を持っている人間は(有限である)時間という資源をどう使うかにおいて選択の自由があるし、切符を持っていない人間はその時間を売ってその場に生きながらえる権利を得るのだ。

だからお金が欲しかった。

逆にいえば自分にとっての社会参画の欲求の動機はそれだけである。

 

「(人間の集団の情報伝達の行き違いなどに関して、)効率を考えると無駄なことを決行しているので、その無駄はカットしてより効率的に動くべき」という意見を見かける。

自分自身を振り返ってみても、若い頃はそう思っていた時期もあった。

今の自分の考えでは、それはそういうことではなく、人間の本質というのがその「無駄」な部分そのものだと思うのだ。

 

―人間は個体単体では存在(生存)できず、人の間にあってはじめて存在ができる。

―人間集団の限りある資源の分配には、仕事をする、ということが必要で、仕事というのは(他の)人に、仕えることである。決して自分のために何かをすることではない。

逆にいえば、(他の)人に仕えてさえいれば、内容自体はなんでもいい。

 

そういう点で、日本語における「人間」「仕事」という名前は非常に本質をついたネーミングをしているように感じる。

 

一つ目の、『―人間は個体単体では存在(生存)できず――』という文面に関しては、人間はもう野生の存在ではないので、人間社会の中でしか(生命的な)生存が困難だ、ぐらいの意味のつもりである。要するに準備もなしに野山に放り出されたら死ぬという話で、直感的に伝わりやすい内容かと思うのでこれ以上踏み込まなくてもよいかと思う。

 

二つ目の、これ『―人間集団の限りある資源の分配には、仕事をする、ということが必要で、仕事というのは(他の)人に、仕えることである。決して自分のために何かをすることではない。逆にいえば、(他の)人に仕えてさえいれば、内容自体はなんでもいい。』に関して、こちらについて少し補足しようと思う。

 

先に結論をいってしまえば、人間社会というものは人が他人(ひと)に仕える「そのこと自体」に価値が発生する仕組みになっている。

(もしかしたら秘境のどこかの文化圏では違うのかもしれないが、少なくともこの21世紀に於いて、資本主義を導入しておりスーツを纏うのが慣習になっている文化圏では、だいたいそうだとみなして差し支えがないような大枠の共通認識だと、(今現在の私は)考えている。

(そのあたりの認識に関しては、今後また新たな知見を得ると共に変わっていくかもしれない可能性は、ある。))

 

他人のために何かをする、というムーヴそれ自体に価値があるのだから、逆にいえば、他人のために何もしようとせず、自分のために自分の身体・精神資源を使う人間は仕事をしていないとみなされる。どんな内容であっても、だ。

 

「絶対的な価値というのはそんな人の気分で変わるようなものではない」

「だから無駄を省くべき」

 

そうだろうか。

 

食料を作る一次産業やインフラ産業は、人の生存に直結するから、生命の存続という観点からすると非常に価値がある事業だろう。

しかし、大半の人間がそういった産業についているわけではない。

だいたいの人が、誰かを助ける(便利にする)ために自分の身体・精神資源の一部を譲って(身を粉にして)何か(ほかでもないなにか)をしている。

サービス産業の存在価値は何か。なくても人間社会という集団を構成する個人は生きながらえることが出来る。ただ、あると、ちょっと便利だったり、ユーザー目線に立てばちょっと面白かったりする。ただ、ユーザー目線じゃなくて提供側目線に立つと、まあまあ面倒臭かったり、大変だったりすることがある。感情労働だってあったりする。ようするに、めんどうくさい。それに見合った評価や報酬を得たい。というより、報酬でもなければやっていられない。そうだ、これに仕事と名をつけて、一日の多くの時間と自分の身体・精神資源の一部を注ぎ込むに足る「価値のある」名目のものにしよう。そうだ、自分は「価値のある」仕事をして、その対価として「経済力(資源を手に入れる資格)」や「肩書き(人間界における序列の中の相対的順位)」を得るのだ。

 

……仕事は!立派だ!

 

 

前回書いたように、富の再分配という観点に立てば、すべての経済産業が等しく「価値のある」ものだ。再分配をする、ということは、人間集団の中に序列をつけ、資源を優先的に割り振るということである。つまり、それは、「順位をつける」ということと同義である。

 

私はお金が欲しいが、何でお金が欲しいのかといえば、それしか自分のために自分で仕える権利を買う方法が思いつかないからである。

自分のために自分で仕える権利を買うために、集団の中の序列でそれなりの階層に行かなければ行けないし、多分そのために努力する。

自分としては、そんな「無駄な努力」はしたいわけではないし、わざわざ他人のふりをして権利を買うまでもなく、自分の身体・精神資源を自分の企画に使いたいのだけれど、多分そういう仕組みが見当たらないのは、あまりそういうことを欲している人は多くないということなのだろうと思う。

 

 

自分は、他者からの承認そのものを渇望する価値感が欠けている。

だからこそ見えるものがあるのだけれど、

承認されて嬉しいと思う価値観は、内に秘めていたほうが、たぶんこの社会では生き易い。ように、みえる。

 

なぜ、そこまでして当たり前のようにそれらを求めるのか自分にはわからないのだけれど、そういうものに魅力を感じて、渇望し、努力する人間の方が「生き易い」ようにこの社会はデザインされている。

 

困ったことに、野生に一人放り出されても自分というヒト個体は生きられそうにない。一ヶ月…下手したら一週間も持たないうちにのたれ死ぬだろう。

だから自分にとっても、この人類集団を生存させるためという動機(※おそらく)で組み上げられた人間社会というもののどこかに居場所を置かせてもらうしか生存する方法はないというのは自明だと思うのだけれど、やはりこの社会のありようが、どうも、

いけ好かない

 

 

(要するに自分がクライアントになって自分に発注をだして自分に作業をさせて納品させて企画を完遂させたいわけなのですが、その初動が全く持って上手くいってないのでそもそも自分に発注したい人間の絶対数があまりいないのではないかという気がしたのが、このように思い至ったきっかけになります。)

 

 

天賦人権論とは

天賦人権論とは生産力の過剰だと考えています。

ちゃんと言葉を使うとすれば、「人類の生産力の総体が人間集団を維持するのに充分であり、基本的に余裕のある状態」だからこそ、成立する思想かな、と思うのです。

私たち21世紀の人間は、四大文明の形成後に生まれ、さらに中世、近世、産業革命のあとに生まれているはずですから、生まれつき文明がそこにあって「人間だけを相手にしていけば充分食べていける状態」が当たり前のように感じてしまうのでしょうけれど、一生物の集団としてみればそれは決して当たり前のことではないんですよね。

 

たまに人為的な飢餓状態みたいなのを起している節はあるものの、基本的に人間はその余力で文明やら豊かさやら、そして「皆本質的に平等で尊重されるべき」という思想をベースにしているだけなのかなというふうに見えます。

 

沈没船から脱出する客の優先順位の暗黙の共通認識があるように、人間集団が危機に瀕した時にはその「平等さ」が担保される保証はありません。つまり、より守るべき人間、と危険の矢面に立たせてもいい、あるいは、切り捨ててしまっても「しょうがない」人間の優先順位というのも、暗黙のうちに存在してしまっているようにも見えます。

なぜならまだ人間は生物であることを完璧に脱却できているわけではありませんから。

全員が生き残ることが出来ないものの一部の人間だけ生き残れる可能性があるタイプの危機に瀕した時、「全員滅んでしまってもいい」と本当にいえるのだろうか、という話です。

 

この世界はいまのところ充分な生産性があるという前提の元、天賦人権論という基本ルールを元に人間社会は構築されているという前提がありますから、それをベースに考えると、ある提案Aが正しい事になるかもしれません。しかし、そもそもその天賦人権論自体の前提自体が揺らいでいて危機回避(したいという欲求)を前提に提案Bを提示している集団がいるかもしれません。

もしかしたらそちらのBを提示する集団はAの集団と異なる経済基盤や「生存基盤」の上に生きていて、そもそも彼らはAを提示する集団ほどの余裕がないのかもしれない。そういう可能性がある場合、AとBの提案としての対立は、「意見の対立」ではなくて、そもそもの住んでいる人間集団の違いとそれに付随する現実的な解決策(解)の差異である可能性だってありうるかもしれません。

まあ可能性ですけれども。
歩み寄りや理解、それでは本質的な解決につながらないことも世の中にはあるかもしれません。

とはいえここでは、かもしれません論にとどめておきます。

まあ功利主義プラグマティズム)とかあのへんの場でさんざん議論された話かもしれません。(車輪の再発明かもしれませんが、車輪をみたことがない砂漠の中で車輪を構築すること自体は無意味なことだとも思いません。)

 

なんかこんなブログじゃなくて普通に作品の中で描いたほうが面白いことなきがしてきた…。ただ描くべきテーマも描きかけの作品もネームも一杯ありすぎるので、一応いつになるかわからないのでここに書き残しておくことにします。

二十前の自分へ

そろそろ二十代後半になって大人と呼んでもいい年齢の大人に差し掛かってきたので、過去の自分が思っていたことと現実で得た経験を照らし合わせて答え合わせのようなものを書いてみようと思う。

 

変わってないこと

 

1)世界はクソだ。というか僕という存在と世界という存在は対立する。 → その通りだ。現状僕を取り巻く世界の本質はなにも変わっちゃいない。思ったよりも、思ったよりも、全然。だ。

 

2)世界を牛耳る力でも得ない限りやっぱり僕の本質は世界と拮抗しうる。 → 残念ながら現状は世界を牛耳る力なんて微塵も手に入れちゃいないし何度もシャカイから遁走して迷走した。そして僕がぼんやりしている間に僕の本質を暗い闇に呑みこもうとする「悪気ない」「善意の」社会はなにもかわっちゃいないし、悲しいことにそれに身をすり潰して社会の型に合わせるようにいまだ僕は毎日要求されている側面がある。

 

3)僕は好きなこともやりたいことも出来ずいまだ燻っている → 同じく今現状燻っている

 

4)自己と自我を捨ててまで社会になじまなければいけない未来があるとしたら僕は自殺するべきだろうか。 → 残念ながら自己と自我を刷り合わせて生きるようにいまだ社会は要求してくるが、それに関しては、近いうち自己と自我の存在を世間に認めさせることが出来るであろう機会は来るだろうとは思っている。

 

思っていたよりクソだったこと

 

5)君はまだ知らなかっただろうが、多分24~25歳ぐらいかな、世界の支配構造とか軍産複合体とかそういうのの「現実の」構造に気付く。まあ、だからといってどうというわけじゃないんだけれども。思ったより社会っていうのは子供の小競り合いみたいな側面のあるもので、っていう。

 

6)まったくもって現状燻っている。さっきも書いたような気がするけど。

 

7)人に気に入られなければ生存できないという社会構造は本当だったと言うことが実証されつつある。しかし自分は本質的に異端(少なくともここの人間の人格を考慮せず、社会維持のためのシステムの構成員と考えた場合、自分自身の自己の核となるもの自体がエラー要素にあたる)なので、わかりやすく表面的な部分で人から気に入られることを目的とするならば、「自己を抹消してしまう」のがもっとも手っ取り早く確実な手段だ。まあつまるところ「僕に」そういうことを要求してくるこの社会のそういう側面に関しては「個人的な感想としては」実にクソだ!ということにしている。

 

驚いたこと

 

8)大人になったらつまらない人間になってしまうという畏怖 → 残念ながら君の中二病は何一つ変わっちゃいない。おめでとう。安心しろ。

あと想像力とかそういうのも大して変わってない。おめでとう。

 

よかったこと

 

9)絵が上手くなる。というか、絵で表現することを諦めないで自分の世界観を絵で表現することが可能なレベルだ。当時の自分からすると想像もできないぐらい。

 

10)君、自分で思ってたより全然体力ある。根性ある。その恵まれた身体能力には感謝してもいいぐらいだ。少なくとも同タイプの人類というカテゴリの中でははっきりいって飛びぬけて頑健な部類で、より「頑健なタイプの人類」と同じ基準の競争社会で自分の分野に関しては全然やっていけるタイプの身体能力を持ち合わせていることが判った。それは僥倖だ。

 

11)僕の書いたお話は面白い。それは自分だけの思い込みではなかったようだ、ということもわかりつつある。あと安定して何作も書ける。

 

12)能力的な意味で貴方に向いている適性のある仕事や職業自体は普通にあることがわかった。ただし、自分の場合は、自己の本質の根幹的な部分に、上記のような「シャカイと噛みあわせが悪い」側面があるためにどんな立ち居地になろうともこの社会で生きている限りは完全に心から満足した状態にはなりえない、ということもわかりつつありました。

(※念のため発達障害等ではないです)

 

 

ま、そんなかんじですねー。

まあ、なんていうか、決して悪いことばかりではなかったんですけど、「このままでは内面が溶け出して自己として死んでしまう」というのが創作意欲を駆り立てているような気はするような現状、でしたあ。