荷内思考開発所

ありがちなことばでありがちなことものを考えてみる

人間と仕事。「人」の「間」と「仕」える「事」。そして資本主義への敗北。

人間と仕事。「人」の「間」と「仕」える「事」。そして資本主義への敗北。

 

抽象的な話をしよう。見果てぬ夢の先には何もなかった。

今はそんな気分である。

 

よく、お金になる活動はそれ以外に比べて「価値がある」といった趣旨の主張を見かける。なんなら自分自身がそれを信奉していた時期だってあった。

なぜそれらに「価値がある」と感じていたかといえば、それは他者からの存在承認に直結するからであったように感じる。

経済力があるというのは、この資本主義において、切符のようなものである。

切符を持っている人間は(有限である)時間という資源をどう使うかにおいて選択の自由があるし、切符を持っていない人間はその時間を売ってその場に生きながらえる権利を得るのだ。

だからお金が欲しかった。

逆にいえば自分にとっての社会参画の欲求の動機はそれだけである。

 

「(人間の集団の情報伝達の行き違いなどに関して、)効率を考えると無駄なことを決行しているので、その無駄はカットしてより効率的に動くべき」という意見を見かける。

自分自身を振り返ってみても、若い頃はそう思っていた時期もあった。

今の自分の考えでは、それはそういうことではなく、人間の本質というのがその「無駄」な部分そのものだと思うのだ。

 

―人間は個体単体では存在(生存)できず、人の間にあってはじめて存在ができる。

―人間集団の限りある資源の分配には、仕事をする、ということが必要で、仕事というのは(他の)人に、仕えることである。決して自分のために何かをすることではない。

逆にいえば、(他の)人に仕えてさえいれば、内容自体はなんでもいい。

 

そういう点で、日本語における「人間」「仕事」という名前は非常に本質をついたネーミングをしているように感じる。

 

一つ目の、『―人間は個体単体では存在(生存)できず――』という文面に関しては、人間はもう野生の存在ではないので、人間社会の中でしか(生命的な)生存が困難だ、ぐらいの意味のつもりである。要するに準備もなしに野山に放り出されたら死ぬという話で、直感的に伝わりやすい内容かと思うのでこれ以上踏み込まなくてもよいかと思う。

 

二つ目の、これ『―人間集団の限りある資源の分配には、仕事をする、ということが必要で、仕事というのは(他の)人に、仕えることである。決して自分のために何かをすることではない。逆にいえば、(他の)人に仕えてさえいれば、内容自体はなんでもいい。』に関して、こちらについて少し補足しようと思う。

 

先に結論をいってしまえば、人間社会というものは人が他人(ひと)に仕える「そのこと自体」に価値が発生する仕組みになっている。

(もしかしたら秘境のどこかの文化圏では違うのかもしれないが、少なくともこの21世紀に於いて、資本主義を導入しておりスーツを纏うのが慣習になっている文化圏では、だいたいそうだとみなして差し支えがないような大枠の共通認識だと、(今現在の私は)考えている。

(そのあたりの認識に関しては、今後また新たな知見を得ると共に変わっていくかもしれない可能性は、ある。))

 

他人のために何かをする、というムーヴそれ自体に価値があるのだから、逆にいえば、他人のために何もしようとせず、自分のために自分の身体・精神資源を使う人間は仕事をしていないとみなされる。どんな内容であっても、だ。

 

「絶対的な価値というのはそんな人の気分で変わるようなものではない」

「だから無駄を省くべき」

 

そうだろうか。

 

食料を作る一次産業やインフラ産業は、人の生存に直結するから、生命の存続という観点からすると非常に価値がある事業だろう。

しかし、大半の人間がそういった産業についているわけではない。

だいたいの人が、誰かを助ける(便利にする)ために自分の身体・精神資源の一部を譲って(身を粉にして)何か(ほかでもないなにか)をしている。

サービス産業の存在価値は何か。なくても人間社会という集団を構成する個人は生きながらえることが出来る。ただ、あると、ちょっと便利だったり、ユーザー目線に立てばちょっと面白かったりする。ただ、ユーザー目線じゃなくて提供側目線に立つと、まあまあ面倒臭かったり、大変だったりすることがある。感情労働だってあったりする。ようするに、めんどうくさい。それに見合った評価や報酬を得たい。というより、報酬でもなければやっていられない。そうだ、これに仕事と名をつけて、一日の多くの時間と自分の身体・精神資源の一部を注ぎ込むに足る「価値のある」名目のものにしよう。そうだ、自分は「価値のある」仕事をして、その対価として「経済力(資源を手に入れる資格)」や「肩書き(人間界における序列の中の相対的順位)」を得るのだ。

 

……仕事は!立派だ!

 

 

前回書いたように、富の再分配という観点に立てば、すべての経済産業が等しく「価値のある」ものだ。再分配をする、ということは、人間集団の中に序列をつけ、資源を優先的に割り振るということである。つまり、それは、「順位をつける」ということと同義である。

 

私はお金が欲しいが、何でお金が欲しいのかといえば、それしか自分のために自分で仕える権利を買う方法が思いつかないからである。

自分のために自分で仕える権利を買うために、集団の中の序列でそれなりの階層に行かなければ行けないし、多分そのために努力する。

自分としては、そんな「無駄な努力」はしたいわけではないし、わざわざ他人のふりをして権利を買うまでもなく、自分の身体・精神資源を自分の企画に使いたいのだけれど、多分そういう仕組みが見当たらないのは、あまりそういうことを欲している人は多くないということなのだろうと思う。

 

 

自分は、他者からの承認そのものを渇望する価値感が欠けている。

だからこそ見えるものがあるのだけれど、

承認されて嬉しいと思う価値観は、内に秘めていたほうが、たぶんこの社会では生き易い。ように、みえる。

 

なぜ、そこまでして当たり前のようにそれらを求めるのか自分にはわからないのだけれど、そういうものに魅力を感じて、渇望し、努力する人間の方が「生き易い」ようにこの社会はデザインされている。

 

困ったことに、野生に一人放り出されても自分というヒト個体は生きられそうにない。一ヶ月…下手したら一週間も持たないうちにのたれ死ぬだろう。

だから自分にとっても、この人類集団を生存させるためという動機(※おそらく)で組み上げられた人間社会というもののどこかに居場所を置かせてもらうしか生存する方法はないというのは自明だと思うのだけれど、やはりこの社会のありようが、どうも、

いけ好かない

 

 

(要するに自分がクライアントになって自分に発注をだして自分に作業をさせて納品させて企画を完遂させたいわけなのですが、その初動が全く持って上手くいってないのでそもそも自分に発注したい人間の絶対数があまりいないのではないかという気がしたのが、このように思い至ったきっかけになります。)

 

 

天賦人権論とは

天賦人権論とは生産力の過剰だと考えています。

ちゃんと言葉を使うとすれば、「人類の生産力の総体が人間集団を維持するのに充分であり、基本的に余裕のある状態」だからこそ、成立する思想かな、と思うのです。

私たち21世紀の人間は、四大文明の形成後に生まれ、さらに中世、近世、産業革命のあとに生まれているはずですから、生まれつき文明がそこにあって「人間だけを相手にしていけば充分食べていける状態」が当たり前のように感じてしまうのでしょうけれど、一生物の集団としてみればそれは決して当たり前のことではないんですよね。

 

たまに人為的な飢餓状態みたいなのを起している節はあるものの、基本的に人間はその余力で文明やら豊かさやら、そして「皆本質的に平等で尊重されるべき」という思想をベースにしているだけなのかなというふうに見えます。

 

沈没船から脱出する客の優先順位の暗黙の共通認識があるように、人間集団が危機に瀕した時にはその「平等さ」が担保される保証はありません。つまり、より守るべき人間、と危険の矢面に立たせてもいい、あるいは、切り捨ててしまっても「しょうがない」人間の優先順位というのも、暗黙のうちに存在してしまっているようにも見えます。

なぜならまだ人間は生物であることを完璧に脱却できているわけではありませんから。

全員が生き残ることが出来ないものの一部の人間だけ生き残れる可能性があるタイプの危機に瀕した時、「全員滅んでしまってもいい」と本当にいえるのだろうか、という話です。

 

この世界はいまのところ充分な生産性があるという前提の元、天賦人権論という基本ルールを元に人間社会は構築されているという前提がありますから、それをベースに考えると、ある提案Aが正しい事になるかもしれません。しかし、そもそもその天賦人権論自体の前提自体が揺らいでいて危機回避(したいという欲求)を前提に提案Bを提示している集団がいるかもしれません。

もしかしたらそちらのBを提示する集団はAの集団と異なる経済基盤や「生存基盤」の上に生きていて、そもそも彼らはAを提示する集団ほどの余裕がないのかもしれない。そういう可能性がある場合、AとBの提案としての対立は、「意見の対立」ではなくて、そもそもの住んでいる人間集団の違いとそれに付随する現実的な解決策(解)の差異である可能性だってありうるかもしれません。

まあ可能性ですけれども。
歩み寄りや理解、それでは本質的な解決につながらないことも世の中にはあるかもしれません。

とはいえここでは、かもしれません論にとどめておきます。

まあ功利主義プラグマティズム)とかあのへんの場でさんざん議論された話かもしれません。(車輪の再発明かもしれませんが、車輪をみたことがない砂漠の中で車輪を構築すること自体は無意味なことだとも思いません。)

 

なんかこんなブログじゃなくて普通に作品の中で描いたほうが面白いことなきがしてきた…。ただ描くべきテーマも描きかけの作品もネームも一杯ありすぎるので、一応いつになるかわからないのでここに書き残しておくことにします。

二十前の自分へ

そろそろ二十代後半になって大人と呼んでもいい年齢の大人に差し掛かってきたので、過去の自分が思っていたことと現実で得た経験を照らし合わせて答え合わせのようなものを書いてみようと思う。

 

変わってないこと

 

1)世界はクソだ。というか僕という存在と世界という存在は対立する。 → その通りだ。現状僕を取り巻く世界の本質はなにも変わっちゃいない。思ったよりも、思ったよりも、全然。だ。

 

2)世界を牛耳る力でも得ない限りやっぱり僕の本質は世界と拮抗しうる。 → 残念ながら現状は世界を牛耳る力なんて微塵も手に入れちゃいないし何度もシャカイから遁走して迷走した。そして僕がぼんやりしている間に僕の本質を暗い闇に呑みこもうとする「悪気ない」「善意の」社会はなにもかわっちゃいないし、悲しいことにそれに身をすり潰して社会の型に合わせるようにいまだ僕は毎日要求されている側面がある。

 

3)僕は好きなこともやりたいことも出来ずいまだ燻っている → 同じく今現状燻っている

 

4)自己と自我を捨ててまで社会になじまなければいけない未来があるとしたら僕は自殺するべきだろうか。 → 残念ながら自己と自我を刷り合わせて生きるようにいまだ社会は要求してくるが、それに関しては、近いうち自己と自我の存在を世間に認めさせることが出来るであろう機会は来るだろうとは思っている。

 

思っていたよりクソだったこと

 

5)君はまだ知らなかっただろうが、多分24~25歳ぐらいかな、世界の支配構造とか軍産複合体とかそういうのの「現実の」構造に気付く。まあ、だからといってどうというわけじゃないんだけれども。思ったより社会っていうのは子供の小競り合いみたいな側面のあるもので、っていう。

 

6)まったくもって現状燻っている。さっきも書いたような気がするけど。

 

7)人に気に入られなければ生存できないという社会構造は本当だったと言うことが実証されつつある。しかし自分は本質的に異端(少なくともここの人間の人格を考慮せず、社会維持のためのシステムの構成員と考えた場合、自分自身の自己の核となるもの自体がエラー要素にあたる)なので、わかりやすく表面的な部分で人から気に入られることを目的とするならば、「自己を抹消してしまう」のがもっとも手っ取り早く確実な手段だ。まあつまるところ「僕に」そういうことを要求してくるこの社会のそういう側面に関しては「個人的な感想としては」実にクソだ!ということにしている。

 

驚いたこと

 

8)大人になったらつまらない人間になってしまうという畏怖 → 残念ながら君の中二病は何一つ変わっちゃいない。おめでとう。安心しろ。

あと想像力とかそういうのも大して変わってない。おめでとう。

 

よかったこと

 

9)絵が上手くなる。というか、絵で表現することを諦めないで自分の世界観を絵で表現することが可能なレベルだ。当時の自分からすると想像もできないぐらい。

 

10)君、自分で思ってたより全然体力ある。根性ある。その恵まれた身体能力には感謝してもいいぐらいだ。少なくとも同タイプの人類というカテゴリの中でははっきりいって飛びぬけて頑健な部類で、より「頑健なタイプの人類」と同じ基準の競争社会で自分の分野に関しては全然やっていけるタイプの身体能力を持ち合わせていることが判った。それは僥倖だ。

 

11)僕の書いたお話は面白い。それは自分だけの思い込みではなかったようだ、ということもわかりつつある。あと安定して何作も書ける。

 

12)能力的な意味で貴方に向いている適性のある仕事や職業自体は普通にあることがわかった。ただし、自分の場合は、自己の本質の根幹的な部分に、上記のような「シャカイと噛みあわせが悪い」側面があるためにどんな立ち居地になろうともこの社会で生きている限りは完全に心から満足した状態にはなりえない、ということもわかりつつありました。

(※念のため発達障害等ではないです)

 

 

ま、そんなかんじですねー。

まあ、なんていうか、決して悪いことばかりではなかったんですけど、「このままでは内面が溶け出して自己として死んでしまう」というのが創作意欲を駆り立てているような気はするような現状、でしたあ。

「それは甘え」という言葉にどんな意図があるのか。

社会人というか、とりあえず会社員というものになりました。一ヶ月弱というところでしょうか。

 

驚きました。

初週に、今まで使っていた靴が見たことのない履き潰れ方をしました。

二週目に、目が霞み、視力が急激に低下して焦りました。(元に戻しましたので大丈夫です)

三週目に生活リズムが壊れまして、四週目から薬にお世話になることになりました。

ちなみに希望業界のホワイト企業です。

 

自分では元々就労が向いていないとは半ば冗談のように行っていたものの、自分で思っていたよりはるかに労働が向いていないことを知って驚きました。

 

特に、目に関しては、元々一日8時間~12時間PCを見つづけて作業をする生活をしていたのでそう簡単に視力は下がらないだろうと思っていたのですが、その視力が一瞬で下がったことに驚きました。おそらく、制限時間があって作業内容が固定されている、からだと思います。

 

このような変化は自分にしか起こらないものなのでしょうか。それとも変化が起きているものの、変化に気付かないだけなんでしょうか?

しらぬまに人を傷つけている。

不特定多数の人が見る、そして人が多く集まる場で何かを、「公言」することは、知らぬ間に人を傷つけてしまうリスクを孕んだものでしょう。

 

スマートフォン等が普及し、誰でもコメントやSNSなどの発言をすることが容易になった現代でも、人間の認識はそう急に変われていないな、それが故の食い違いが発生しているな、という現象が垣間見れることがあります。

 

人間は長らく一人一人が接する人間の数を少なく抑えて生きてきた生き物です。つまり、大くの人にとって、インターネットが登場する前に人生で言葉を交わすような知り合いの数は数十人~せいぜい人生で数百人が関の山だったのではないでしょうか。

 

今、数百~数十万の人に自分の意見を表明して見せることが、非常に容易な時代になりましたね。あたらしいつながりによるメリットも発生するようになった一方、デメリットも顕在化してきました。

世の中にはいろんな人がいます。マイノリティ的な感覚を持っている人も、母数が大きくなれば非常に増えていきます。


母数が大きくなった場で、何かを発言する際に「私はこの発現によって誰一人傷つけてはいませんのでご安心を」と胸を張っていうことは、非常に困難なことになってきます。というより、原理的にかなり無理がある発言かと僕は感じるのです。

どういうことでしょうか?

たとえば、SNSでゴキブリの写真をシェアしたり、アイコンをゴキブリの画像にしたら、それは多くのゴキブリを嫌がる人を不快にさせる行為、じゃないですか。

このことに違和感を抱く人は多くはないはずかと思います。

 

しかし、これが、鳥の画像、例えば鳩の画像だったらどうでしょうか?

実は自身も最近知ったことなのですが、世の中には「鳥恐怖症」という恐怖症の方が結構いらっしゃるようなのですね。その方らの目からしたら、鳥の画像を誰でも目に付くところに掲載すること自体が、ゴキブリの画像に匹敵するハラスメントに映っているのではないか、と思ったのです。

今まで鳥の画像をシェアしたことがある人は、少なくとも彼らからしたらすでにハラッサーだということなのです。

今まで、「私の言動には問題がない」と信じてこられた皆様のうち、素敵なものだと思って鳥の画像の掲載や拡散に関与したことがある方は、ご自身がハラッサーだった自覚はおありですか?

……多分ないと思うんですよね。

 

自分も限りなく注意深く行動してきたつもりではあるんですが、やっぱり限界はあるな、と。僕は爬虫類が大好きですが、爬虫類に嫌悪感や恐怖を抱く人が多くいるのは存じ上げております。だからこそ、そのあたりは気をつけることが可能だったのですけれど、まさか「鳥」を、あのかわいらしく美しい「鳥を」、同様に嫌悪感や恐怖の対象としてみなしている人がそれなりの数でいることを、想定だにしておりませんでした。

自分は今まで、「加害した自覚」ありきで(爬虫類の絵などの)加害的な意思表明をしてきましたが、自分が思っているよりいろんなことについて「傷つく」「ダメージを受ける」人が多くいる、ということに驚きつつ、やはりこの世界は面白いなあ、と思います。

ちなみにそういう僕自身もなぜかこれだけは駄目、という生物種がいます。自分の場合はそれは(※censord1)なのですけど、ゴキブリではなく(※censord1)(や、ある種の(※censord2))のインターネット上の画像検索等で何の悪気もなく美しいものの象徴として(※censord1)とか(※censord2)が紛れ込んでるの、ほんとうにこれほんとうにしょうもないことなんですけど、「ビクゥ」っとなって、その瞬間のどに食べ物が通らなくなります。

自分自身こうなので、他の人にどうとか言える立場ではないのですが、
「お互い(命を取り合わない程度に)楽しく加害しあおうね!!」みたいなスローガンを表明したくなりますね。

これなんなんでしょうね。

※表記を(※censord)にしたのは、もし、万が一、何かの折に今後自分が多くの人を敵にまわすようなことがあった際、嫌がらせ等でその生物種の画像を送りつけられたらいやだな、と思ったからです。軽く自衛させて頂きました旨、ご了承くださいませ。

自死について。

音楽の海というのは不思議なところで、時折、暗に自死をほのめかすような歌詞を爽やかなサウンドに載せて語る曲に出会うことがある。

そういう時、自分は気付くようになったのだ。
『あ、この人は、本当の自殺衝動を、知っている』と。


物語や、メディアでは、自殺は重苦しいもの、苦渋の決断の末として、暗い閉塞感の象徴として語られがちであるが、それは多分きっと正しくない。

実際の自殺というのはとても軽やかで、身体を軽くするようなものなのかもしれない。

これは数年前のことであるけれど、道路の歩道橋を渡っていたときのことである。幅が広く、交通量の多い道路であった。ふっと、自分の頭にある突飛な考えがよぎった。

「ああ、ここから落ちてしまえばなんて爽やかなことなんだろう」
と、そう思ったことがある。

自分はそれまで真面目に自死と向き合ったことはなかったし、そんなことは「思いもしていなかった」。死を題材にした作品群を作ろうと暗中模索していた。その中には閉塞感による自死、みたいなものもあった。そういったシナリオも描いていたし、制作にも着手していた。

 

なにもわかっちゃいなかった。

 

私が現在制作しているアニメは、将来の閉塞感に苛まれて自殺未遂をする青年が主人公だが、そのシナリオを書いている当時は、そんなこと「わかりもしていなかった」。わかっていなかったからこそ、陰鬱に重く描いたし、彼の死を取り巻く空気はどんより濁っている。

 

あまりにも重く、タールの沼のように濁って、淀んで、まとわりついてきて、身体の自由を封じてくるからこそ、物語の中で、自死を「回避するべき象徴」として、何の疑いもなく描く事ができるのだ。

 

本当の自死のうちいくつかは、晴れやかで、苦渋の末の決断なんてことでもなんでもなく、顕在意識上では何の悩みもないように装われるなか、ふらっと道端の側溝に踏み外すように、唐突に、そして何のかなしみもなく、ふわっとした何もわからない心地のうちに、ぼんやりと無へと意識が停止するようなものなのだろう。

 

しかし、これがリアルな自殺者の心理の一つだったとしたら、自分は一作家として、リアルな自死衝動というものを物語の中で「描いてはいけない」という思いがある。

物語という影響力のある媒体の上で、恐怖や畏怖という抑止装置を取り去って死を描くのは、……その、「助長してしまう」恐れがありはしまいか?

とどのつまり、自戒である。

 

いや、考えすぎか。