制作動機:
よくわからない。けれども、創る。
制作動機:
よくわからない。けれども、創る。
社会人というか、とりあえず会社員というものになりました。一ヶ月弱というところでしょうか。
驚きました。
初週に、今まで使っていた靴が見たことのない履き潰れ方をしました。
二週目に、目が霞み、視力が急激に低下して焦りました。(元に戻しましたので大丈夫です)
三週目に生活リズムが壊れまして、四週目から薬にお世話になることになりました。
ちなみに希望業界のホワイト企業です。
自分では元々就労が向いていないとは半ば冗談のように行っていたものの、自分で思っていたよりはるかに労働が向いていないことを知って驚きました。
特に、目に関しては、元々一日8時間~12時間PCを見つづけて作業をする生活をしていたのでそう簡単に視力は下がらないだろうと思っていたのですが、その視力が一瞬で下がったことに驚きました。おそらく、制限時間があって作業内容が固定されている、からだと思います。
このような変化は自分にしか起こらないものなのでしょうか。それとも変化が起きているものの、変化に気付かないだけなんでしょうか?
不特定多数の人が見る、そして人が多く集まる場で何かを、「公言」することは、知らぬ間に人を傷つけてしまうリスクを孕んだものでしょう。
スマートフォン等が普及し、誰でもコメントやSNSなどの発言をすることが容易になった現代でも、人間の認識はそう急に変われていないな、それが故の食い違いが発生しているな、という現象が垣間見れることがあります。
人間は長らく一人一人が接する人間の数を少なく抑えて生きてきた生き物です。つまり、大くの人にとって、インターネットが登場する前に人生で言葉を交わすような知り合いの数は数十人~せいぜい人生で数百人が関の山だったのではないでしょうか。
今、数百~数十万の人に自分の意見を表明して見せることが、非常に容易な時代になりましたね。あたらしいつながりによるメリットも発生するようになった一方、デメリットも顕在化してきました。
世の中にはいろんな人がいます。マイノリティ的な感覚を持っている人も、母数が大きくなれば非常に増えていきます。
母数が大きくなった場で、何かを発言する際に「私はこの発現によって誰一人傷つけてはいませんのでご安心を」と胸を張っていうことは、非常に困難なことになってきます。というより、原理的にかなり無理がある発言かと僕は感じるのです。
どういうことでしょうか?
たとえば、SNSでゴキブリの写真をシェアしたり、アイコンをゴキブリの画像にしたら、それは多くのゴキブリを嫌がる人を不快にさせる行為、じゃないですか。
このことに違和感を抱く人は多くはないはずかと思います。
しかし、これが、鳥の画像、例えば鳩の画像だったらどうでしょうか?
実は自身も最近知ったことなのですが、世の中には「鳥恐怖症」という恐怖症の方が結構いらっしゃるようなのですね。その方らの目からしたら、鳥の画像を誰でも目に付くところに掲載すること自体が、ゴキブリの画像に匹敵するハラスメントに映っているのではないか、と思ったのです。
今まで鳥の画像をシェアしたことがある人は、少なくとも彼らからしたらすでにハラッサーだということなのです。
今まで、「私の言動には問題がない」と信じてこられた皆様のうち、素敵なものだと思って鳥の画像の掲載や拡散に関与したことがある方は、ご自身がハラッサーだった自覚はおありですか?
……多分ないと思うんですよね。
自分も限りなく注意深く行動してきたつもりではあるんですが、やっぱり限界はあるな、と。僕は爬虫類が大好きですが、爬虫類に嫌悪感や恐怖を抱く人が多くいるのは存じ上げております。だからこそ、そのあたりは気をつけることが可能だったのですけれど、まさか「鳥」を、あのかわいらしく美しい「鳥を」、同様に嫌悪感や恐怖の対象としてみなしている人がそれなりの数でいることを、想定だにしておりませんでした。
自分は今まで、「加害した自覚」ありきで(爬虫類の絵などの)加害的な意思表明をしてきましたが、自分が思っているよりいろんなことについて「傷つく」「ダメージを受ける」人が多くいる、ということに驚きつつ、やはりこの世界は面白いなあ、と思います。
ちなみにそういう僕自身もなぜかこれだけは駄目、という生物種がいます。自分の場合はそれは(※censord1)なのですけど、ゴキブリではなく(※censord1)(や、ある種の(※censord2))のインターネット上の画像検索等で何の悪気もなく美しいものの象徴として(※censord1)とか(※censord2)が紛れ込んでるの、ほんとうにこれほんとうにしょうもないことなんですけど、「ビクゥ」っとなって、その瞬間のどに食べ物が通らなくなります。
自分自身こうなので、他の人にどうとか言える立場ではないのですが、
「お互い(命を取り合わない程度に)楽しく加害しあおうね!!」みたいなスローガンを表明したくなりますね。
これなんなんでしょうね。
※表記を(※censord)にしたのは、もし、万が一、何かの折に今後自分が多くの人を敵にまわすようなことがあった際、嫌がらせ等でその生物種の画像を送りつけられたらいやだな、と思ったからです。軽く自衛させて頂きました旨、ご了承くださいませ。
音楽の海というのは不思議なところで、時折、暗に自死をほのめかすような歌詞を爽やかなサウンドに載せて語る曲に出会うことがある。
そういう時、自分は気付くようになったのだ。
『あ、この人は、本当の自殺衝動を、知っている』と。
物語や、メディアでは、自殺は重苦しいもの、苦渋の決断の末として、暗い閉塞感の象徴として語られがちであるが、それは多分きっと正しくない。
実際の自殺というのはとても軽やかで、身体を軽くするようなものなのかもしれない。
これは数年前のことであるけれど、道路の歩道橋を渡っていたときのことである。幅が広く、交通量の多い道路であった。ふっと、自分の頭にある突飛な考えがよぎった。
「ああ、ここから落ちてしまえばなんて爽やかなことなんだろう」
と、そう思ったことがある。
自分はそれまで真面目に自死と向き合ったことはなかったし、そんなことは「思いもしていなかった」。死を題材にした作品群を作ろうと暗中模索していた。その中には閉塞感による自死、みたいなものもあった。そういったシナリオも描いていたし、制作にも着手していた。
なにもわかっちゃいなかった。
私が現在制作しているアニメは、将来の閉塞感に苛まれて自殺未遂をする青年が主人公だが、そのシナリオを書いている当時は、そんなこと「わかりもしていなかった」。わかっていなかったからこそ、陰鬱に重く描いたし、彼の死を取り巻く空気はどんより濁っている。
あまりにも重く、タールの沼のように濁って、淀んで、まとわりついてきて、身体の自由を封じてくるからこそ、物語の中で、自死を「回避するべき象徴」として、何の疑いもなく描く事ができるのだ。
本当の自死のうちいくつかは、晴れやかで、苦渋の末の決断なんてことでもなんでもなく、顕在意識上では何の悩みもないように装われるなか、ふらっと道端の側溝に踏み外すように、唐突に、そして何のかなしみもなく、ふわっとした何もわからない心地のうちに、ぼんやりと無へと意識が停止するようなものなのだろう。
しかし、これがリアルな自殺者の心理の一つだったとしたら、自分は一作家として、リアルな自死衝動というものを物語の中で「描いてはいけない」という思いがある。
物語という影響力のある媒体の上で、恐怖や畏怖という抑止装置を取り去って死を描くのは、……その、「助長してしまう」恐れがありはしまいか?
とどのつまり、自戒である。
いや、考えすぎか。
ちょっとした田舎に住んでいる。
近くに川があるのは以前から知っていたが、実際に行ったことはなかったので、自転車で少しいってみることにした。
確か、川にはサイクリングロードが併設されていたはずだと思った。
むかう途中までは左右の往来を田舎の風景が過ぎていく。思っていたよりずっと心地のいい道だと思った。
そして、あるところで急に目の前がひらけたと思ったら、工業プラントがあった。
驚いた。このようなものがあったとは。
しかし、今回の目的は工業プラントではなく、サイクリングロードがあるような緑地のはずだったことを思い出した。そして、「これ以上先に進めない」。そう直感し、Uターンして戻った。
「もしかして、この先に緑地が併設されたような河原があるというのは思い込みで、もしかしたら部外者が、ましてや自転車に乗ってなど踏み入れないような工業地帯が続いているのかもしれない」
と、そして、「何て浅はかな思い込みをしていたのだろう」と思い、ただただUターンして戻ったのだ。
ただ、それだけの話である。
最近読んだ、「少女終末旅行」という漫画にて、主人公の少女らは行く先々で巨大な道の建造物に出会っていくのだけれども、そのとき少女たちは新しい風景を見るたびにもしかしてこんな感慨を抱いたこともあるのかな、とすこし想起した。
もちろん、横道にそれていけば、川の方へ出る道はいくらでもあったし、そうすることは可能だったけれど、その前に気力が折れてしまった。
これは非常に小規模で些細な出来事ではあるけれど、例として、
『見果てぬ夢の先には何もなかった。というのはこんな気分だろうか。』
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一回はずしたボタンを別のシャツにかけなおす作業をしている。
―数年前、既に着せられていたシャツからボタンをはずし、命綱をつけているかつけていないかすれすれのところで、空を跳んだ僕は、どうなったかといえば、一回はずしたはずのボタンを別の布にかけなおそうとしている。
跳んだ先の大空には、滞空できるほどの空中要塞や基地を作ることはできなかったし、そして、その跳んでいる下の闇の深淵は、僕が跳ぶ前に思っていたよりはるかに深く危険なものだとわかったけれど、とりあえず僕はその深淵に吞まれてはおらず、とりあえずはたぶんどこかへ着地する。
着地した先は前より環境が良くなっているといいが、いずれにせよ、数年のうちにちゃんと力をつけて自分なりの空中要塞を作ろうというのが当面の目標になるだろう。
これが二十代の半ば大半をかけて僕がようやく握り掴んだ僕にとっての真実であり、ひとまずは深淵の闇に墜ちなかった自分のそれを肯定的に受け止めようとは思う。