荷内思考開発所

ありがちなことばでありがちなことものを考えてみる

自死について。

音楽の海というのは不思議なところで、時折、暗に自死をほのめかすような歌詞を爽やかなサウンドに載せて語る曲に出会うことがある。

そういう時、自分は気付くようになったのだ。
『あ、この人は、本当の自殺衝動を、知っている』と。


物語や、メディアでは、自殺は重苦しいもの、苦渋の決断の末として、暗い閉塞感の象徴として語られがちであるが、それは多分きっと正しくない。

実際の自殺というのはとても軽やかで、身体を軽くするようなものなのかもしれない。

これは数年前のことであるけれど、道路の歩道橋を渡っていたときのことである。幅が広く、交通量の多い道路であった。ふっと、自分の頭にある突飛な考えがよぎった。

「ああ、ここから落ちてしまえばなんて爽やかなことなんだろう」
と、そう思ったことがある。

自分はそれまで真面目に自死と向き合ったことはなかったし、そんなことは「思いもしていなかった」。死を題材にした作品群を作ろうと暗中模索していた。その中には閉塞感による自死、みたいなものもあった。そういったシナリオも描いていたし、制作にも着手していた。

 

なにもわかっちゃいなかった。

 

私が現在制作しているアニメは、将来の閉塞感に苛まれて自殺未遂をする青年が主人公だが、そのシナリオを書いている当時は、そんなこと「わかりもしていなかった」。わかっていなかったからこそ、陰鬱に重く描いたし、彼の死を取り巻く空気はどんより濁っている。

 

あまりにも重く、タールの沼のように濁って、淀んで、まとわりついてきて、身体の自由を封じてくるからこそ、物語の中で、自死を「回避するべき象徴」として、何の疑いもなく描く事ができるのだ。

 

本当の自死のうちいくつかは、晴れやかで、苦渋の末の決断なんてことでもなんでもなく、顕在意識上では何の悩みもないように装われるなか、ふらっと道端の側溝に踏み外すように、唐突に、そして何のかなしみもなく、ふわっとした何もわからない心地のうちに、ぼんやりと無へと意識が停止するようなものなのだろう。

 

しかし、これがリアルな自殺者の心理の一つだったとしたら、自分は一作家として、リアルな自死衝動というものを物語の中で「描いてはいけない」という思いがある。

物語という影響力のある媒体の上で、恐怖や畏怖という抑止装置を取り去って死を描くのは、……その、「助長してしまう」恐れがありはしまいか?

とどのつまり、自戒である。

 

いや、考えすぎか。

 

見果てぬ夢の先には何もなかった。というのはこんな気分だろうか。

ちょっとした田舎に住んでいる。

近くに川があるのは以前から知っていたが、実際に行ったことはなかったので、自転車で少しいってみることにした。

確か、川にはサイクリングロードが併設されていたはずだと思った。

 

むかう途中までは左右の往来を田舎の風景が過ぎていく。思っていたよりずっと心地のいい道だと思った。

そして、あるところで急に目の前がひらけたと思ったら、工業プラントがあった。

 

驚いた。このようなものがあったとは。

しかし、今回の目的は工業プラントではなく、サイクリングロードがあるような緑地のはずだったことを思い出した。そして、「これ以上先に進めない」。そう直感し、Uターンして戻った。

「もしかして、この先に緑地が併設されたような河原があるというのは思い込みで、もしかしたら部外者が、ましてや自転車に乗ってなど踏み入れないような工業地帯が続いているのかもしれない」

と、そして、「何て浅はかな思い込みをしていたのだろう」と思い、ただただUターンして戻ったのだ。

ただ、それだけの話である。

 

最近読んだ、「少女終末旅行」という漫画にて、主人公の少女らは行く先々で巨大な道の建造物に出会っていくのだけれども、そのとき少女たちは新しい風景を見るたびにもしかしてこんな感慨を抱いたこともあるのかな、とすこし想起した。

 

もちろん、横道にそれていけば、川の方へ出る道はいくらでもあったし、そうすることは可能だったけれど、その前に気力が折れてしまった。

 

これは非常に小規模で些細な出来事ではあるけれど、例として、

『見果てぬ夢の先には何もなかった。というのはこんな気分だろうか。』

 

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一回はずしたボタンを別のシャツ(布)にかけなおす作業をしている。

一回はずしたボタンを別のシャツにかけなおす作業をしている。

 

―数年前、既に着せられていたシャツからボタンをはずし、命綱をつけているかつけていないかすれすれのところで、空を跳んだ僕は、どうなったかといえば、一回はずしたはずのボタンを別の布にかけなおそうとしている。

 

跳んだ先の大空には、滞空できるほどの空中要塞や基地を作ることはできなかったし、そして、その跳んでいる下の闇の深淵は、僕が跳ぶ前に思っていたよりはるかに深く危険なものだとわかったけれど、とりあえず僕はその深淵に吞まれてはおらず、とりあえずはたぶんどこかへ着地する。

 

着地した先は前より環境が良くなっているといいが、いずれにせよ、数年のうちにちゃんと力をつけて自分なりの空中要塞を作ろうというのが当面の目標になるだろう。

 

これが二十代の半ば大半をかけて僕がようやく握り掴んだ僕にとっての真実であり、ひとまずは深淵の闇に墜ちなかった自分のそれを肯定的に受け止めようとは思う。

割とショックな出来事 ー現代社会的応編ー

映像で粘ろうとアルバイトを探していた所、

採用面接は通ったのに、身元保証人が立てられないことで採用が取り消しになったのはわりとショックな出来事でした。

 

現代社会、うわー。

自分の作品を作っていると虚無に飲まれそうになる。

一人パソコンに齧りついてただひたすら線を引き、自分のアニメを作っていると虚無に飲まれそうになる。

 

―そういう不思議な感想を抱いて、思ったのです。

それ、自分が長年望んでいたことじゃないか、と。

 

誰からも必要とされない、まだ誰も知らない作品を作ることをしていると、

 

経済価値も何もまだ発生しておらず、

こんな意味のないことに時間をかけるな、労力をかけるな、もっと「有益

なことをしろ」、という内なる声に潰されそうに、

周りの聞こえぬ声、見えぬ圧力、にすぐ屈しそうになるのですが、

そりゃあね、そうだよ。

 

だって君自身しか知らないんだもの、本当の価値を。

 

君に、ひとかけら足りないのは「自分の、自分だけの感想を信じきって行動に移す」その信念じゃないかな。

テーマ作文書いたので貼っておきます。

『科学の魅力』というお題のテーマ作文を書く機会があったので、ブログの方にも公開しますね。

 

科学は、誰かが提唱した概念を、別の誰かに継承することができる装置である。

 

つまり、新たに誰かが提唱した新概念が、科学的思考の範囲内で説明がつけられる概念であれば、その概念を提唱した本人以外にも共有させることができるのだ。
これはすごいことである。

なぜなら、概念自体をそっくり他者と共有できれば、提唱者以外の人間が、その新概念をベースに、次の段階のより高次の概念について、考察を行うことが可能になるからである。

 

二千余年の歴史の中で過去の学者たちが生涯をかけて体得した知見や概念は多岐にわたるが、科学的思考の範囲内で説明ができるものであれば、これらをすべて自分の思考の出発点として利用していい、ということなのだ。

それはすごいことである。

 

例を挙げよう。

21世紀を生きる我々は、地球が球体であり、昼と夜の違いが空に輝く太陽と地球との位置関係の違いに過ぎないことを「知って」いる。人々の中には影の位置から綿密に計算し、自らその結論を導きだしたアリストテレスのような猛者もいるかもしれない。しかし、それは例外中の例外であり、多くの人は子供の頃にそう教わったからそう信じているか、あるいはそれを導くための「計算」という過去の誰かが発明した納得方法を「教えてもらって」、それをなぞって納得しているにすぎない。

 

しかし、それなのに、我々は無意識のうちに、「地球が丸い」ことを思考の大前提にしてしまっている。アリストテレスが壮年期に到達した考え方を、現代人の小学生はみんな共有しているのだ。そう、科学という手法を借りれば、後世の我々は、ずっと、ずっと先に行ける。

科学的思考というものを人類が初めて発明した時、人類の知の蓄積速度は飛躍的に速くなったことだろう。

多数の人間を一度に巨人の肩の上に立たせることが出来、視点を共有することができるのが、科学の醍醐味の一つであり、この点は評価すべきであろう。

雑考

以前ならブログか何かに文章でまとめていたであろう様々なことの感想を、どこにも表明しなくなってから久しく経ちました。

 

それでいいと思ってはいたんですが、人間の忘却力はなかなかのもので、自分も例外でなかったようです。
以前自分が何を考えていたかすら、どんどん忘れていくということに気付いたので、ブログを再開しようかなあ…と考えてはいます。

 

以前だったら、「軽いノリのエンタメを作っている側の人間が、こういう調子なのは如何なものか…」と思って、公私混同しないように踏みとどまろうとはしていたんですけれど、そういうところを含めて自分だよなあ…と思うので、平常運転のノリでの執筆に戻ろうかなあ…と思っている次第ではあります。