荷内思考開発所

ありがちなことばでありがちなことものを考えてみる

何のために創作をしているのかを最近ずっと考え続けている。 

子供の頃は、(ただ学校の授業が退屈だからと)何も考えずに、

青年期の頃は、ただこれが僕に出来る「発言」手段だからと、

そうやって物語を作り続けてきたわけですが、

今、いわゆる大人といわれる年齢になって、今まで揺るいだことがなかった、「何のために創作をしているのか」という部分に初めての迷いが生じているのです。

かれこれ二十余年にわたり、長年試行錯誤しているだけありまして、それなりに価値があるであろう面白い物語、多数の人の心に刺さるであろうシナリオと生き生きとして魅力的なキャラクター、そういうものが客観的にもよいものが作れるようになりました。多分二十を過ぎてからのことです。プロの漫画編集者さんからも「面白い」と担当についてもらったこともあり、(僕は漫画という媒体が自分にとってのベストな表現媒体だとは信じきれずなく、今は現場から離れておりますが、)自分が面白いと感じる漫画雑誌の編集者さんにも(100発100中の安定感ではないにせよ、)面白い素質があると認められていたことは確かだと思っております。

なので、ある程度の客観的自信等を持ち、今これから、アニメのクラウドファンディングを4月3日から行うことにしたのです。(kibidango というプラットフォームにて、ページ自体は3月31日~公開予定)



『雨上がりの虹』予告編PV(第0弾)
https://youtu.be/fcjtU_oClAU


漫画家(原作者)が直々に作画やBGMを作るアニメが面白くないわけがないですよね、って。

 

なので、その一点を根拠に、『とても面白い』から、皆さんの時間に見合ったエンタテイメントを提供します、ということで、
『僕の制作しているアニメの完成を応援してください/キャラクターたちのファンになってください』と皆さんに呼びかける段階にしたわけです。

しかし、いま、こうやって多くの不特定多数の人々に、『僕の作品の完成を応援してください』と呼びかける段階になって、
ふと何を目的に創作をしているのか僕の中の動機がよく判らなくなりました。

右を見たり左を見たり、誰の琴線にもっとも響いて欲しくて、どういったひとの興味を失わせないように、だとすると中庸な表現はどこまでか、、、みたいなことをちらちら気を配りながらやっているうち、僕自身いったい何をどうしたいのかがはっきりとしたこれだという指針が、どうにもぐらついてきてしまいまして。

 

この作品、アニメ『雨上がりの虹』シリーズは、最初から一貫したテーマとして、主人公らと同年代(20代前半)までの『若い青年』に一番みてもらいたいアニメだな、というのはあるんです。
ただ、このアニメが一番響くであろう高校生~大学生の人たちって、お金を稼いでいる年代ではないので、今回のようなクラウドファンディングで呼びかける相手にはなりにくいというところが迷走している点の一つでありまして。

どちらかといえば学生の彼らには懐を痛めずに安価で楽しんでもらって、彼らのバイト代なりなんなりは、かけがえのない部活動なり交際費なりに使って欲しいなあ…と思うんですよね。個人的に。

だとすると、そうではなく、技術面(過去記事:

実は、完全新発想による新技術を用いたアニメを作っていました。 - 荷内思考開発所

参照)を強調してガジェット好きの非アニメファンまでアピールする先を広げたほうがいいのか、
それとも、(たまたま今回の主人公が若い男性二人なので)もっと女性に向けてアピールする方向にしたほうがいいのか、しかし、そういう雰囲気にしすぎると、それ以外の人からは逆に遠ざけられてしまうんではないか、案外大丈夫なのか、自分自身はそのつもりで作ったわけではないのにそういうパッケージにすることに抵抗はないのか、のか、のか、、、等

考えれば考えるほどきりがなくなってくるのです。

そして。

僕は一体何がやりたかったんだっけ。

 

中庸で中庸であればあるほど、熱さを忘れる。

熱いことを言うと、敵を作る、かもしれない。なにも言わなければ、僕の作品を気に入ってくれたかもしれない方に、みる前から信用を失い、そっぽを向かれるかもしれない。そうしたリスク。そうしたリスクに打ち勝てるほどの熱意のある熱い紅くみなぎった鉄の芯、そうしたものを、僕はいまだに持ちえていないな、って。

そう思うのです。

僕が自分を客観的には不利な状況に追い込みつつも創作している理由はただ一つ、『これが僕にとって僕の適性を最大限に生かした社会貢献手段だから』です。今まで身につけてきたスキルのうち、僕はやはり物語を作るのが飛びぬけて得意だった、それも、ハッピーエンドで楽しませるのがとても得意だった。だからそれを生かそうと思った。だから、漫画家か小説家か脚本家か映像作家あたりがもっとも適性があると思った。その中で、自分の得意分野を生かしつつ目をひきつつ新鮮なことが出来るのはどれかといえば、おそらくアニメ映像作家だろう、ということで、(今は)その表現に絞って、そこに精進していたわけです。

でもこれって完全に僕のほうの理由ですよね。
僕は僕がレベルアップしたいがために創作している?すばらしい映像を作れるっていいつつ完成品はこれから作る?それで「人はついてくるか?」

そう自答して、商業に徹しよう、「この作品を支援すればあなたにはこんなリターンとメリットがありますよ」と、商売人として頭を切り替えようと、そうしてきたんですが、自分で作ったものを、「商材」としてみてしまうと、そして、「商材」として切り刻んで広告パッケージを作るとなると、つい、切り刻んで再構築しても痛くも痒くもない素材であるかのように、遠くの目で一歩ひいて見てしまう自分がいます。自分にダメージが来ないように。
だって、自分で自分の作品を切り刻んで、っていうのは、たとえその整形後のみためがだいぶ客観的によくなろうとも、それってある種の自傷行為ですからね。別にやりたくてやるようなものではない。

作品が軌道に乗ってから、公開後ファンがついてから、「一緒に楽しもうぜ!」という視点で考えてある、ゆるふわ面白い企画やスピンオフはいっぱいあるんですよ。

ただ、最初に、軌道に乗るところまで、人の注目を集める、その能力が圧倒的に足りない。ていうかアピール下手、口下手なんです。だって今まではその部分を漫画なり作品なりが『語って』補ってくれていたから。

しかし、そろそろ僕は、「創作物以外の手段で『語る』という技術」を覚えなければならない、という局面に困ったことに差し掛かってきてしまったようです。

ブログや小説では饒舌なのは、やはりそれ自身が「作品」というフォーマットとして僕が認識しているからでしょう。なんであれ、それが「作品」であっていいのなら、僕はこのように、語ることが出来ます。しかし、それがビジネスでありプレゼンであり、という土俵になると、交渉ごとやメリットデメリット、その他の約束事や決まりごと、マナー、etc. がちらつき、「正しく客観的な物言い」しか出来なくなります。

一般的にはそれでいいんです。ただ、インターネットで出資を募る、クラウドファンディングSNSでのいい口では、その熱のないビジネスライクな物言いは、かならずしもメリットにもなりえない、というのもわかってきました。

そこで僕はわりと困っているのです。適度なレベルで「熱さ」を「自分」を表現することが出来ない、作品として何かを語ってしまうと、このように、ちょっと個性が出すぎてしまいます。そうすると、ちょっと、なんというか、不適切な感じがそれはそれでするんですよね…。

こう、適度な熱さを帯びつつ適度にビジネスライクな文章って、そのフォーマット自体は「嘘くさく」感じてしまうんですよ。『それ本気で思ってるの、思ってなくてもそんなこと口ではいくらでも書けるような…』って。

フォーマット自体が嘘くさくても、説得力をつける方法もありまして、それは「中から滲み出てくる熱意のほうが一貫して芯が通っている」場合です。
しかし、今回の場合は―――。 そこもちょっと揺らいで…。

といいつつも面の皮厚くここではスタンスを変えず書きつづけてみます所存です…

さいきん。

「『誰かのために』刺さることだけを目標として、創作なり熱い想いで作品を作り続けるにはちょっと互いに歳をとってしまいましたな。笑」

という内容を友人と話しておりました。

僕もそうだなあ、そうだよなあ、もっと熱い何かというよりは、落ち着いた何かを、創作の信念に据えなければなあ、とそのときは思ったわけです。

つまり、僕にとっての創作における青春年代というか、『誰かに届いて欲しい』とか、『この作品には人を救う力がある』とか、本気で思い込んでがむしゃらに進む年代は少しすぎてしまったのではないか、と。

そして、それでいいのだ、新しい指針を探そう、

……と思っていたんですけれどもね。

 

 

僕の好きな独特な歌詞を書くアーティスト(ミュージシャン)のライブに先日行ったとき、そういえば、『今までは自分のことばかり作品にこめていたけれど、前回のアルバムから、そうではなく、『ひとのために』作品を書くようになりました。』
って、言っていたことを思い出しました。いけいけしゃあしゃあと。

…そのとき僕はちょっと驚いたのです、あれ、キャラじゃなかったんだ。って。

この少人数のオマケでねじ込んだような小さなハコで、あえて言わなくてもいいような、他のミュージシャンのように、『ありがとうございます!』だけ言ってても何も問題ないような場所なのに、あえてそういうテンションにまでさげてそれをMCで言うほどのことなんだ、と言う感じですかね。

 

そこで、ところでその彼、詳細はわかりませんが僕より5~10歳ぐらい年上です。

そうなんですよ、ずっと年上なんですよ。

じゃあ上述のはなんだったんだろう……と、自問自答したわけです。

 

たしかに、一般的には、『熱さを失う』20代後半という年代だけれども、
でも、結局その僕が応援したいアーティスト自身は年齢関係なくやはり熱くて、
そして、僕が大きく区分して彼らと同じ『芸術』であり『エンターテイナー』という土俵に今後も立ち続けていたいのであれば、やはり僕は熱くあるべきなのではないか。

冷静に冷めてきたもう一人の自分、そいつがちょっと冷やかしはじめたとしても。
もう少し、もうちょっとだけ前へすすんだ馬鹿でいつづけてみようじゃないか。

…そういうものかもしれないな、と。

それでは。

アニメのクラウドファンディング前の周知活動の困難さについて

先日の記事でも述べた通り、僕が作っているのはアニメでした。

そこで、クラウドファンディングという手段で制作費を募ることにしたのですが、そのための事前準備が思っていたよりむずかしいな…というのが今のところの感想です。

とくに難航しているのが、「告知活動」というところでして、どうやったら効果的なのかがさっぱりわかりません。自分は作家側の人間なので、「面白いものを作ることが大事」と思うたちではありますが、それと同じぐらい「知ってもらう」のが大事なんだなあ。とさいきんよくわかるようになりました。…なるほど、以前は炎上商法というやり方を非常に不思議に感じていましたが、今の自分の状況をかんがみるに、そういった先人の「知ってもらうためには炎上商法も辞さない」というタイプのスタンスがいまようやく納得して理解できた気がします。まあ、私はやりませんが。

そして、どうして広告費があんなに高いのかも理解できるような気がしました。「知ってもらう」というのはそのまま「力」だからですね。

まあ、炎上商法する人のきもちが理解できるようになったという一点だけでも、クラウドファンディングをしようと決断し、その準備に取り組んでみたことは無駄ではなかったのかなあ……とは思います。まあ、おつりがくると嬉しいですけど。

 

あんまりブログとアニメ自体をつなぎたくはなかったんですけど、あまりにも注目が集められなさすぎて、そろそろそんなことを言っている余裕がなくなってまいりましたので、試しにツイッターアカウント貼っておきますね。
@Ameagari_twi です。よろしければ覗いてみてくださいね。

 

実は、完全新発想による新技術を用いたアニメを作っていました。

こんにちは。おひさしぶりです。

 

実は、僕が先日から述べていた挑戦というのは、自主開発したまったく新しい発想によるフルCGのアニメ制作のことだったのです。

 

大学院の専攻は、全く違う数値計算を用いた理学に値する分野でしたが、そのなか、進路を自主変更して、『アニメの革新的な新技法に関する技術開発』兼『そのプロモーションとしての個人制作の30分アニメ制作』を日々つとめているのですね。

 

自分で革新的な新技法っていっちゃうのはすごいな…と思われるかもしれないんですが、すごいんですよ。

すごいポイントは以下になります。
1)省エネ化 (アニメ作画にまつわるどの過程が省略されるかは秘密です)

2)アニメーションの熟練者ではなく、絵をある程度自在に描ける(=ストーリー漫画を違和感のない作画で描ききれる程度)のイラストレーターなら、アニメーション熟練者でなくとも誰でもそれなりの違和感のないぬるぬる動きを作れるようになります。つまり、アニメーターの裾野が広がります。

3)( 2)とも連動しますが、)いままで超絶技巧といわれた類の、カメラを自在に回しつつ、歩く/走る/日常動作などの複雑な動きを、作画を崩さずに比較的誰でも容易に作れるようになります。


この段階まで私の技術は完成していまして、すでに特許出願に向けて動き始めております。逆に言ってしまえば、特許出願を見据えているので具体的なことは審査が通るまで(安全のために)何も口に出すべきではないのですが、今ちょっと困っていることがありまして。


というのも、資金を何らかの形で集めようとし始めまして、まずは、資金規模が小さいアニメ制作という形で資金を集め、(そこで、余剰に集めた分をソフトウェアのプロトタイプ制作に宛て)ようとして動いているのですが、これがなかなか難しいくてですね…。

特許出願云々の面をうまくディフェンスするために、ほんとうは技法面には具体的に触れないに越したことはありません。
しかし、そこを伏せて、とりあえず技法に関して何もふれずに、『ただアニメを作っています』と、たとえば通りすぎた人に私のアニメのPVを見せてみますと、『ああ、よくみる普通のTVアニメみたいなアニメだね。』という感想を抱かれるだけで終わってしまうんですよね。本当は新技法なんだよ、って言いたくなってしまうんですが、言おうかどうか迷ってしまいます。

そこで、『実はこの量を一人で作ってるんですよ』というと、『ひとりで…!凄いね…!(すごい量を一人で作っているものだ…!)』みたいに、手描きや、白紙に一コマずつ描いていく従来技法のまま、ものすごい量を根性でこなした努力の人、のように捉えられ、ここで話が終わるんですよね。努力を評価してくださることは、それはそれでありがたいことではあるんですけれども、実のところ正確ではなく、だいぶパソコン作業による作業の省エネ化を行っております。この辺、具体的に言うと、自分の首を絞める(特許出願のアイデア的な意味で)だけなのであまり詳しくはいえないんですが、まあ、一枚一枚全部白紙から書き起こすよりははるかに省エネ化が出来ているのは事実です。
(ただ、省エネ化したところで、動き回る30分アニメを一人で作りきるのは大変なこと自体は事実です。このあたり、表現が難しいですね…)

つまり、何も言わないと普通のアニメに見えるようで、それはそれでCG特有の違和感がないようだ、という面では非常にありがたいことではあるんですが、
私が何も言わない限りは、本当に分からないみたいなんですよね。
その、「気付かれない」ということがいい風に働いているかどうかが、資金を集めようとしているにあたってまったく注目度を集めていない現状としては悩ましいところではあります。


あと、私はアニメーターの下積みはこなしておらず、数冊の技法書で独学したのみです。
従来だったらアニメーターは下積み何年…というレベルで、『頭の中の絵や動きを完璧な正確さで紙に書き落とせるほどの非常に卓越した作画力』を鍛錬する必要がありましたが、私の開発した技術では、そのあたりをすっ飛ばして、『普通にストーリー漫画を描ける程度の画力』があれば、多少の絵の不得手があっても充分になめらかにうごくTVアニメのようなアニメーションが作れるのですから、そういう意味でも私のアニメ技法はとても価値あるものかな、と思ってます。
つまり、裾野がとても広がるんですよね。

 

特許を完全に押さえて、デモンストレーションのためのプロトタイプソフトウエアを用意する段階までいけば、どこぞの研究室なり、私のいた大学の別の学科の研究室なりと連携してプロジェクトとして進めていけば画期的かなあ…いかようにもやり方はあるかなあ……と思うんですけど、今の段階ではなにぶんオープンに出来ないのが心苦しいところです…。

 

なので、『面白い30分アニメを作ります!』というところを最前面に出して、いまのところプロモーションしている方向なのですが、どんなにシナリオに自信があろうと、これはお金を集める手段として困難だろうなあ…ということが想像に難くないのです。(とはいえ、動いてみないことには何も分からないので、クラウドファンディングを行うことにはいたしましたが…)

 

まあ、プロモーションとしての30分アニメと表現してしまうと、まるでシナリオはどうでもいいかのような風に見えますが、もちろん個人的には私の作品はめちゃめちゃ面白いと思っていますよ。ただ、もちろんシナリオには好みがありますので…。
(……一応、諸条件により連載には至りませんでしたが複数の青年漫画誌で担当がついてたことがあるので、まあまあ面白い漫画はかける自負はあります。)

 

まあ、全体的に冗談みたいな経歴ですがほんとです。


そういえば、先日このような記事を見つけましたが、

www.itmedia.co.jp

可能性というよりは、私の技法としてはここで描かれているいくつかは実現済みです。

まあ、それは完全に正確な表現ではなく、私はディープラーニングによる制作の省エネ化をおこなったわけではありませんが。

……というのも、こちらの記事は、ディープラーニングを脅威にしているようですが、それは何段階も後の話で、『機械を用いてアニメのクリエイティブではない作業を代替させる』ことにおいて、最初からここまで話を飛躍させる必要はまったくありません。

自動着色等が最近はやっているようですが、あれは科学技術者側としては試みとしては純粋に面白いですが、クリエイター側としては、いきなり機械に、『何が正しいか』を判断させて、完成品をいきなり出力してもらう必要はないわけです。

私は、『何が正しいか』を、考え、判断することが、AI化時代に最後まで残される『人間特有の仕事』になると思っています。

まあ、これは私の考えであって、少々脱線いたしましたが、
つまり、今は段階として、『紙に一枚一枚動きをかいて人的リソースを駆使してパラパラ漫画を作っている』段階なのに、次の段階として、『設計図を描いて機械に読み込ませたら完成品が出力される』段階を想定するのは、ステップとして飛躍しすぎなのです。

これは、たとえば輸送手段の発達史で例えれば、人や驢馬が荷物を背負って輸送している完全にマンパワーの時代に、次の段階として車輪の発明をすっとばして、いきなりカーナビつきのガソリン車を想定しているようなものでしょう。

まあ、というわけで、私の革新的新技法というのは、もっと人工知能ともいえないような低級なアルゴリズムで、その驢馬とガソリン車の間を埋める、馬車や人力車ぐらいに値するようなものでしょうか。

それでも充分、(既存技法の代替勢力としての)馬力があるな、というのが私の感想です。

 

競合他社がいないのかといえば、いなくはないですが、海外ソフトが主流で、国産のソフトで同じ発想で開発している大手ソフトウエアはありません。(完全に同じ発想ではないですが、類似の発想による簡略化を想定した個人開発者さんはいらっしゃるようです。)



何でこんなことを急に言い出したかといいますと、実は3月から、こちら私の自作アニメの制作費(兼アニメ制作ソフトのプロトタイプ制作費)をクラウドファンディングしようと動き出しているのですが、私、いままで大学院にこもっており(しかも理学)、エンタメ業界の伝手があまりないため、びっくりするぐらい注目されてないんですよねー。

上記の通り、(私にお金が集まれば)アニメ制作ソフトウェアのプロトタイプを作りたいので、なるべくお金を集められた方が、多くの皆様にとってwin-winかなと思うんですが、このままでは、『無名クリエイターがなんか個人で頑張ってる企画』として、気付かれずにスルーされて終わりそうな気がしてます。まあ、そんな予感当たって欲しくはないですけど…。


ほんとはここは、クリエイターとしての自分とは距離を置いて、書きたい話題を気楽に書く場所にしておきたかったんですが、クリエイターとしての私は知名度が高いとは言えず、どうしたもんかなー、このままじゃ土俵に立てずに企画ぽしゃるしかないのかなー、せっかくいいもの(=新技法による国産のアニメソフト開発)つくりたいんだけどなー…という感じで、少々スタンスを変えてちょっとここに述べてみた形になります。


(プロモーションサイト?やSNSはありますが、まだここにつなぎたくはないですね…まだまだ、制作物とは切り離して好き勝手なことブログを書きたいですし…。
まあ、今後も注目度はあがらず注目ゼロだったらここにも紹介せざるをえなくなりますが… そうならないといいなあ……)

映画鑑賞日記 ①

映画鑑賞日記(防備録的メモ)です。続くかは未定。

 

◎イエスタデイ

 

yesterday-movie.com

ビートルズにあこがれたノルウェーの高校生たちの話。面白かったです。

 

 

 

◎レッドタートル

 

red-turtle.jp

 

台詞がないままシナリオをつづるというのはどういうことだろうという興味でみましたが、なるほど、作中の登場人物はきっと会話をしているけれども、それを場面展開と演技によって、台詞がないままに観客に理解させる、ということだったのですね。

ヨーロッパバンドデシネジブリの技術で再現するとこういうふうになるのか、という感じでした。

アニメーションの底力を感じました。

 

アニメーション『星の王子様と私』、もとても気に入ったので、フランスのアニメと感性が合うのかもしれません。まだあまり詳しくないですけど。

 

 

それでは。

ロボットになった自分

最近、自分から動かない限りは他者といっさい関わらなくてすむ、という環境を作り上げた。

 

もちろん、いっさい、といっても、日用品は店舗で購入するし、宅配便は人間から受け取るので、いっさいではないという反論はあるかもしれない。

しかし、それはサービスを購入する店員と客、という関係性であって、僕という誰かに対して何かを求めてくる他者ではない。

 

さて、こうやって、人と関わらなくてすむ環境を作り上げた僕は、その環境に身をおいてみてどう思ったかと思うと、

「毎日いろんな人と会って、昼休みや就業後にでも談笑したい」と

全く思わない。

「電話をとおして、人の声を聞きたい」と

全く思わない。

 

ましてや、

「誰かと同居し、人生の苦楽をともにしたい」だなんて、

まったく、まったく思わない。

 

ご飯を料理しながら、僕は考えた。 確かに僕はこの飯を食う、そして、そのエネルギーによって僕は確かに稼動する。そして、僕は自分で設定した「やるべきこと」のサイクルを淡々とこなす。感情もその中だ。 そして、感情を失った生命装置としての僕は、まったくもって、外部の他者との心の交流を必要としていない。 僕は決してコミュ症ではないし、スマホひとつ購入すれば、すぐに旧友と自動的につながり、この「寂しさ」というものは解消するのだろう。 だが僕はスマホを購入する資金を勿体ないと感じるし、今はそういう時期ではないと思う。「寂しさ」とは何だ、その程度のものだったのか。 自分の目的を達成することへの優先順位からすると確かにそのような行動も感情も不要な物で脇においておきたいものではあるが、実際脇においておいて忘れていても構わない程度のものなのか。

 

これは、「寂しさ」という一例ではあるが、これに限らず、「喜び」「哀しみ」「怒り」「共感」といった、人間の行動原理となる心の動き一つ一つが、自分にとってはそのときの目的と吟味して忘れ去ることができる程度の、あまり重要でないものでしかない、ということを、僕は最近、再発見したのである。

 

もともと、感情は希薄なんだろうなと思っていたし、(常日頃、人の合間で揉まれているうちは)確かに人間関係の煩わしさにうんざりしていた。そのうちその感覚は拡張して、特定の人間関係というよりも、人間というもの、社会というものに関わらないで死なずにいれたらどんなにいいだろうと思っていた。 実際そのようになった。今はもうそのような煩わしさはない。

思っていたより僕はずっとこの環境に適応していた。毎日本当にだれにも会わない。何も指示されない。だれにも気を使わない。上司はいない。最高だ。最高だ。

 

かつて、無人島に漂流した際も、僕はペンとノートがあれば毎日楽しく生きられるだろうなと夢想したことがあったが、じつのところそうだったらしい。

 

ただ僕は人間嫌いではないし、人嫌いでもない。むしろ人が好きなほうだと思っていた。 しかし行動を省みる限り、僕は本当はそうでもなかったのかもしれない、と思い振り返る今日この頃。

 

※明日になったら忘れているかもしれないから、今日ここで日記につけておきました。