荷内思考開発所

ありがちなことばでありがちなことものを考えてみる

ロボットになった自分

最近、自分から動かない限りは他者といっさい関わらなくてすむ、という環境を作り上げた。

 

もちろん、いっさい、といっても、日用品は店舗で購入するし、宅配便は人間から受け取るので、いっさいではないという反論はあるかもしれない。

しかし、それはサービスを購入する店員と客、という関係性であって、僕という誰かに対して何かを求めてくる他者ではない。

 

さて、こうやって、人と関わらなくてすむ環境を作り上げた僕は、その環境に身をおいてみてどう思ったかと思うと、

「毎日いろんな人と会って、昼休みや就業後にでも談笑したい」と

全く思わない。

「電話をとおして、人の声を聞きたい」と

全く思わない。

 

ましてや、

「誰かと同居し、人生の苦楽をともにしたい」だなんて、

まったく、まったく思わない。

 

ご飯を料理しながら、僕は考えた。 確かに僕はこの飯を食う、そして、そのエネルギーによって僕は確かに稼動する。そして、僕は自分で設定した「やるべきこと」のサイクルを淡々とこなす。感情もその中だ。 そして、感情を失った生命装置としての僕は、まったくもって、外部の他者との心の交流を必要としていない。 僕は決してコミュ症ではないし、スマホひとつ購入すれば、すぐに旧友と自動的につながり、この「寂しさ」というものは解消するのだろう。 だが僕はスマホを購入する資金を勿体ないと感じるし、今はそういう時期ではないと思う。「寂しさ」とは何だ、その程度のものだったのか。 自分の目的を達成することへの優先順位からすると確かにそのような行動も感情も不要な物で脇においておきたいものではあるが、実際脇においておいて忘れていても構わない程度のものなのか。

 

これは、「寂しさ」という一例ではあるが、これに限らず、「喜び」「哀しみ」「怒り」「共感」といった、人間の行動原理となる心の動き一つ一つが、自分にとってはそのときの目的と吟味して忘れ去ることができる程度の、あまり重要でないものでしかない、ということを、僕は最近、再発見したのである。

 

もともと、感情は希薄なんだろうなと思っていたし、(常日頃、人の合間で揉まれているうちは)確かに人間関係の煩わしさにうんざりしていた。そのうちその感覚は拡張して、特定の人間関係というよりも、人間というもの、社会というものに関わらないで死なずにいれたらどんなにいいだろうと思っていた。 実際そのようになった。今はもうそのような煩わしさはない。

思っていたより僕はずっとこの環境に適応していた。毎日本当にだれにも会わない。何も指示されない。だれにも気を使わない。上司はいない。最高だ。最高だ。

 

かつて、無人島に漂流した際も、僕はペンとノートがあれば毎日楽しく生きられるだろうなと夢想したことがあったが、じつのところそうだったらしい。

 

ただ僕は人間嫌いではないし、人嫌いでもない。むしろ人が好きなほうだと思っていた。 しかし行動を省みる限り、僕は本当はそうでもなかったのかもしれない、と思い振り返る今日この頃。

 

※明日になったら忘れているかもしれないから、今日ここで日記につけておきました。

心地よい交流のラインは人それぞれ

結局のところ、ひとと交流したい適切な距離感の理想像みたいなのって、それぞれの人にとっての想的な距離感は、ひとりひとり、別の長さを持ち合わせているのだろうと思える。

 

僕がいままでなんとなくあちらこちらの共同体(コミュニティ)に違和感を感じたのは、それぞれの理想とする距離感というのが僕には遠すぎたり、あるいは近すぎたりするように感じたからかな、と今になって振り返ればそう思えるようになった。

 

僕にとっての理想的な他者との交流の距離感というのは、たぶん多数派の価値観のそれではないと思うけれど、とはいえ、理想を崩さないでそのままでいれば、おそらく僕の中では適切な距離感を保ち続けることが出来るのだろう、と思っています。

他の人の「変化」にきたいしない

ここ数年で、自分の意識が非常にめまぐるしく変わり、性格もかなり変わったんじゃないかな、と感じることが多々あります。そして、周りを見渡してみても、おなじようにいろいろ考え方が変わったり、話す内容が深化してきた友人知人も多くいます。

しかし一方、その人なりの成長を拒んでいるかのように、あるところで変化を止めてしまったかのような人もある程度の割合でいるように見受けられます。

 

僕からすれば、「どうして彼らはいつも同じステージをぐるぐると回っているのだろう」とみえて、それが楽しそうならば構わないのですが、そうではなさそうなので、そのことに気付いた身として、「こちらにおいでよ」と変化の兆しを提示したくなるのですが、ふと、それ自体がエゴなのかなあと思い至ってこちらに文章を書き留めたまでになります。

 

あたりまえのように、「人間の意識は年齢や社会環境の変化とともに、成長し変化するもの」と思っていたのですが、この前提を変えて、「人間の意識は変化も成長もしない」と認識しなおせば、彼らが決して特殊ではなく、「変化をして生き方や思慮を深化させた友人知人たち」そして、僕自身もが、たまたま非常に幸運でラッキーだったグループだと認識することが出来るようになるでしょう。

 

そうすると、根本的な解決をせずにいつまでも同じ問題で文句を言ったり他害をしたりする人たちの行為を、「歳相応に成長していないから成長すべき」とべき論で考えたりしなくてすむんじゃないかなあと思った次第です。

アカデミックの大理石にやわらかい爪跡だけ残して、去る。

 アカデミックの大理石にやわらかい爪跡だけ残して、去る。

……というのがいまの近況ですかね。といいますかこれが今日今この瞬間の気分です。

 

 僕は人類に新しい知識をもたらすのは、やはり役目ではなくて、いや、やってみたかったし、すこしばかりはなにがしかのことができたようなので、それはよかったのです。本当に。

 それをよく実感できたので、だからこそ、携われてその一片を覗けるという立場のありがたみを増しまして感じていました。この一か月。

 

 

…でもやっぱりクリエイターなんですよね、根が。

二年前の自分の日記が見れないという変化について。

さいきん、これから自分が取り組んでいく内容について話をしたところ、「天職ですね」といわれました。

就職活動を通して、「天職」が存在しなかったことをたしかめたから、その職業を創ることにしたので、それはもう、もちろん「天職」です。

目の前に、暗澹と立ちこめる暗い雲が立ちはだかっていて、それが、ぼくにとっての「天職」です。とうてい人にお勧めできるものではありません。

もしやってみて、どうしても、それが本質的に仕事にならない、ということが確認できるのであったら、あらためて何がしかの天職に巡り合えることになるのでしょうし、もしいま天職だと思っているものがそのまま機能するようであれば、それもたぶん天職なのでしょう。

 

…まあできると思っていますけどね。

 

…さて、ところで、というわけで、二年前ぐらい、2014年度前半の「迷っていたころ」の日記を振り返ってみようかと思ったのですが、それを眺められなくなっている自分に気づきました。

それぐらい、天職という感覚は「やわ」なものなんですかね。

 

暗澹と立ち込める天職、わーい。

日本で芸術が必要とされていないのは、まだ「感情」がアウトソーシングされるほど、社会の合理化が進んでいないからかもしれない。

最初に述べておきます。私は「芸術」を作っていた側の人間です。

 

しかしながら、世間を俯瞰すると、どうもこの国では、純文学とかアートといった「芸術」作品にはなかなか市場価値がつきにくい様子です。権威のついた作家の作品は、それは「権威のあるもの」として、非常に高値がついたりはするのですが、さて、著者を隠して、作品単体で心を動かした度合と、そういった市場価値に相関性があるかといわれれば、どうでしょう。そこには疑問符が付きまとうように感じます。

 

他の国ではどうなのか、といったことに関してはまだ調査不足ではありますが、すくなくともこの国内では、あまり芸術単体は必要なものとはみなされていない様子ですね。

 

芸術とは、ひとの感情をそのような媒体に閉じ込めてあるものであり、これを鑑賞することは、普段そこまで深く感情の動きを味あわないで生活している人に、疑似的にその感情の強いシグナルを感じてもらえるようになる、という効果があります。

それが市場価値を持つということは、それだけ、その「芸術を鑑賞している」ということによってもたらされる思想や感情の幅が非日常的であるからであって、逆説的にそれらを求める人は、普段はシステム化されて合理的な中で、あまり感情の揺れ動きがなく生きてしまっているのではないでしょうか。

とすると、「芸術が必要とされている」環境というのは、より近未来的なSFに描かれているような、何もかもがアウトソーシングされているような未来―たとえていうならアーサー. C. クラークの都市と星のような―に近い世界なのではないでしょうか、とも思ったのです。

 

逆に言えば、日本ではこういったものが必要とされていない以上、ディストピア的な管理社会からはまだ遠く、ひとの感情が毎日のように揺れ動き、交錯し…といった社会なのではないか、とも思いました。

 

じっさいのところどうでしょうか。

 

ところで、すこし気がかりなのは、芸術と名乗る類の芸術は大衆人気は下火ですが、そうではなくエンターテイメントの皮をかぶった類の芸術は非常に隆盛ですね。

エンターテイメントの皮をかぶった芸術とは、大衆小説や漫画やアニメなどのことなのですが、これらの上記の芸術群と違いといえば、描く対象の違いが大きいと思います。これらは基本的に人々の友情や恋愛、組織として敵対する組織と戦う、などといった、人間の日常の交流を模したものが多く、それが、「親しくなれた」、「敵対する組織に勝利した」、というふうにもっていくことで、視聴者にカタルシスをもたらす、という基本構造になっています。

 

つまり、そういったものを「欲している」ひとは増えてしまっている…逆に言えば、友情や恋愛、信頼関係による社会集団、といったものはかなりアウトソーシングされてしまっているのではないかともうかがえるのです。これは、よい現象なのでしょうか。